P1 蝗害(こうがい)

文字数 1,430文字

 雨に追われて、松本ソロはヒイラギの木陰(こかげ)に身を寄せた。


 音の無い雨は煙がたなびくように周囲に広がり、

が積もった地表を濡らしてその香りを際立(きわだ)たせた。


 富士山が噴火してから早幾歳(はやいくとせ)、風向きによっては

が今も東京までやって来る。


は永久凍土から出土した謎の菌類、※RM菌が生物に寄生を始めた頃から飛び交っている。


※RM菌。Ribs Man Others Mycorrhiza(リブズ マン アザーズ マイコリザ)の略。アダムの肋骨(ろっこつ)から生まれた者の子孫ではない、人類と(たもと)を分かつ菌などの意味を持つ。RibのRとMycorrhizaのMで略してRM菌。


 そんな降灰(こうばい)と胞子と霧雨(きりさめ)に加え、周囲は騒々しい羽音で満ちていた。

 バッタの羽音だ。


 羽音と共に、植物の葉や茎を咀嚼(そしゃく)する音があちこちから聞こえてくる。


 降灰(こうばい)と胞子と霧雨(きりさめ)で白くかすんだ視界に、バッタの大群が飛び交っている。


 バッタはソロのゴーグルや防塵(ぼうじん)マスクに追突しては、黒い分泌液を付着させて去っていく。


 イヤフォンにバッタが羽休めに群がるものだから、外で音楽も聞けやしない。


 はるばるアフリカからヒマラヤ山脈と海を越え、サバクトビバッタの大群が関東地方へ飛来したのは年の初めの頃だった。


 永久凍土から出土した未知の菌類が全生物に寄生し始めてから久しい。
 寒さに弱いサバクトビバッタがヒマラヤ山脈を越え、ジェット気流に乗って日本へ到達できる程度に地球も温まっている。


 ソロが雨宿りしているヒイラギの葉も、いずれバッタに食い尽くされて丸裸となってしまうだろう。


 灰に残ったソロの足跡に、黄色と黒の枯れ枝のような物体が無数めり込んでいる。
 知らずの内に踏んでしまったバッタの死骸だ。


 どこもかしこも、群生相(ぐんせいそう)の暗色のバッタだらけである。


 うごめくバッタ共の気持ち悪さに、初めの頃はソロも(しび)れるような歓喜を覚えたが、ゴーグルとマスクが外せない日々が長引くにつれて、蝗害(こうがい)も今やただの日常となり果て、輝きは失せてしまった。


 うっかり外でフードを取ろうものなら、髪の毛まで(かじ)られる。


「おーい、おれも入れろ」


 バッタの羽音と咀嚼音(そしゃくおん)の中から、通りの良い声がソロの耳に届いた。


 灰に残ったソロの足跡を、一回り大きな足が(おお)う。声の主はソロの足跡に重なるように、わざと歩幅を調整しながらヒイラギの木陰(こかげ)に近づいて来た。


「昼休みになった途端、行方(ゆくえ)をくらますな」


 通りの良い声が、さっきよりも明瞭(めいりょう)に聞こえる。


 ゴーグルと防塵(ぼうじん)マスクに加えて、降灰対策素材(こうばいたいさくそざい)の服装に身を包んだ大柄なシルエットが、かすんだ視界に映った。


 無遠慮(ぶえんりょ)にやってきた大柄なシルエットがヒイラギの木陰(こかげ)に収まると、小柄なソロは押し出されてしまった。


これでは体に積もった降灰(こうばい)が雨に濡れて固まってしまう。


「別んとこ行けよ、キャピタル」
「え? なに? もっとでっかい声で言って」


 フード、ゴーグル、防塵(ぼうじん)マスクに加え、バッタの羽音と咀嚼音(そしゃくおん)で、音など聞こえたモンじゃない。


 ソロは菌根菌(きんこんきん)やきのこ同士の揮発性物質で会話ができない

である柴田キャピタルに同情した。

「腹減ったし、ダリぃから帰りてぇわ」


 キャピタルは大きなため息をつくと、灰の積もった地面に座り込んでしまった。

蝗害(こうがい)によほど参っているのか、いつもなら船乗りの労働歌『 Wellerman 』を神経を逆なでするほどハミングしているのに、今年に入ってから一度も聞いていない。


「課外授業なんてやってる場合じゃねーよ、マジで」
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