二章:陰陽師の資質〈一〉

文字数 15,181文字

 からんから…こつっ…こつっ……ころんころん…かっかっ…こつっ……

 宮城である雲郭(うんかく)の中にあり、御所である竜之宮(りゅうのみや)の北東に位置する此花之院(このはなのいん)は、代々竜皇の姉妹や娘に譲渡されてきた寝殿造りの離宮だ。
 その南庭に面した寝殿の簀子で残暑の厳しい陽光を受けながら御年十一歳の一之姫──扇は一心に組紐を作っていた。手つきは軽やかで無駄がなく、口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
 使っているのは円形の板を四本の足で支えている丸台と呼ばれる組台で板の真ん中には大きな穴が開いている。糸は片端をすべて束ねて重りと共に穴の中に下ろし、もう片方の端を色ごとに束ねて組玉という重りに括りつけ円の外側に垂らしている。この垂らした方の糸を順番に交差させることによって穴の中に下ろした重りの上に組紐が形成されていくのだ。

 ころん…かつっこつっ……こっ…かろんから…こつっこつっ…かっ……

 組玉は木製だが中心部に金属が仕込まれているのでそこそこ重い。扇の繊手が糸を繰るたびに組玉と組玉、あるいは組玉と台を支える足がぶつかり、小気味いい音が生じる。音楽と言うには無骨だが不思議と心が穏やかになる妙なる音だ。
 扇は濃い蘇芳色の長袴を穿き、萩経青の単重の上に紗でできた蘇芳の表着と、同じく紗でできた女郎花の小袿を重ねていた。女郎花、蘇芳、萩経青は表地と裏地の色の組み合わせで作り出す色目の名称で、女郎花は表の布地が黄、裏の布地が緑。蘇芳は表も裏も蘇芳。単重は裏地のない単衣を重ねて表と裏の色目とするので、萩経青の場合、蘇芳の単衣が表の布地、緑の単衣が裏の布地の役割を果たしている。
 背を覆う豊かで艶やかな黒髪は、色とりどりの組紐によって一つに束ねられ、その下からのぞく細い首は、うっすらと汗ばんでいる。

 かろん…かろん…こつっ…かつっ……
 シャキ──ジャッ──ショキッショキ──

 組玉が奏でる音に奇妙な音が重なった。
 扇は、手を止め音のする方向に視線を向けた。
 寝殿造りの此花之院は、南庭に大きな池が造られている。そこに水を引くため敷地の北側から寝殿と東対を繋ぐ透渡殿の下を通る人工の小川──遣水がある。音はその遣水の方から聞こえてきた。
 女房たちは厨房でおやつの準備をしている。来客の予定もない。
 何よりも扇の直感が告げていた。
「ヒソカだ!」
 ぱっと軽やかに立ち上がり小走りで透渡殿の手前まで移動する。

 シャキショキ──

 ヒソカは天之大地固有の怪異で靄のような姿で生じ凝ることで形を得る。
 その形は凝った気の種類や場所、状況によって千差万別だが、見た目、生態、能力、属性などは大海の島(日本)の妖怪に酷似している。
 感情を持ち言葉を使い思考するが靄の集合体でしかないので物理的な干渉は、首筋を撫でるか精々手首足首を掴む程度のことしかできない。
 主食は竜気で、普段は空を漂う微かな竜気で糊口を凌いでいるが、至竜の存在を認めると、隠形してちょっかいを出したり奇っ怪な見た目で驚かしたりして、驚異や恐怖といった感情と共に溢れ出た竜気を喰らう。
 ちなみに栄養にはならないが食べ物を摂取することもできる。

 ショキシャキ──

「水辺から聞こえる奇怪な音ということは、小豆洗いかな?」
 キラキラと目を輝かせながら高欄に手をかけ身を乗り出すと、透渡殿と池の丁度中間当たりの畔に黒い靄のようなものがわだかまり、ゆらゆらと揺れ動きながら音を発していた。その形は小柄な人が遣水に向かってしゃがみ込み、桶のようなものに手を突っ込んでいるようにも見える。
「わぁっ!」
 扇は囁くような声量で感嘆の声を上げた。

 ショキショキ──ジャッジャッ──シャキッ──
 …ずき…ぎ………か……ひ…とって…いましょ………

 音にしゃがれた声が交じる。同時に靄の形が先ほどよりも明確になり、小柄な人が桶に両手を突っ込み何か磨いでいるようにしか見えなくなった。更にその指先や足先からじわじわと色彩が生じ……──見る間に黒い靄の塊が細い身体に袖のない粗末な着物を巻き付けた小柄な老人に変わった。
 目玉がやたら大きく、笑みを浮かべた口の端からは牙がのぞき、桶に突っ込んだ手と素足の先に指はなく、それぞれ二股に分かれ鉤爪のように鋭く尖っている。
「やはり小豆洗いだ!」
 予想が当たった喜びから扇はつい大きな声を出してしまった。
 するとそれまで淡々と小豆を洗っていた小豆洗いがピタリとその手を止め、ゆらりと顔を上げた。黄色味がかった大きな目玉をギョロリ、ギョロリと勿体ぶるように動かしてから、ゆっくり扇に焦点を合わせ──

「小豆磨ぎましょか……人取って食いましょか……」

 ニィッと笑った。
「────ッ!!!!!」
 扇は歯を食いしばりなんとか悲鳴を呑み込んだ。胸を占めていたわくわくした気持ちは消え去り、背筋が寒くなった。すぐに距離を取るべきだとわかっているのに身体が思うように動かず、周囲の空気も心なしか重く冷たくなったように感じられた。
「小豆磨ぎましょか……人取って食いましょか……」
 小豆洗いは自身の優位を確信したのか、しゃがれた声で歌を口ずさみながら桶を小脇に抱え、遣水に足を突っ込んだ。
 一歩、一歩、ほとんど水音を立てることなく扇との距離を詰めてくる。
 しかし、遣水の丁度真ん中当たりで小豆洗いは足を止めた。妙な気配を感じ取ったのだ。念のため後ろを振り返るが何もない。どうやら気のせいだったらしいと安堵しながら首を前に戻す──と、薄紫色の壁ができていた。
 はて──と小豆洗いが思ったのと同時に頭を掴まれる。
「彼女を狙ったのが運の尽きだったね。さようなら、儚くも恐ろしい隣人よ」
 悼むような男の声を最後に、小豆洗いの、意識、は──……。

 小豆洗いだった黒い靄が霧散すると、遣水の上には薄紫の狩衣をまとった陰陽師の青年だけが残された。
 扇の婚約者、蘇芳之天馬だ。
「ご無事ですか?」
 顔を上げた天馬はそのまま空を滑るように移動し扇の目の前で留まった。表情からも声音からも扇を案じていることがわかる。
 扇は乗り出していた身体を戻し「大丈夫。怪我はない」と応えた。
 すると天馬は滞空したまま器用にスニーカーを脱ぎ、懐から取り出した懐紙を高欄の隙間から簀子に敷き、その上にスニーカーを置いた。一連の動作に無駄はなく、すでに何度も繰り返していることを物語っていた。
「そちらに行きたいのですが、よろしいですか?」
「…………」
 柔らかな声で許可を求められ、扇はややばつが悪そうにしながらこくりと頷いた。
 簀子に降り立った天馬は、軽く両手を広げながら再び許可を求めてきた。
「抱き上げてもよろしいですか?」
「…………許す」
 扇も軽く両手を広げた。
「失礼します」と断りを入れてから天馬は軽々と扇を抱き上げた。狩衣に焚きしめられた香が仄かに薫る。扇は天馬の胸に寄りかかり「ほぅ……」と安堵の息を吐いた。張り詰めていた気持ちが解け、今の今まで緊張していたのだと自覚する。
「……すまない」なんとなく言えなかった謝罪の言葉がするりと口から滑り出た。
「ヒソカが出たら近づかず誰かに助けを求める……幼児だって知っていることだ。しかし私は、なんの根拠もなく大丈夫だと思ってしまった」
「至竜ならば誰でも一度は通る道です。──怖かったでしょう」
「あぁ。小豆洗いに認識された瞬間、急に……今までヒソカを見ても、そんなことはなかったのに」
「複数人いるとヒソカも目移りしてしまって畏怖が分散されるとされています。だから、一人の時にヒソカと向き合うと予想外の恐怖に襲われて動けなくなってしまうことが大人でも多々あるんです」
「言われてみれば一人でヒソカと相対したのは、はじめてだったかもしれない」
「実害のあるウツロばかり恐れられていますがヒソカも我らの天敵ということです」
「うん。身に染みたよ」
 天馬は満足そうな笑みを浮かべ、そのまま簀子を歩き出した。
 扇は少し恥ずかしかったが見られたとしても気の置けない女房や身内なので開き直って身体の位置を調整したりした。かなり好き勝手動いたが天馬は小揺るぎもしなかった。
「天馬くんは仕事明けかい?」
「はい。時間ができたので少し寄らせていただきました。手ぶらですみません」
「別に土産や特別なことがなくとも君と会えるだけで私は嬉しいよ。これからおやつだから一緒に食べてくれたら最高に嬉しい!」
 扇が笑いかけると、天馬は一瞬きょとんとしてから、優しく微笑み「では、ご相伴にあずからせていただきます」と言った。
「そういえば、小豆洗いに何をしたんだい? 君が小豆洗いの頭を掴んだ直後、黒い靄に戻ったように見えたけど……」
「小豆洗いは水気が強いものが多いので、竜気に土気を付与して少し放出しました」
「土剋水だね。あぁ、そうか、だから掌が一瞬、黄色く光ったんだね」
 そうこうしているうちに二人は先ほどまで扇がいた辺りに辿り着いた。
 天馬の腕から降りた扇は、一度母屋に引っ込み円座を持ってきた。
 簀子に残された天馬は、そこに置かれた丸台に気付き戻ってきた扇に問いかけた。
「組紐を作っていたのですか?」
「そうだよ。髪を結うのに使っていたものが武術の授業中に切れてしまってね」
 天馬に円座を渡し、扇は見えない竹刀を握り構えた。
「模擬戦をしたんだ。互いに竹刀で肉体強化と物質強化あり。相手は全員年上の殿方ばかり。皆、経験も技術も上で苦戦したよ。中でも乙木之一族の子が手強くてね。私は一か八かの賭に出た。一気に距離を詰め相手の虚を突いたんだ。私は賭に勝ち、胴を取って勝利を収めた──その際、相手の竹刀が組紐に触れてしまってね。切れたというか、ほつれてしまったというわけだ」
 扇は身振り手振りを交え、白熱した模擬戦について語った。
 ふと天馬を見ると円座を手にしたまま楽しそうにこちらを見ていた。
 面映ゆくなった扇が、ぱっと顔を逸らした直後、女房がおやつの準備ができたと知らせに来た。女房は耳まで真っ赤になった扇と傍らに佇む天馬を見て微笑ましそうに「あらあら」と言った。

     ☯

 女房たちが用意してくれたおやつはフルーツゼリーだった。
 色鮮やかな果物を内包した半球状の透明なゼリーが高坏の中央に据えられた硝子の器に盛られている。なんとも涼やかな一品だ。
 扇は手を合わせ「いただきます」と言ってから、つるりとしたゼリーの表面に銀色のスプーンを差し込み、一口サイズの桃を周囲のゼリーごと掬い上げ口に運んだ。ひんやりとした柔らかな果肉をゼリーごと咀嚼すると爽やかな甘味が口の中に広がる。喉越しも滑らかで、籠もっていた熱がすっと引いていくような清涼感に、扇は恍惚としながら「ほぅ」と息を吐いた。
 正面を見ると胡座を搔いた天馬が笑顔でこちらを眺めていた。
「扇姫は何でも美味しそうに食べますね」
「美味しいからな! 天馬くんも温くなる前に食べた方がいいぞ」
 天馬は「では、いただきます」と言って銀色のスプーンと硝子の器を手に取った。

「ヒソカが共食いすることでウツロになることは知っていたが、至竜の血を一滴取り込んだウツロの方が強いというのは初耳だ」
「食べたヒソカの数が五体以下なら至竜の血の方が、竜気の量も質もいいんですよ。それに至竜の血肉から記憶の一部を得るので知恵が働くんです。そうなると一筋縄ではいきません」
「へぇ食べた相手の記憶を得るって本当だったのか。都市伝説のようなものだと思っていたよ。しかしそうなると竜之卵を取り込んだウツロが、卵の生前の姿になれるっていうのも事実なのかい?」
「はい。何度か見たことがあります」
 やや物騒な会話を和やかに交わしつつ扇と天馬はフルーツゼリーを胃に収めていく。速午が実地で培った知識は、扇にはとても新鮮かつ刺激的で思わず前のめりになってしまうことが多々あった。
「ウツロと言っても色々なんだな。興味深い」
「扇姫は、将来、陰陽師になりたいとお考えですか?」
 天馬からの問いかけに仕入れたばかりの知識を噛みしめていた扇は、眉間に皺を寄せ「う~ん」と唸った。
「まだ選択肢の一つかな。陰陽師は最低でも二人で行動するだろう? 私は飛べないから相手の動きを制限してしまうかもしれない。それは大変よろしくない。他にも私は少々厄介な体質だからな……」
「ならば私が扇姫の相棒になりましょう。扇姫の体質をよく存じているので臨機応変に対応できます。扇姫は竜気の量が多く五行もすべて使えます。もっと体力がつけば即戦力になりますよ」
 笑顔を浮かべながらも視線と声音は真摯な天馬に、扇は目を瞬かせた。
 十中八九、天馬は本気だ。──本気で扇が陰陽師を目指すならば、空を飛べないことや特異な体質によってその道が閉ざされるならば、本当に相棒になってくれるだろう。扇にはそれだけの実力があると思ってくれているのだ。
 その期待と信頼がくすぐったく──扇は、「ふっ」と吹き出した。
「ふふふ、あははははっ! それはいいね、名案だ! 陰陽師になれば、ずっと天馬くんと一緒にいられるというわけだ!」
 笑い出した扇に天馬は気を悪くすることなく、ただ笑みを湛えていた。
 ひとしきり笑ってから、扇は蜜柑を頬張り喉を潤した。
「そういえば、今年の紅葉狩りは、ばらばらで行くことになりそうなんだ」
射干玉(ぬばたま)さまの立太子が近いからですか?」
 パイナップルを嚥下した天馬が透かさず問いの形で確認してくる。
「そうだよ。話が早いね」扇はにっと口角を上げ、やや芝居がかった口調で続けた。
「私と射干玉が十二歳になる冬至の日、我が兄弟は皇太子になる。権威付けのためにも公務を兄弟姉妹全員一緒というわけにはいかないようだ」
「兄弟姉妹大好きな射干玉さまからしてみれば拷問のようですね」
 微苦笑を浮かべる天馬の声には、同情の色があった。
「人前では澄ました顔をしているが家族だけになるとしょんぼりしているよ」
「目に浮かぶようです」
「見かねた与輿彦が下の子たちを巻き込んでお守りを手作りすることになってね。私も予備の組紐を一本、提供することになったんだ」
「新しいものを作ってさし上げないのですか? 丸台はもう一台ありましたよね」
 丸台の話を持ち出され、扇はどきっとした。動揺を悟られないよう天馬から視線を逸らし、「い、今から作っても間に合わないし、もう一つの丸台は、現在使用中なんだ」と言ってサクランボを口に含んだ。
 扇の態度に何か察したらしく、天馬はそれ以上、追求してこなかった。
 柔らかな風が簀子を通り過ぎていく。扇が庭に視線を向けると秋へと移ろいはじめた木々や花々がゆらゆらと揺れていた。物心つく前から毎日のように眺めている景色だが見慣れることはない。春夏秋冬──季節が変わるたびに、毎年毎年、驚くほど律儀に感動してしまう。
「紅葉狩りの際は──」
 声に導かれ振り返ると淡く微笑む天馬と目が合った。
「紅葉狩りの際は、婚約者として同行することはできませんが、陰陽師として護衛につけるよう上司にかけ合ってみますね」
「──っ! 本当に天馬くんは話が早くて最高だね!」
 扇は、その幼さが色濃く残る顔に大輪の花のような笑みを浮かべた。
 天馬も笑みを深める。
「あなたのことは、私が必ずお守りします」

     ☯

「──……朝か」
 薄暗い塗籠の寝台の上で二十六歳の扇は一人静かに目覚めた。
 寝間着の黒い甚平も、ほどいた漆黒の髪も、純白の寝具も、乱れはほとんどない。首を傾け右手を見ると乱立した本棚と本棚の間から壁に掛けられた木製のからくり時計が十一時少し手前を指しているのが見えた。
「うん。いつも通り。……もう少し寝たいが、ここは我慢だな」
 わずかな眠気を引きずりながら上体を起こすと、枕元に置いておいたまん丸に膨らんだ巾着袋の上でタカラが眠っていた。思わず笑みをこぼしながら指先でタカラを撫で、巾着袋ごと甚平のポケットにしまってから寝台を降りる。
 妻戸へ向かう道中には、くたびれた地図や資料が散らばり、書類や書物が歪な塔を何本も築いていた。その中に、作りかけの組紐が中央で宙ぶらりんになっている丸台も紛れ込んでいた。
「扇さま、お目覚めになりましたか?」
 母屋の方から主人の起床を察した女房の梓が声をかけてきた。
「今、起きたところだよ」
 と言って、扇は妻戸を開けた。
「お早う、梓、(みすず)
「「お早うございます、扇さま」」
 控えていた二人の女房は三つ指をつき、異口同音に挨拶を返した。
 いつもどおりの光景に、扇はそっと笑みを深めた。

     ☯

 此花之院には、東対の北側に湯殿と道場が設けられている。
 湯殿はともかく道場など竜皇の姉妹や娘が代々暮らしてきた離宮には似つかわしくないように思えるが、ヒソカやウツロという目に見える脅威と隣り合わせの竜之国では、やんごとない身分の女性が護身術を習うため、竜道の練習をするため、専用の部屋を用意するのは珍しいことではない。
 実際、扇自身、物心つく前から異母兄妹や弟たちと一緒に道場を利用している。この話を大海の島からの旅行者にしたところ、田村は「へぇー大変だな」とつまらなそうに呟き、鈴木は「なんか、やっぱり住む世界が違いますね」と苦笑を滲ませていた。
「あぁ……今日もいい湯だった」
 十人は余裕で入れる天檜(てんひのき)の湯船で寝汗を流した扇は、髪をタオルで巻き、緩く帯を締めただけのしどけない浴衣姿で洗面台の前に用意された籐のスツールに腰を下ろした。鏡に映る自分自身を見るともなく見ながら上気した頬にへばりついた濡れ髪を指先で後ろに流す。
「麦茶です」
 そう言って女房の藻が洗面台に湯飲みを置いた。
 藻──棣棠之(ていとうの)藻は、細い目が常に微笑んでいるように見える二十代半ばの女性で、日に透かすと金色にも見える髪を後頭部で団子状にまとめ、ほっそりとした身体を砥粉色の着物で包み、藍染めの前掛けをつけている。
 砥粉色の着物と藍染めの前掛けはお仕着せで、扇つきの女房であることを示している。現在、その着用が許されているのは梓と藻の二名のみだ。
 扇は「ありがとう」と言って早速湯飲みを手に取った。一口のつもりが思ったよりも喉が渇いていたため一気に半分ほど飲んでしまった。やや温めの麦茶が湯上がりの身体にすっと染みこむ。湯飲みを口元から離すと同時に「はぁ」と吐息がもれた。
「うん。美味しい」
「お気に召していただけたようで何よりです。御髪を乾かしますね」
 そう言って藻は扇の頭部を覆うタオルを解き、頭頂部に両手をかざした。掌から黄色い光が生じ、扇の髪の表面を上から下へと滑り落ちていく。竜道を使って髪を乾かしているのだ。藻は土気が強いので土剋水を用いて余分な水気を抑える方法を用いている。火気が強い者は熱で水分を飛ばしたり、風を生じさせる木気と併用し熱風で乾かしたりもする。
 竜気が少ない者や竜道が苦手な者のためにドライヤーも売られているが、髪を乾かせないほど竜気が少ない者は滅多におらず、竜道が苦手でも自身の髪を乾かすくらいはできるので、大海の旅行者が滞在する迎賓館以外では「念のため買ったけど、結局使っていない」ものの代表格とされている。
「日報は、いつも通り使者の方にお渡ししました」
「ありがとう」
「夜間はすっかり寒くなったので、しっかり防寒してくださいね」
「気をつけよう」
「本日の昼食は、ハンバーグです。ポテトサラダもございます」
「それは楽しみだ」
「乾いたので梳かしますね」
「よろしく頼むよ」
 藻は扇の髪を一房手に取り繊細な細工を扱うような丁寧さで梳っていく。
 一定のリズムで髪を梳く音に眠気を誘われ、扇は手で口元を隠しながらあくびをした。それを見咎めた藻が、むっと眉間に皺を寄せる。
「扇さま、ちゃんとお休みになっておられますか?」
「勿論。……ただ、そうだね。少し気になることがあるんだ」
「私が聞いても大丈夫なお話でしたら、お聞きしますよ? 話すことで何か気づきがあるかもしれません」
 思案顔になった扇に、藻が愁眉を開き笑顔で提案する。
「それも一理あるね。──ただ話をする前に訊いておきたいことがある」
「何なりとお訊きください。嘘偽りなくお答えします」
「そう畏まらなくていいよ。最近見たヒソカは何か教えてほしいんだ」
「それならば──……」
 藻は意気揚々と答えようとして──扇の髪を編み込みながら難しい顔で黙り込んでしまった。扇は然もありなんと頷く。
「最近、ヒソカを見ていない──そうだろう?」
「は、はい。でも、そんなこと……」
「大丈夫、藻だけじゃない。ここ一ヶ月……いや、二ヶ月くらいかな。虹霓とその周辺のみ、明らかにヒソカの目撃情報が減っているんだ。校舎のヒソカも徐々に少なくなっている。それなのにウツロの目撃情報もほとんどない」
「……ヒソカの発生数が減っているということでしょうか?」
 少し思案してから藻が恐る恐る意見を述べた。
 同時にラジオ巻きが完成する。扇は立ち上がり浴衣を脱いだ。
「そうだね。竜気が乱れた場合、そうなることもある。しかし今回、竜気の乱れは起きていない」
「ヒソカは発生しているけれど隠れている……とか、ですかね?」
 小袖を扇に渡しながら藻は歯切れ悪く一つの可能性を挙げた。
「でも、そんなわけないですよね。そんなことをしてもヒソカは竜気が枯渇するだけで何もいいことはないですし。共食いをしてウツロになったとしたらウツロの目撃情報が増えていないとおかしいわけですから……う~ん、謎ですね」
 藻は折角ほぐれた眉間に再び皺を寄せつつ小袖を纏った扇に袴や狩衣を着付けていった。その手際の良さに惚れ惚れしながら扇は口の中だけで「隠れている、か」と呟いた。
 扇の脳裏に香雨之姉弟を騙した烏天狗──キヨのことが浮かんだ。
 あの一件からすでに三週間ほど経過している。
 湖太郎が犬に取り憑いたキヨに襲撃された瞬間の映像をミニタカラが念写し方々に確認したところ、学び舎の敷地内で目撃されていた野犬は、キヨに取り憑かれた犬で間違いなかった。
 元々は野犬ではなく飼い犬で、八月の半ばに首輪を残していなくなってしまい飼い主が届けを出していた。高齢だったため首輪を外して逃げ出すほどの体力は残っていなかったので連れて行かれたと飼い主は思っていたらしい。
 しかし実際は、キヨが取り憑き、首輪を外して脱走したのだ。
 そうして逃げた先で扇という極上の獲物を見つけ、一ヶ月以上も潜伏して機会が巡ってくるのを虎視眈々と待ち続けた──……その知性に裏付けされた理性と計画性は、共食いで成ったウツロではなく、至竜の血肉を摂取して成ったウツロであることを示している。血肉を介して至竜の記憶と知識の欠片を得ているのだ。しかし、それにしては──……。
「お召し替えできました。羽織です」
「ありがとう」
 扇は思索を一旦止め、藻から受け取った羽織に袖を通した。前後して扉を叩く音がした。「どうぞ」と声をかけると扉が開き「失礼いたします」と言って梓が入室してきた。梓はそのまま扉の前で深々と頭を下げ、
「お客さまがいらっしゃいました」と予定外の来客を告げた。

「今日は、姉さん。久しぶり」
 扇が二人の女房を伴い客人を待たせているという母屋に戻ると、梓から聞いていたとおり、やや黄色味の強いブラウンのスーツを着こなした皇太子の与輿彦がいた。
 円座の上で胡座を搔き、笑顔を浮かべているが表情も身体も少し強ばっている。
 違和感を覚えながらも扇は平静を装い「お早う、与輿彦。いい昼だね」と返し、与輿彦と向かい合うように畳の上で胡座を掻いた。
「今回は謹慎の代わりに竜皇の秘書としてつきっきりでしごかれたそうだね」
「二週間みっちりね。自業自得だけど、職場に戻ったら仕事が溜まりに溜まってて会いに来る暇もなかったんだ」
 そう言って与輿彦は傍らの紙袋を軽く叩いた。
「今回の戦利品かい?」
 冗談めかして扇が問いかけると、与輿彦は急に真顔になり、やおら円座を傍らに置いたかと思うと、板敷きの床に正座し、「すぅ」と息を吸い込んだ。
 扇は透かさず耳を手で塞いだ。傍らに控えている梓と藻も主人に倣う。そして──
「この度は、誠に申し訳ございませんでしたっ‼」
 謝罪の言葉を轟かせながら勢いよく土下座した。
 余韻が引くのを待って扇と女房二人は耳から手を離した。与輿彦は深々と頭を下げたまま微かに震えている。その大きいはずなのにやたら小さく見える背中を扇は軽くぽんぽんと叩いてから、すりすりと子供をあやすような手つきで撫でた。すると掌越しに少しだけ強ばりが解けたのを感じた。
 すっかり大きくなった弟に、まだ自分よりも小さかった幼い頃の面影を見つけ、微笑ましい気持ちになった扇は、つい「ふふっ」と柔らかな笑みをこぼした。その声に引かれたのか、両手を床についたまま与輿彦が少しだけ顔を上げる。恐縮しながら上目遣いに見上げてくる弟が可愛いやら情けないやらで扇は微苦笑を浮かべた。
「今回は随分と堪えているみたいだね。巷で君が脱走できるか否か賭けの対象になった時以来かな? あれから皇族が大海の島に行く際は、誰が行くかもいつ行くかも、すべて終わってから報道するようになったんだよね」
 賭けと言っても、この時、賭けていたのは酒や肴で、呑み仲間同士のちょっとした悪乗りだった。しかし、皇族を賭けの対象にするとは何ごとか! と考える人々が同じ店に居合わせてしまったため口論に発展。すぐに店員が検非違使に連絡したため暴力沙汰にはならなかったが、「誰かが怪我をしてからでは遅い」と判断した前竜皇は早々に対策を講じたのだ。
 与輿彦は恥じるように目を伏せた。
「……俺は、呆れられても仕方ないことをしている。陰口を叩かれ嫌味を言われるのも自業自得だ。罰は当然受け入れる。でも、俺以外の人が割を食うのは、本当に申し訳ないと思っている。謝罪することしかできないけど……できないから、せめて最大限の謝意を伝えたいんだ」
「そもそも抜け出すのを止めるという選択肢は?」
「ないっ‼」
 ぱっと顔を上げ、しっかり扇の目を見上げながら与輿彦は躊躇いなく言い切った。更にぐっと片手を握りしめ、
「俺にとって大海の島での買い物は、真剣勝負なんだ! 今のご時世、インターネットを使えば大抵の物は手に入る……でも、そうじゃないんだ! 実際に見て吟味する……それは言わば、嫁との対話! すなわち逢瀬‼ 他者の介入など愚の骨頂‼」
 と言って拳を床に叩きつけ──次の瞬間、すっと真顔になった。
「……あと、ゲームとかアニメとかに興味ない人をあの空間に連れて行くのは、ちょっといたたまれない。俺だけが気まずい思いをするならいいけど、他の同志の方々を萎縮させる可能性もあるから、一人で行きたい──っていうか、行く」
「同じ趣味の人を護衛にしてもらえば……」
「それはそれで色々問題があるんだよ! ゲームやアニメって一口に言ってもジャンルとか楽しみ方とか人によって違うし、推しが同じでもイベントの解釈が違ったりしたら……もう地獄だね。師匠が護衛なら抜け出したりしないんだけどなぁ」
「こらこら、慈郎坊くんを引き抜かないでもらえるかな」
「ちょっと願望が口をついて出ただけだよ。実行したりはしないから安心してくれ。──と、話が逸れたけど、今回は本当に悪かったと思ってる。姉さん、ずっと部下はいらないって言ってたのに……速午は実力もあるし悪い奴ではないと思うけど、それとこれとは話が違うだろう」
 言いながらようやく与輿彦が上体を起こした直後、その後方──南庭からこちらに駆け寄ってくる人影が扇の目に映った。与輿彦も近づいてくる足音に気付いたらしく不思議そうに振り返り──丁度、階の下に辿り着いた人物を見て目を丸くした。
「お早うございます、扇少将! 今日は綺麗な竜晴れですよ! 梓先輩、藻先輩、中島の掃き掃除終わりました! ……あれ? 皇太子殿下ではありませんか! お早うございます! お久しぶりです」
 そこには、薄灰の狩衣の上に割烹着を纏い、頭に三角巾をした柃之速午が竹箒片手に立っていた。
 速午は「……お早う」と蚊の鳴くような声で挨拶を返してから扇の方に向き直り、引きつった笑みを浮かべながら「姉さん、ちょっと向こうで話そうか?」と言って家族と限られた女房しか立ち入ることができない塗籠を一瞥した。

     ☯

 梓と藻の仕事は、此花之院の東西南北に設置された門のうち西門の閂を外し門前を掃除することからはじまる。速午がその門前で女房たちを待ち構えていたのは、学び舎の詰め所に押しかけ部下をした翌日のことだった。
 いち早く気付いた梓が「あら、速午さん。お早うございます」と挨拶した直後、これでもかと頭を下げ、「どんな雑用でもするので、どうか中に入れてください!」と懇願したのだ。まだ顔合わせをしていなかった藻は「はぁっ⁉」と素っ頓狂な声を上げ、不信感を隠しもせず速午を睨みつけた。
 門前と言っても宮城である雲郭の中なので周囲には仕事中の文官武官がおり、好奇の視線が門前に集まった。しかし梓は冷静に「私たちの一存では決められませんので少々お待ちください」と言って藻に掃除を託し、扇の元に引き返した。話を聞いた扇は即座に「詰め所で会おうと伝えておくれ」と言った。

「まぁそんなことが二週間ほど続いてね。はじめは訝しんでた文官武官もいつしか速午くんの熱意に絆されて応援するようになっていたのには驚いたよ。昼間、詰め所で交流のある梓と藻は言わずもがなだ。そうなると一人で突っぱねているのが馬鹿らしくなってね。一週間くらい前から使用人の真似事をさせているというわけだ」
 扇が塗籠の寝台の上で胡座を搔きながら経緯を説明すると、隣で大人しく話を聞いていた与輿彦がおもむろに立ち上がり──
「本当に、この度は申し訳ございませんでしたっ‼」
 寝台の傍らで本日二度目の土下座を披露した。
 弟の後頭部を見下ろしながら、扇は耳を塞いでいた手を下ろしため息を吐いた。
「与輿彦、君は優秀だが万能じゃない。まさか自分を助けてくれた陰陽生がモグラと揶揄される私の部下になりたがり、あまつさえ心配だからと雲郭内の離宮にまで押しかけてくるなんて夢にも思わなかっただろう。それに、速午くんの願いを聞き入れたのは射干玉──竜皇陛下で、此花之院への出入りを許したのは私自身だ。だから全部が全部、君のせいというわけじゃない。──というわけで謝るのはここまでだ」
「いや、でも……」
「謝罪の気持ちを表したいのなら、今後、大海の島で護衛の目を盗んでホテルから抜け出さないと誓えるかい?」
「それは無理っ!」
「だろう? だったらこれ以上の謝罪は無意味だ。次があるかもしれないしね」
 扇は意地悪な笑みを浮かべながら釈然としない様子でうつむく弟の額を指で突いた。与輿彦はされるがままだったが、不意に上目遣いに真剣な様子で姉を見た。
「姉さん、さっき速午が心配だから住居まで押しかけてきたって言っていたけど、どういうこと?」
 与輿彦の指摘に扇は咄嗟に口を手で押さえ──それが『何かあった』と自白しているようなものだと気づき、ため息と共に手を下ろした。
「──危ないことはしていないよ。ただ押しかけ部下をしてきた日に別行動を取った際、私とウツロが一騎打ちになったのが堪えたらしい」
「ウツロと一騎打ちなんて危ないに決まってるだろう!」
 怒鳴ってからそんな自身を恥じるように与輿彦は顔を逸らした。
 悔しそうに唇を噛みしめる弟を前に、扇はただ静かに微笑むことしかできなかった。ウツロに単騎で挑む無謀さは、骨身に沁みている。家族も事情を知っている上司や同僚からも常々心配されている。それでも扇は、特定の誰かと組むつもりは毛頭なかった。誰かに「呪われているようだ」と言われたことがある。しかしこれは、そんなロマンチックなものではなく、扇の単なる独りよがりだ。
 与輿彦が「……天馬の、阿呆」と少し湿った声で呟き、ぐすっと鼻を啜った。
 扇は与輿彦の隣に座り直し、懐から取り出した懐紙を差し出した。「ありがとう」と言いながら与輿彦はそれを受け取り、勢いよく鼻をかんだ。

「あっ、そうだ。これ、お土産」
「ありがとう」
 すっきりした様子の与輿彦から紙袋を受け取り中を覗くと、封筒と四角いブリキ缶が二つ入っていた。
 扇は先に封筒を取り出した。白地に黄色い竜があしらわれた封筒は、とても厚く、今にも弾け飛びそうな黄色に赤が混じった封蝋を外すと、折り畳まれた大量の便箋が目に飛び込んできた。読むのは勿論、封筒を破らずに取り出すのも一苦労しそうだ。
「それ、ご隠居と三九郎(さんくろう)からの手紙」
「だろうね。ご隠居と可愛い賢弟には会えたのかい?」
「いや、いつも通り手紙だけホテルの部屋に置かれてた」
「そうか。つつがないようで何よりだ」
 ご隠居というのは前々竜皇のことで扇たちの祖父に当たる。御年七十を超えてなお、その心身は衰えを知らず、ここ数年は、扇と与輿彦の同腹の弟である末の孫息子──三九郎と、大海の島巡りを楽しんでいる。
 扇は封筒を寝台の上に置いてから、ブリキ缶を取り出した。可愛らしい少女たちが着物を模した衣装を纏い、マイクを片手に笑顔を浮かべたイラストが側面に描かれている。二つのブリキ缶をよくよく見比べてみると少女の衣装や表情が少し違っていた。中身はチョコレートクランチと書かれている。
「この鬼の女の子が君の嫁だろう?」
「えっ⁉ なんで覚えてるの⁉」
「君が何度も話してくれたじゃないか。アニメ化もしているが元々はゲームで、プレイヤーは大海の島の陰陽師の末裔で自身の式神をアイドルデビューさせてファンという名の信者を集めることで妖怪としての質を高め、戦闘力を上げて悪い妖怪を退治していく、育成恋愛バトルもの──だったかな?」
「そうそうそうなんだよ! しかも可愛いだけじゃなくて、キャラクター一人一人のバックグラウンドが妖怪の伝承とか歴史をしっかり踏まえつつ現代に馴染むようになってるんだ! キャラデザも凝ってて、何気ない模様が実は重要な意味を持ってたり、キャラクター同士の繋がりを匂わせたりしていて──……」
 扇は鼻息の荒い与輿彦の目の前にブリキ缶をかざした。
「盛り上がっているところ大変恐縮だが出勤時間が迫っているんだ」
「えっ? あっもうそんな時間か」
 姉弟は、どちらからともなく立ち上がり妻戸に向かった。その途中、ふと一台の丸台が与輿彦の目に留まった。扇の寝室であり書斎でもある塗籠の床には、あちこちに書類や書物が積み上げられている。しかしその丸台の周囲は綺麗に整頓されていた。
 丸台の傍らには、埃がかからないよう覆っていたのか白い布が落ちていた。丸い天板の中央からは、艶やかな漆黒を基調に落ち着いた赤や鮮やかな橙が繊細な模様を描くよう編まれた組紐がぶら下がっている。長さなどから察するに作りかけのようだ。
 組紐は扇が生母から伝授された趣味であり完成品は生活必需品でもある。髪を結うのに、衣を飾るのに、武器に、用途は多数あり、いくら作っても無駄になることはない。しかし、今、視線の先にある組紐は、扇が髪や衣に使うには華やかさがなく、武器にするには凝りすぎている。何より、まるで隠すように少し奥まったところに置かれているのが妙に引っかかった。それだけではない。
「深い黒に、赤と橙……いや、あれは赤というより……」
「与輿彦?」
「──っ⁉」
 口の中だけで呟いていると不意に名前を呼ばれた。慌てて顔を上げると、妻戸の手前で立ち止まった扇が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「どうした、ぼうっとして」
「ななな、なんでもありません!」
「なんでもあるようにしか見えないが……まぁいつものことか」
「えっ? 俺ってそんなにいつも挙動不審?」
「挙動不審だという自覚はあったんだな」
 与輿彦が慌てて口を手で押さえると、扇は「ふふっ」と笑った。
「そういえば、今週は、昼間詰め所に来ても私と速午くんはいないからね。梓か藻はいるはずだから緊急でなければ彼女たちに言付けてくれ」
「わ、わかったけど、どうして詰め所にいないんだ?」
「鱗採りができる公園を見回るんだよ。私たちはあくまで補助だけどね。この時期はどうしても陰陽師が手薄になりがちだからモグラの私まで駆り出されるんだ」
 自らの蔑称を扇は躊躇いない口にする。しかしその表情にも声音にも自虐的な色は一切感じられなかった。だからこそ与輿彦もいつもの調子でよく考えず問いを重ねてしまった……若干の動揺が残っていたのも否めない。
「この時期って……流水之祭(りゅうすいのまつり)?」
 扇は一瞬目を見開いてから、苦笑した。
「──紅葉狩りだよ」
「──っ‼」
 姉の口からその言葉が出た瞬間、与輿彦は息を呑んだ。顔から血の気が一気に引いたためか目眩を覚え、手で頭を押さえる。そうしてしばらく呼吸を整えていると扇が頬に触れてきた。温かな体温に安堵を覚え顔を上げる。
「顔が真っ青だ。まだ駄目なんだね」
「姉さんの口から聞くと、どうしても……というか、姉さんの方がこうもっと引きずっているというか、そんなあっさり口にするべきじゃないというか……」
「私は当事者だったからこそ反省すべき点を洗い出し、時間をかけて対策することで気持ちを整理することができたんだよ。それに……」
 扇は、そっと視線を落とした。与輿彦がその視線を追うと、先ほどの作りかけの組紐がぶら下がっている丸台に辿り着いた。
「              」
「? 姉さん、何か言った?」
 振り返った与輿彦に、扇は笑みを浮かべながら人差し指を唇に当て、応えた。
「秘密だ」
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