一章:竜之卵の行方〈序〉

文字数 8,825文字

「ごちそうさまでした」
 九月下旬のとある昼下がり。安くて早くてうまい立ち食い蕎麦のきつね蕎麦を完食し、腹と心を満たした与輿彦(よぐるまひこ)は軽快な足取りでアスファルトの道に舞い戻った。
 陽光を浴びた黒髪が、一瞬、黄色い輝きを放つ。
 平日の昼間だが秋葉原の歩道はそこそこ混み合っている。念のため周囲を見回すが薄手にジャケットにジーパン、リュックという可もなく不可もない出で立ちの与輿彦に注意を向ける者は一人もいなかった。そのことに満足感と優越感を覚えついにやけてしまったが、自分の行動が褒められたものではないと自覚している与輿彦は、戒めを込めて口元を片手で覆った。
 一番の目的だった最新グッズと身内へのお土産は駅前のコインロッカーでお待ちいただいている。あとは帰るだけ──というか早く帰らなければ一人で抜け出したことがばれ、やっかいなことになるだろう。
「引き時だな」
 やり残したことがないか念のため手帳を確認してから与輿彦は駅に向かって歩き出した。しかしその足はすぐに止まった。見覚えのある色彩が視界の端に飛び込んできたのだ。車道の向こうに視線を投げると高さはまちまちだが行儀よく並んだビルの一棟──家電量販店の壁にはめ込まれた巨大な液晶画面に、それは映っていた。
 シルクのクッションに半ば埋もれるように鎮座する完璧な球体。透明度はなく、鮮やかな青をはじめ、暗い赤や黄色など様々な色が水中から仰ぎ見た水面のように揺らめいている。表示されたテロップには【〈竜之卵〉返還】と書かれていた。
 歩道を行く人々の間から、「綺麗」「はじめて見た」「欲しぃ~」「売ったら億いくらしいぞ」「あれが竜之卵かぁ」など感嘆の声が上がり一人また一人と足を止める。
『先日、国立博物館の倉庫で発見された宝石が、鑑定の結果、本物の竜之卵と判明しました。竜之卵は売買する場合、登録が義務づけられていますが、この竜之卵は未登録のもので密輸された可能性が高く竜之国に返還される運びとなりました』
 男性アナウンサーが朗々と原稿を読み上げていく最中、画面が切り替わり、太平洋の上空に浮かぶ天之大地を真横から撮った映像が映し出された。
 竜之国がある天之大地は球体を真っ二つにして切り口の方を上にした形をしており、切り口部分以外は分厚い海水に覆われているため太平洋の海上から見上げると巨大な海水の塊が空に浮かんでいるように見える。飛行機が開発されてから各国が何度も上陸を試みているが未だ近づくことさえ許されない、天空の孤島だ。
 しかし往来する方法が皆無というわけではない。日に三回、決まった時間に二時間ずつ、天之大地を覆う海水が太平洋へと降り注ぎ、巨大な円柱を作り出す。その間だけ、潜水可能な船で行き来することができるのだ。
 再び画面が切り替わる。映し出されたのは深い黒の狩衣を纏った麗人だった。狩衣には橙色の糸で丸に五芒星が刺繍され、腰に太刀を佩き、結い上げた赤みがかった豊かな黒髪に藍玉があしらわれた簪を挿している。笑みをたたえた口元や目尻からは重ねた年月の厚みによって生じた上品な色気が薫っている。
 傍らのテロップには【竜之国 陰陽官大将 縹之李子(はなだのりこ)】と書かれていた。
『返還式には、竜之国より竜皇の弟君である皇太子殿下と竜を管理している陰陽官の縹之李子大将がご出席なされ、無事、竜之卵は返還されました』
 スーツを着こなした初老の国立博物館の館長は、幼子の握り拳ほどの大きさしかない竜之卵を大ぶりなクッションごと李子に差し出した。画面を白く塗りつぶすほどのフラッシュが李子に向けられる。李子は動じることなくクッションごと竜之卵を押し頂くと踵を返し、少し離れた位置で待機していた男の前に跪いた。
 黄丹の袍を纏ったその男は、黄色みを帯びた黒髪をオールバックにしていた。年は二十代半ばほど。背は高いものの厚みは薄い。しかし場の空気に呑まれることなく静かに李子を見据え、差し出された竜の卵を両手で掬うように持ち上げる姿は、堂に入っている。テロップには【竜之国 皇太子 黄櫨染之与輿彦】と書かれていた。
 同じ名前の他人──などではなく、画面に映っているのは、与輿彦自身だった。
「若いな皇太子」「超能力者なんでしょ?」「竜之国に生まれたかった」「天之大地って行くのにいくらくらい必要なんだろう」「大将、めっちゃ美人じゃない」「人間を喰う化け物がいるんだって」「髪の毛の色が不思議」「空が飛べるって本当?」
「気持ちわりぃ。人間のふりしやがって」
 おおむね好意的な観衆のざわめきの中から、それはすっと飛び出し照れくさそうに頬を指で掻いていた与輿彦の胸を冷たく貫いた。透かさず胸元に手を当て「個人の意見、個人の意見」と呪文のように口の中だけで呟く。
 竜之国は日本語を公用語にしている日本の友好国だが、場所が場所なので気軽に渡航することはできず、提供される情報も映像も少ないため、大真面目に『竜之国は存在しない』『我らを侵略しようとしている地球外生命体』『集団幻覚』等々、荒唐無稽な説を唱える者が後を絶たない。
 実際、竜之国は秘密主義だと与輿彦も実感している。
 一昨年の年末に行われた君主の即位式を兼ねた陰之大祭(いんのたいさい)も、とあるテレビ局のニュース番組で独占生放送されたものの出国時にデータはすべて置いて行く契約をしていたため二度と放送されることはなかった。一視聴者がスマートフォンで撮影した映像が動画サイトに数本、投稿されているが、どれも手ぶれしまくりのひどい出来にも関わらず、幻の映像として今なお再生数は伸び続けている。
「あのっ!」
 そそくさと歩き出した与輿彦の左手を一回り小さな手が包み込むように掴んだ。
 振り返るとメイド服を着た小柄な少女が上目遣いで与輿彦を見ていた。
 十代半ばから後半ぐらいだろう。化粧をしてなお幼さが透けている。髪はツインテール。スカートの丈は膝上だがニーハイを履いているので露出面積は少ない。
「すみません。昼飯はもう──」
「客引きじゃありません! ──その、怖い人がいて……」
 後半、少女は声を潜め、チラッと背後に視線を送った。与輿彦も目だけ動かしそちらを見ると少し離れた街路樹の陰に派手なシャツを着た金髪の男が佇んでいた。時折、少女に向けられる視線は鋭いのにねっとりとしている。
「最近、つけ回されているんです。でも人がいると近づいてこないんです。いつもはお店の子が一緒なんですけど、今日は忘れ物をしてしまって、急いで取りに帰らなくちゃいけなくて……だから家までついてきてもらえませんか? すぐ近所なので、お時間は取らせません。ただ横にいてくれるだけでいいんです!」
 少女は与輿彦の左手を掴んだまま、その両手を胸元に寄せた。与輿彦の左手にふわりと柔らかな感触が伝わってくる。
 内心の動揺を押し隠し、与輿彦は平静を装って問いかけた。
「あのそのえっと……ど、どうして俺なんですか? 初対面ですよね」
「それ、訊いちゃいます?」
 ぽっと頬を色づかせながら少女は指の腹で与輿彦の左手を撫でた。見上げてくる瞳が先ほどよりも熱っぽく潤んでいる。
 与輿彦は、ごくりと唾を呑み込んだ。

 三十分後──パイプ椅子に縛り付けられた状態で与輿彦は深々と嘆息した。リュックは取り上げられジャケットは所々すり切れよれている。与輿彦は心の中で「このジャケット気に入ってたのに……バチが当たったな」と呟いた。
 場所は廃ビルの三階。調度品も仕切りもすべて取っ払われたフロアの床には埃が雪のように積もっている。背面にはコンクリートが剥き出しの柱がそびえ、前面にはガラの悪い若い男が十人ほど控えている。先ほど見かけた派手なシャツの金髪男もその中にいた。与輿彦をこの廃ビルの前まで案内したメイド姿の少女は、男たちの向こうで柱に背を預けつまらなそうに自身の爪を眺めている。待ち構えていた男たちに与輿彦が捕まり拘束されている間も少女は驚きも慌てもせず冷めた目で男たちを見ていた。男たちと少女がグルなのは火を見るより明らかだった。
「さて、おニィさん。うちのメイドがお世話になったみたいだね」
 高そうなスーツを着た男が与輿彦に近づいてきた。芝居がかった軽薄な笑みを浮かべているが、手には折り畳みナイフを抜き身の状態で構えている。
「やっぱり客引きだったんだな」
 与輿彦が心底残念そうに言い返すとスーツの男は声を出して笑った。
「いいねぇおニィさん。センスがいい! まぁそういうわけだから指名料だけでも出してもらわないと、こっちも困るんだよ」
「参考までに、おいくらですか?」
「竜之卵、一個で手を打とう。安いもんだろう?」
 スーツの男は腰を曲げ、ずいっと鼻先を与輿彦に近づけた。
 煙草と香水が強く香り与輿彦は少しむせた。
「それって天之大地にしかない貴重な宝石だろ? なんで俺が……」
「確かに。日本はおろか世界中で成金やコレクターが喉から手が出るほど欲しがってる希少な宝石だ。でもな、天之大地じゃ赤ん坊から年寄りまで、お守り感覚で持っているって話を小耳に挟んだんだ。なら、竜之国でも特に高貴なご身分であるおニィさんが持っていないはずがないよなぁ?」
「──俺が何者か、わかった上での犯行ってわけか」
 与輿彦が眉をひそめると、スーツの男は「くくっ」と喉の奥で低く笑った。
「否定しないんだな。全国放送で顔面をさらされたあとだもんな」
 仮面のような笑みを貼り付けたままスーツの男は与輿彦の前髪を無造作に掴み、ナイフを首筋に添えた。冷たい金属の感触に与輿彦の身体が反射的にすくむ。それでも怯えの色を見せずにいるとスーツの男はふっと笑みを消した。
「何だぁその余裕……あぁあんたらって超能力が使えるんだっけ? 空を飛んだり、火を出したり……でもさ、それってあのお空に浮いてる島での話だろ? 日本じゃ無力なんだってな」
「お詳しいことで」
「取引相手について事前に調べておくのはビジネスの基本だ。覚えておきな。まぁ次があるかどうかは、あんたの返答次第だけどな」
「…………」
「なんだよ、だんまりかよ。……なあ、あんたのお国でも罪を犯して死んだら地獄に落ちるんだってな。だから正しく生きましょうって子供に言い聞かせるんだろう? くだらねぇ」
「──ッ!」
 冷え冷えとした目で与輿彦を見下ろしながらスーツの男はナイフを翻し躊躇うことなく与輿彦の太ももに突き刺した。
「死んだあとのことなんか知ったこっちゃねぇんだよ! こっちは今! 現在! ナァ~ウ! 生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ! だからな、おニィさん、決断は早い方がいいぞ。大怪我して生活に支障が出るのは──」
 嫌だろう? と続くはずだった言葉はスーツの男が真横に吹っ飛んだことで途切れた。横手から弾丸のような速さで飛び出してきた人影に跳び蹴りを喰らったのだ。
 スーツの男は「ぐぅっふ」と意味のない声を発しながら水切りの石のように床の上を何度か跳ね、壁にぶつかり動かなくなった。
 埃が舞い上がりフロアが白に染まる。そこにきてようやく異常事態に気づいた男たちが「なんだっ!」「誰が兄貴をっ!」とがなり立てたが、それもすぐに「ぐっ」「うっ」「ぐへっ」といった呻きを最後に聞こえなくなった。
 五分後、フロア全体を突風が駆け抜け、埃が晴れた。
「ちょっと! 何が起きたの! 説明して──ッ!」
 柱に背中を預けたまましゃがみ込んでいた少女は、わめきながら勢いよく立ち上がり、床の上に横たわる男たちを見て絶句した。全員、完全に気を失っているようだ。
「な、何これ! 何! なんなの⁉」
 こみ上げてくる不安や焦りを少しでも誤魔化そうと少女は必要以上に大きな声を出しフロア内を見回した。すると少し離れたところにまだ立っている男がいた。
 派手なシャツを着た金髪の男だ。こちらに背を向けている。
「ねぇ! 何があったのよ⁉」
 少女は金髪の男に駆け寄った。しかし、すぐに様子がおかしいことに気づき足を止める。直後、金髪の男はくずおれ、その向こうにいた人物が視界に飛び込んできた。
 少年だ。年は十代半ばくらい。小柄で体つきは細く、スウェットにカーゴパンツというシンプルな出で立ちに大ぶりのウエストポースを腰につけている。顔立ちは整っているが美形と言うより愛嬌がある造りをしており、白い医療用眼帯で右目を覆い、何故か金属性と思しき楊枝のようなものを銜えている。
 少年は少女の方に顔だけ向け楊枝のようなものを銜えたまま器用に口を開いた。
「最初にスーツの野郎に跳び蹴りを喰らわせて、埃が舞い上がったから視界が悪いうちに一人ずつ潰していって、全員伸したから突風で埃を払っただけだよ」
「な、何言ってんの? 突風で埃をって、そんなこと……っていうか、あんた誰⁉」
「お望み通り何があったか教えてやったのに随分な物言いだな。まぁ別にいいや。俺のことより自分のことを気にした方がいいぞ。友好国の要人を拉致監禁、恐喝の上、怪我も負わせようとした……立派な凶悪犯罪者の仲間入りだ。ご愁傷さま。これから先、今まで以上に生きづらいだろうが罪を重ねないように頑張って生きてくれ」
 少女の顔から血の気が失せ、ふらふらとした足取りで後ずさる。
「何それ……わ、私は知らない! 私はただ、言われたとおり男に声をかけて、ここまで案内しただけで……そ、そうだ! 脅されてたの! 手伝わないとひどいことするって! だから……」
「そういう言い訳は検非違使──じゃなかった警察でするんだな。あんたのことを気絶させなかったのは格闘技未経験で武装していなかったからだ。話が聞きたいとか同情とかタイプだからとかじゃない。今、この場であんたは加害者でしかないんだよ」
 言いながら少年はウエストポーチから縄を取り出した。
「でもそのままだと逃げられる可能性があるから他の奴ら共々拘束はさせてもらう」
 少女は口をパクパクさせながらその場にしゃがみ込み、そのまま意識を失った。
 ため息を一つ吐いてから少年は少女に近づいた。
「そこまでだっ!」
 フロアに怒声が響き渡った。
 少年が声のした方に顔を向けると最初に跳び蹴りを喰らわせたスーツの男が与輿彦の背後に立ち鬼の形相でこちらを睨みつけていた。額には脂汗がびっしりと浮かび頬や顎には擦り傷、鼻血も出ている。息も不自然に荒い。少年が思わず「大丈夫か?」と声をかけてしまうほどスーツの男は満身創痍だった。
「うるせぇっ! 人を虚仮にしやがって! 荷物を捨てて床に腹ばいになれ!」
「肋骨が折れてるかもしれないから大声を出すな。あんたみたいな輩でも死なれたらしばらく夢見が悪くなる。俺の安眠のために大人しくしてくれ」
「黙れ黙れっ! 俺の言うとおりにしろ! さもないとこいつを殺す!」
 昏倒した部下からもぎ取ったサバイバルナイフを与輿彦の首筋に突きつけながらスーツの男はがなり立てた。少年は若干面倒くさそうに眉根を寄せ、
「そんなナイフでその御方を殺せるわけないだろう」と、空恐ろしいことを宣った。
 普通ならば一笑に付すような戯言だ。実際、スーツの男も笑いそうになった。しかし自分が拘束している相手の素性を思い出しゾッとする。
『天之大地に住んでいる連中は、人間じゃない』
 今回、自分たちに仕事を回してくれた男がいつだったか笑いながら話していた。男は自分のような小悪党ではなく本物の悪人だった。その時も続けて『だから何をしても罪悪感なんて湧かない。まぁ俺の場合、人間相手でも湧かないんだけどな』と言って、部下だった物体をビルの屋上から突き落とした。
 そのぶっ壊れた道徳観が、たまらなく格好良かった。
 しかし今、その言葉がもたらすのは不安と恐怖だけだった。
 ふと爪先に何かが触れた。視線だけ落とすと金属と木材が合わさった細長い物体が床に転がっていた。最初、それがなんなのかスーツの男にはわからなかった。しかしわずか数秒でパズルのピースが嵌まるように記憶と目の前の物体がカチッと合致した。それは、与輿彦の太ももに突き刺した折り畳みナイフの柄だった。
 まさかまさかまさか──と思いながら与輿彦の太ももを見ると、ナイフの柄はなく、ズボンに小さな……まるでナイフを刺したような裂け目があり、そこに銀色の粉が積もっていた。スーツの男の中にあった理性や知性、狡猾さや冷静さが弾け飛んだ。
「うっ──うわああぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!」
 叫びながら大ぶりのナイフを振りかぶり与輿彦目がけて振り下ろす。
 しかし与輿彦の方が速かった。スーツの男がナイフを振りかぶるや否や拘束を解き、パイプ椅子ごとスーツの男の腹部に蹴りを喰らわせたのだ。
「ゥガッ──!」
 パイプ椅子もろとも柱に叩きつけられたスーツの男は、白目を剥いて倒れた。
「お見事です!」
 先ほどまでの不敵な態度から一変、少年はとびっきり無邪気な笑顔で歓声を上げ、すぐにスーツの男を縛り上げた。そのまま手際よく男たちと少女を拘束していく。
 それでも人数が人数なので、恐縮する少年を説き伏せ途中から与輿彦も手伝った。縄は少年のウエストポーチに十分な量が用意されていた。思わずうろんな顔をしてしまった与輿彦に少年は爽やかな笑顔で「備えあれば憂いなしです」と言った。
「もういないか?」
 目につく範囲の輩を縛り終え、取りこぼしがないかフロアを見回していると、与輿彦のリュックを腕に抱えた少年が近づいてきた。
「全員拘束できたようです。お疲れさまでした。こちらは向こうにありました」
「ありがとう」礼を言いながら与輿彦は少年が差し出したリュックを受け取った。
「それから、助けてくれてありがとう」
「竜之国の民として当然のことをしたまでです」
 少年は胸に手を当て恭しく頭を垂れた。至竜には至竜がわかる。与輿彦も眼前の少年が同族であることは最初の跳び蹴りの時点でわかっていた。なので現在蓑虫のような格好で床に転がっている男たちと少女よりかは幾分冷静でいられたのだ。
「しかし私の助けなど殿下には無用だったのではありませんか?」
 与輿彦が訝しげに眉根を寄せると少年は手招きをしてしゃがみ込んだ。二人がいるのは、先ほどまで与輿彦がパイプ椅子に拘束されていた柱の前で、足元には与輿彦を縛っていたロープがわだかまっている。少年はそのロープの端の辺りを手に取った。
「ここ、綺麗に刃物で切られています。刃物は五行では金気に当たり、相生の関係において金気は土気より生じます。そして皇太子となられる御方は土属性に限られます。竜気の扱いが難しい大海の島でロープを切ることができる刃物を零から生成できるような御方に助太刀など、蛇足もいいところだと思ったのです」
「…………」
 与輿彦は決まり悪そうに後頭部を掻き、隠し持っていたものをロープの上に放った。それは柄まで金属でできた人差し指ほどのナイフだった。窓枠から入ってきた陽光を受け、ぎらりと輝いたかと思うと、次の瞬間、うまく固められなかった泥団子のように崩れてしまった。
「警戒を解いていただけたようで何よりです」
 立ち上がった少年が慇懃に頭を下げる。
「そっちが武装を続けているから念のため持ってたんだよ」
「武装? ──あぁ、これのことですか?」
 少年は銜えている楊枝のようなものの先を摘まんだ。
 与輿彦は頷き「それ、竜之鱗を加工したものだろう?」と言った。
「はい。私は竜気が極端に少ないので、こうして竜之鱗から竜気をわけてもらっているんです。勿論、持ち出しの許可は取っているので違法じゃないですよ。お見苦しいとは思いますが、一寸先は闇かもしれないので武装は続けさせてください」
「慎重なんだな、若いのに」
「昔、痛い目に遭っているので」
 少年が浮かべた笑顔には確かな自嘲が交じっていた。
 パトカーのサイレンが近づいてきた。男たちを拘束したあと、警察を含め各所に連絡を入れておいたのだ。与輿彦と少年は警察を誘導するため正面入り口の前まで移動した。埃っぽい場所にいたため生ぬるい空気も新鮮に感じられた。
 ふと隣を見ると、少年が物憂げにビルを見上げていた。
「どうした?」
「いえ……今回のことを切っ掛けに彼らが足を洗ってくれたらいいなと思って」
「結構きついこと言ってたよな? 言い方も堂に入ってたし」
 与輿彦が指摘すると少年は、かぁっと頬を赤らめた。
「あっあれは、舐められちゃいけないと思って、頑張ってそれっぽく演じていただけです! ──あっ喉! 喉渇いてますよね⁉ 俺、買ってきます! ──ぶへっ‼」
 恐ろしく強引に話題を変えた少年は丁度視界に入った自動販売機に向かおうとして足をもつれさせ転倒した。先ほどまでならず者と対等に渡り合っていた人物とはとても思えない情けない姿だが、こちらの方が少年の本質なのだろうと直感した与輿彦は、自動販売機で缶入りのスポーツドリンクを二本、購入し、立ち上がって服についた汚れを払っている少年に「ほら」と言って一本差し出した。少年は恐縮しながらそれを受け取り「ありがとうございます」と頭を下げた。
 与輿彦は「うん」と頷きスポーツドリンクを喉に流し込んだ。じわりと喉が潤う。一気に半分ほど飲んだところで「そういえば」と思い少年の方に顔を向けた。
「まだ名乗ってなかったな」
「よくよく存じていますが?」
「恩人にだけ名乗らせるのは据わりが悪いだろう?」
「……あぁ、そういうことですか。わかりました。お付き合いします」
 二人はどちらからともなく向かい合い姿勢を正した。
「竜之国皇太子、黄櫨染之与輿彦だ」
「陰陽官本部西区第三班所属陰陽生、土属性の柃之速午(ひさかきのはやうま)と申します。現在の目標は、黄櫨染之扇少将の部下になることです」
「えっ?」唐突に出てきた姉の名前に与輿彦は目を丸くした。
 得意げに微笑む少年──速午の髪と左目が螺鈿のように輝いた。
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