p30 バッタマン

文字数 1,159文字

 目をぎゅっと閉じて自分を抱きしめた。鼓動が痛い。


 音が聞こえる。夜はバッタ共も休むはずなのに、霜が降りるような冷気が屋内まで入り込んでいるはずなのに、羽音が数を増している。


 嵐で雨粒が窓に当たるがごとく激しい音が、じわじわと音量を上げてソロの方へ迫って来る。
痛みを伴う鼓動が苦しい。目を閉じているのに地面が回っているような感覚。変なタイミングで一瞬胸がつまる。


 バッタ共が服の上から全身を這いまわる。全身にバッタが(たか)り、服の上から(かじ)られている。途切れることの無い羽音と咀嚼音(そしゃくおん)が、大音量となって聴覚に襲い掛かって来る。ソロは思わず両手で耳を覆った。


「ソロ」


 (こも)った音が自分を呼んだ気がした。通りの良い馴染みのある声である。
 暗闇で顔を上げると、閉じた(まぶた)に光が届いた。


「家が壊れても怒るなよ」


 ソロが目を開くと、ヘッドライトが自分に向けられて眩しかった。ガスマスク以外、見慣れたシルエットである。
 キャピタルだ。
 脳内でロッシーニの『タランテラ』が流れ出す。


 キャピタルは『ウン』と縦にでっかく油性マジックで書かれた金属バットを肩に担いでいた。
 松本家に古くから存在する由緒正しいゴミで、先ほどソロが探していた武器でもある。
 誰が(つづ)ったのかは知らぬが、おそらく『コ』を入れるのを忘れ去ったために、『ウン』で済んだ運の良い武器である。


 キャピタルのガスマスクに付属されているヘッドライトで、バッタに(たか)られた(かたまり)が照らされているのが見えた。捕食者だ。


「オレん家を壊すのはにゃめろ、ぱぴたん」


「壊れたらウチ来ればいいだろ。兄ちゃんも姉ちゃんも、おまえのこと好きだぜ」


 ねーちゃんはともかく、コイツの兄貴は絶対にお断りである。


「目ぇ閉じてろよ。このバッタマン、幻覚見せてくんだって」





 幻覚。
 
 



 予感が予感で無くなってしまい、ソロは眩暈(めまい)がひどくなって、膝から崩れ落ちた。


「エグイよな。エサが見たい幻覚で釣って、捕食するなんて」


 リョウだと思っていたのは、ソロの願望が詰まった幻だった。


 自分を抱きしめていたのは、あのバッタの集合体だったのだろうか。
 だから朝になると、あんなに家の中にバッタの死体が。


「じゃあ、オメーだって危ないだろうが。願望が詰まった幻覚を見せてくれるんだから」


 ただ呼吸するだけで苦しい。こんなに現実が痛いのなら、あの甘やかな幻覚をずっと見ていたい。優しくて温かいリョウの幻に会いたい。


「ソロ。お前、おれの現実ナメてんだろ」


 キャピタルが金属バットを振り下ろすと、おびただしい数のバッタが室内へ飛び散った。
 生きているものも砕けたものも黒い分泌液とともに激しく飛散し、臭気が部屋中に広がった。
 ソロの体に逃げ延びたバッタが(たか)る、キャピタルにも(たか)る。
 生きたバッタが逃げ惑い、部屋中バッタ共で埋め尽くされている。
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