二章:陰陽師の資質〈八〉

文字数 14,106文字

 夜空を駆けることしばし──。
 見渡すかぎり人影がないことを確認してから、扇は仮面を外し左袖にしまった。
「隠さなくていいのですか?」
「顔を隠したまま旧友を深めるなんて器用な真似、私には無理だ」
 斜め後方を飛んでいる速午からの問いかけに扇は肩越しに振り返りながら応えた。
「しかしその出で立ちでは、月の陰陽師の正体が扇少将ということがばれてしまうのではないですか?」
「葛寿くんは勘がいいからあり得るな。まぁその時はその時だ」
 扇は応えながらミニ円盤タカラの位置と力加減を調整し速午の隣に並んだ。
 急なことに速午が少しぎょっとする。扇は「ふふっ」と笑った。
「今夜は随分、知りたがりだな。他に質問は?」
「……そもそも、どうして正体を隠しているのですか?」
「我が賢弟曰く──夜間、こっそり一人で任務に赴く者は、仮面で顔を隠すのが様式美なんだそうだ」
「それって大海の島の漫画やアニメでの話ですよね? 以前、慈郎坊さんも似たようなことを言っていました」
「だろうな。この仮面も賢弟と慈郎坊くんが大海の島に行った時の土産だ」
 扇は左袖を軽く叩いた。
「厳密には、大海の島の場合は不思議な力を用いた変身の方が幅を利かせていて、仮面や仮装で正体を隠すのは、どちらかというと大海の大陸なんだそうだ」
「へぇ、奥が深いんですね」
「嵌まったら抜け出せないと言うから深いというより底なしなんだろうな」
「その気持ちはわかります! 扇少将に対する俺の気持ちがまさにそれです!」
 きらきらと目を輝かせる速午を見て扇は「ふっ」と苦笑をこぼした。
「速午くんは、本当に私のことが好きだな」
「そうですよ。俺はあなたの傍にいるために陰陽師になったんです」
「ところでこれから行くのは、君を私の婚約者の隠し子だと言った葛寿くんのところだが大丈夫かい? 公園に戻る道すがら落ち込んでいただろう」
 扇の指摘に速午は気まずそうに頬を掻いた。
「ばれていましたか……急なことに驚いてしまって、心の整理がうまくできなかったんです。でももう大丈夫です! 扇少将が信じてくれたので」
 そう言って微笑む姿は発言と相まってとても健気に見えた。
 扇も微笑みを浮かべながら口を開く。
「化かし合いは、もう終わりにしよう、速午くん」
「……えっ?」
 速午は口元に笑みを浮かべたまま目を見開き固まった。
 音もなく集まってきたミニ円盤タカラが速午を取り囲む。扇はその上をゆっくりと巡りながら続けた。
「君は私を化かしている。そして私も化かされたふりをしているということだ」
「な⁉ ……なんのこと、ですか?」
 滞空した速午が額に脂汗を浮かべながらすっとぼける。声は震え、最初の「な」は、どこからそんな声が出るのか不思議なほど甲高く調子が狂っていた。
 対して跳び続ける扇の表情は相手の不実を追求している場とは思えぬほど、始終穏やかで、「ふっ」とこぼれた苦笑も、柔らかくどこか優しかった。
「さて、どこから詰めようか……」
 天を行き交う竜の鱗が満月に近い月の光を浴びて、青、赤、黄、白、と鮮やかな光を放つ。その光を至竜は鱗星(うろこぼし)と名付けた。静かで美しい夜空の中で、扇は絶えず跳びながら顎に指を添えどこか楽しそうに──寂しそうに思案する。
 速午は、顔色こそ刑の執行を待つ罪人のように青ざめているが表情は複雑だった。喜べばいいのか哀しめばいいのか怒ればいいのか、抱くべき感情を決めあぐねているようだ。
 それぞれが様々な思いを巡らせていたため沈黙は濃密なものとなったが、長くは続かなかった。
「──っ‼」
 先に動いたのは扇だった。はっと廃墟の方を振り返る──と、すぐにミニ円盤タカラが頭上に集まり、大地に眠る竜の寵愛がその身体を地上へと引き寄せた。落下するより速く地面に到達した扇は、危なげなく着地し、そのまま廃墟に向けて駆け出す。
 速午も高度を落とし扇の左隣を陣取った。
「ウツロが二体、廃墟付近に現れた」
 真っ直ぐ前を向いたまま扇は何が起きているのか端的に告げた。
「わかりました」と応え、速午は銜えている楊枝状の竜之鱗二本を噛み砕いた。欠片となった竜之鱗が霧散する中、木箱を取り出し新たな竜之鱗を三本銜える。
 正面に街灯に照らされたレンガ造りの塀と外れかけた金属性の門扉が見えてきた。うっすらと灯りを受けた廃墟の表面が微かに黄色い輝きを放つ。
「結界が張られてますね」
「土属性だな。ウツロは外と中に一体ずつ、か。速午くん」
「嫌です。また二手に分かれるつもりですね」
「私は外、君は中だ。外のを私が足止めするから結界を解いて中のを滅してくれ」
〝にょにょ〟
「……タカラくんを半分貸し出せば俺が承知すると思っていませんか?」
「当たり前だ。これはお願いじゃない。上司としての命令だからな」
「…………」
「君は陰陽師だ」
「…………」
「そして、私も陰陽師だ。ウツロがいれば滅する。それが仕事だ」
 門扉の前を通る道の真ん中で扇は立ち止まった。
 速午も透かさず飛ぶのを止め──
「──っ! 逃げろっ‼」
 振り向いた扇が叫ぶのと、速午の身体が勢いよく廃墟の方に吹き飛ばされたのは、ほぼ同時だった。

「今晩は、一之姫さま」
 性差が付きにくい高く愛らしい声が懐かしい名称を紡ぐ。
「こんな時間に起きていて大丈夫ですか? ちゃんと仮眠はしましたか?」
 速午がいた分の空間を挟んで、扇はやたら馴れ馴れしい声の主と向き合った。
 子供だ。十歳前後の子供が地面と水平に伸ばしていた足を下ろしながら扇を見上げる。美麗な顔にニコニコと無邪気な笑顔を浮かべ、シャツにズボンというシンプルだが趣味と育ちの良さを窺わせる格好をしている。
 どこからどう見ても人にしか見えないが注視すると輪郭の一部が滲み、ゆらりと靄のようなものがたなびく──至竜の血肉や卵を捕食し実体を得てもウツロが不安定な存在であることに変わりはなく、よく見ると輪郭が曖昧なところが存在するのだ。
 そうでなくとも至竜は至竜がわかるので、竜気を纏いながらも至竜でない人型のヒソカやウツロは、違和感の塊でしかない。
 しかもこの子供は、たった今、気取られることなく陰陽師に近づき、その程よく肉が付いてなお細い足で小柄とはいえ成人男性である速午を廃墟まで蹴り飛ばしたのだ。竜道で身体強化を行ったとて、そこいらの子供にできる芸当ではない。
 何より、この子供の顔は──……。
「一之姫さま?」
 言葉を発しない扇に対し、子供は不思議そうに小首を傾げる。
「止めろ」いつもより格段に低く冷ややかな声が出た。しかし扇は構わず続けた。
「その姿は、糸遊之摩耶のものだ。お前、糸遊之摩耶を──私の好敵手を、友人を喰らったな」
「…………」
 子供──ウツロの顔から表情が消える。
 そのままゆっくり首を元の位置に戻したウツロは、ニヤリと嘲笑を浮かべ、見せつけるようにペロリと唇を舐めた。
「ふふ、そうですね。友人を殺そうとしたところを別の友人に見られて無様に逃げ出した挙げ句、崖から落ちて死んだろくでなしの間抜けなら数年前に美味しくいただきましたよ。腐っても元陰陽師なので知識と武術には何度も助けられました。顔も可愛いので重宝しています♪」
 頬に両手を添え、ウツロはきゅるんと目を輝かせた。
 捕食された竜之卵は、竜気、記憶、属性、姿──存在のすべてを奪われる。
 人型になれない怪異も短時間だが姿を変えることができ、新たな竜之卵を得るために記憶から知り得た友人知人の前に現れ、油断や動揺を誘ったりする。
 元々人型の怪異の中には、被害者の姿を──それも亡くなった時ではなく幾分か若い頃の姿を好んで使うモノもいる。『自分はこの人物のすべてを手に入れた』と誇示することが目的らしい。
 扇の目の前にいるウツロは、そんな悪趣味この上ない個体だった。
 発する言葉一つ一つが不謹慎な冗談にしか聞こえず、胸と腹の間に冷たく思い感情がどんどんわだかまっていく。しかし──……
「ふぅ」と息を吐き、ついでに風呂敷も地面に置き、扇は気持ちを切り替えた。──否、旧友に対する思いのすべてを綺麗さっぱり切り捨てた。
 ウツロもそのことに気付いたらしく真剣な顔つきになった。至竜の感情と共に漏れ出す竜気を糧とするウツロは、時に至竜自身よりもその感情に敏感だ。
 一先ず距離を取ろうと後ろに飛び退ろうとしたウツロの腹部に、扇は紐をより合わせて作った棍で容赦のない突きを放った。
「──がっ‼」
 呼気にも呻きにも聞こえる音を口から発し、ウツロは身体をくの字にしながら吹き飛んだ。小さな身体は二、三度、地面の上で跳ね仰向けの状態で動かなくなった。
 扇は漆黒の双眸をすっと細め、すぐに棍──青を基調に赤、黄、白、黒が均等に配置されている──を構え直した。
「わざとらしいぞ」
「厳しいですね」
 ヒョイッと何事もなかったかのようにウツロは上半身を起こし笑顔を浮かべた。
「でもそんなところも素敵です!」
 ウツロがパンッと手を叩くと道幅に合わせた直方体の結界が展開された。傍目には、透明な硝子でできた巨大な箱が道にすっぽりはまっているように見えただろう。
 意識はウツロに向けたまま扇は結界に近づき軽く叩いた。こつこつ──と硬質な音が響き、一瞬、黄色味を帯びた光が波紋のように浮かんで消えた。
「土属性の結界か」
「急拵えですが中々いい舞台でしょう?」
 言いながらウツロは軽やかに立ち上がり、髪や頬や服についた土埃を丁寧に払ってから扇に手を差し伸べた。芝居がかっているが優雅で指先まで洗練されている。
「さぁ、遊びましょう♪」
 ニヤリと笑ったその顔は、邪悪という言葉そのものだった。

     ☯

 柃之速午は、幼い頃──それこそ保護されたその日から、やたら落ち着いた子供だった。身につけているのはぼろぼろの布切れのみ。顔の右半分には治ったばかりの大きな傷痕があり、右目も明らかに生来の色ではなかった。その上、自分自身に関する記憶がなく、竜気の量が多い陰陽師に見てもらい、なんとか誕生日と大まかな年齢だけ判明した。
 さぞ不安だろうと周囲の大人は気を揉んだが本人は、少しぼんやりするものの概ね平静だった。泣きも喚きもせず聞かれたことに応え、トイレに行きたい、お腹が空いた、眠くなった、等、生理現象に関しても恥ずかしがることなく報告し、要求が通ればきちんと「ありがとうございます」と礼を述べた。
 寝言で「……うま」と呟いていたことから柃之速午という名前を与えられ、育児院での生活がはじまると、兄弟姉妹の喧嘩を仲裁し、兄弟姉妹に勉強を教え、兄弟姉妹が道を踏み外しそうになれば時に言葉で、時に拳で存分に語り合い、相手の不平不満を吐き出させ、その改善に努めた。
 冷静沈着かつ臨機応変な子供らしくない子供だったが、育児院の面々は大人も子供も速午を子供として扱い、その言動を個性として捉えた。
 速午自身、自らの言動に違和感を覚えることもあったが、理解ある周囲のお陰で「自分はそういう人なのだ」と昇華することができた。
 そんな速午の心を乱し冷静さを欠くのは、いつも扇だった。彼女自身は勿論、彼女が関係すると思うと、そちらに気を取られてしまうのだ。
 扇と出会うまで速午は自身の不安定さや思考を乱すほどの激情を知らなかった──ならば扇を知る前に戻りたいかと問われると、それだけは御免だと即答できる。
 扇を失うのも、彼女と共にいられなくなるのも、速午は望まない。
 だからこそ蹴飛ばされ扇から引き離された直後にも拘わらず速午は冷静になることができた。どちらか一方でも欠ければ『共に』いることはできなくなる。すべては自らの望みのため──速午は全力で我が身を惜しむ。
 そうして空中で体勢を立て直した速午は、目前に迫った廃墟の壁を蹴り、一度夜空に跳び上がってから廃墟の屋根に着地した。
 ずきっ──と蹴られた脇腹が痛んだが内臓や骨に異常はない。竜之鱗を噛み砕いた時点で竜道を使い身体強化をしていたからというのもあるが、相手も損傷を負わせるより遠ざけることを優先していたようだ。
「げほっ……」
 軽く咳き込みながら足元に視線を落とすと赤い瓦が規則正しく並んでいた。夜空から降り注ぐ微かな光を受けて黄色い輝きを放っている。
「失礼します」少々乱暴に踏みしめる──無音。
「衝撃も音も吸収して周囲に気付かれないようにしているのか。用意周到なことで」
 忌々しそうに呟いた直後、道の方で竜気が乱れた。
 見ると、扇たちがいるであろう場所に新たな結界が張られていた。
「ちっ──と、いけないいけない。扇少将と無理矢理離されたせいで態度も口も悪くなっている。気をつけよう」
 速午は首を左右に振り、雑念を払ってから片膝を折り結界を改めて観察した。
 廃墟の輪郭に添うように張られたそれは、厚さは一ミリ程度だが薄いからといって脆いわけではない。むしろその薄さの中に竜気を凝縮しているので個人が物理でどうこうできる範囲を軽く超えている。ならば──
「竜道で、木剋土に従い木気で土気を弱らせる……しかないですね」
 歯切れ悪く独り言をこぼしながら速午は左手で屋根に──結界に触れた。
 掌から淡く青い光が生じ、触れている箇所から結界に添って広がっていく。
 瞬き三回──速午が銜えている竜之鱗が二本、端からさらさらと砂のように崩れ、螺鈿のような輝きを放ちながら空に溶けて消えた。
 瞬き五回──淡く青い光は廃墟をすっぽり包み込んだ。結界と淡く青い光が混ざり合い、廃墟の表面が緑色に淡く輝く。そして、

 ぴきっ──と、結界に細かな罅が入った。一拍置いて、
 ぱんっ──と、ほとんど音もなく結界が砕け散った。
 速午が銜えていた竜之鱗の最後の一本も灰塵となり溶けて消える──と、まるでそれを待っていたかのように、
 ゴウッ──と、真っ赤な炎が舞い散る結界の欠片を、廃墟を、速午を、容赦なく呑み込んだ。

     ☯

 硝子張りの引き戸が立ち並ぶ部屋は、元は居間だったのか大きなローテーブルとソファが数台、置かれていた。
 しかし配置は滅茶苦茶で、ローテーブルは天板だった硝子がきらきら光る欠片となって床に散らばり、ソファは表面の肌触りがいい布が劣化し、中身が辺りに散乱している。覆い隠すように積もった埃ごとそれらを蹴散らしながら、創造した木刀を片手に葛寿は河童と互角以上の戦いを繰り広げていた。
 河童が弱いわけでも戦闘に慣れていないわけでもない。むしろ、床に積もった土で目潰しをしたかと思えば、滑稽な動きで挑発し、跳び上がった葛寿の着地点にカーテンか絨毯だった布を放り投げて足をすくおうとするなど、妙に熟れている。
 しかし、葛寿の方が一枚上手だった。目潰しは風で防ぎ、挑発されれば息を整え、布に足を取られたふりをして、近づいてきた河童を木刀で横薙ぎにした。
「ぐえっ!」
 壁に叩きつけられた河童が濁った声を上げずるずると床に落ちる。
 葛寿はすぐさま距離を詰め、河童を仰向けにすると蔓で両手を拘束し、馬乗りになった。先ほど倉庫のような部屋で見つけた金属性のカトラリー──ナイフ、フォーク、スプーンをコートのポケットから取り出し、束にして握りしめ、身体の中で木生火、火生土──と土属性に変化させた竜気を送り込みながら振り上げる。
 土生金の理により強化されたカトラリーが白銀の輝きを放った。
 あとは、このカトラリーを河童の胸に突き刺せば滅することができる──。
 ──……わかっている。そんなことは、わかっている。
 わかっている──のに、葛寿の身体は凍り付いたように動かなくなった。
 かたかたと、指先が、腕が、全身が震える。
『どうして陰陽師を辞めた!』
 ひと月ほど前、助けた相手から浴びせられた怒声が脳裏に響いた。
 幼い頃から憧れ、掴み取った夢──葛寿は無我夢中で働いた。周りの評判も概ねよく、陰陽生から陰陽師に、順調に昇格した……──。
 しかしいつからかウツロにとどめを刺そうとすると身体が竦むようになった。
 はじめは気のせいだと思った。次に疲れているのだと思った。
 戦うことはできても命を奪うことはできないのだと気付いたのは、先輩が自分を庇って怪我をし、自身も片足が使えなくなってからだった。
 地続きだと思っていた二つは、まったく別のものだったのだ。母親は、なんとなく気付いていたのだろう。だからこそ「無理はしないでね」と言い続けたのだ。
 かちゃかちゃ──と葛寿の震えに合わせてカトラリーが音を立てる。
 不意に、
 ぱんっ──と、何か硬く薄いものが砕けるような音が廃墟に響いた。
 次いで、
 ゴウッ──と、炎が上がり、硝子戸の外側を覆い尽くした。
 何が起きたのかわからず葛寿は硝子戸の方に顔を向けた。
 前後して河童がカッと目を見開き、力任せに蔓を引きちぎりカトラリーを掴んでいる葛寿の手を裏拳で払った。
 カトラリーが床に散らばる──葛寿が河童に意識を戻すのと、河童が葛寿に襲いかかるのは、ほぼ同時だった。
「がぁっ!」
「くそっ!」
 体勢と形勢が逆転する。
「キャキャキャキャキャッ!」
 馬乗りになった河童が甲高い笑声を上げながら葛寿の首に両手をかけた。

     ☯

 廃墟を包んだ炎が扇と摩耶の姿をしたウツロの顔を赤く照らした。
 二人とも息が少し乱れているが怪我はしていない。『遊びましょう♪』の言葉通り、ウツロは、始終ニヤニヤしながら扇の攻撃を水中の魚のように躱し、魚籠から飛び出す魚のように跳びはね距離を取った。
 そんなことを続けているうちに廃墟の結界が破壊され、炎上した。
「意外と早かったですね」
「土属性の結界の下に火属性の罠──君の中には、一体何人囚われているんだ?」
 呑気に廃墟を見上げるウツロに扇は棍を突きつけ問いかけた。その漆黒の双眸には静かだが激しい怒気が滲んでいる。
「正確な人数は忘れましたが五人以上ですよ。凄いでしょう」
 軽やかに振り返ったウツロは得意げに五本の指を広げて見せた。
 扇の眉間に皺が寄る。それを見てウツロはクスクスと嬉しそうに笑った。
「至竜の方々は、竜になって天に昇ることが至上の喜びと思っているようですが、僕のお腹の中も案外居心地がいいかもしれませんよ? 実際、出て行った人は、一人もいませんし」
「私の神経を逆なでするためだけに死者を冒涜するな」
「僕は本気ですよ? 特に糸遊之摩耶には感謝してほしいくらいです」
 ウツロは斜め上空を見据えながらスゥッと息を吸い込んだ。そして──

「正しく生きた至竜は、竜として孵り天へ昇り、やがて天之大地へと帰る。道を踏み外した至竜は、大海に落ち(みずち)となり、暗い海底を彷徨い続ける。いつ来るともしれない、天へ帰る日を夢見て──……」

 澄んだ声で諳んじ、ニコッと笑う。
「全員の記憶にありました。子供の頃に大人が語って聞かせるんでしょう? 詩的にまとめていますが、これ、至竜の生態ですよね。道を踏み外すの定義が不明ですが、友人の首を絞めて殺そうとするのは、十分、範疇のはずです。つまり、僕に食べられたことにより糸遊之摩耶は海底行きを免れたわけです。よかったですね」
「──君には、罪の意識があるんだな」
「はっ?」
 予想外の言葉だったのかウツロは間の抜けた声を上げ笑顔のまま首を傾けた。
 そんなウツロの目を見据えながら扇は続けた。
「君はウツロだ。竜之卵を捕食することに理由なんて必要ない。しかし君はそこに意味を求めた。それも被捕食者にとって捕食されることが救いになるという自身の行いを正当化させるような理屈を捏ねた。まるで罪の意識から目を背けるように……」
 唇を引き結んだ直後、廃墟を包んでいた炎が掻き消えた。
 闇の向こうで、じゅうぅぅぅぅ……──と微かに炎の断末魔が聞こえた。
 首を元の位置に戻したウツロは、廃墟を一瞥し、「……はぁ」と深いため息を吐いた。興ざめしたようにも頭を冷ましているようにも見える。
 一人と一体を囲んでいた箱形の結界が音もなく消えた。
「行き当たりばったりは駄目ですね。折角育った手駒も駄目になりそうですし、今日のところはここまでにしましょう」
 緩く首を左右に振り、幾分か調子を取り戻した様子でウツロは微苦笑を浮かべた。
「私はまだまだいけるが?」
「お誘いは嬉しいのですが、また後日、改めてお願いします」
「断る」
 扇は目にも留まらぬ速さで距離を詰め、棍を上段から振り下ろした。
 ヌラリ──とウツロが後ろに下がる。その鼻先を棍が通り過ぎていった。
 ヒョンッ──と後ろに跳び退ったウツロは、胸元に手を当て優雅に微笑んだ。
「自己紹介がまだでしたね。僕はモモキ。あなたと結ばれ、虚之王(うつろのおう)となるべきものです。近々、最高の花嫁行列を用意してあなたを迎えに参ります」
 ウツロ──モモキはニタリと笑い、そのまま闇に溶けるように消えていった。

     ☯

「ぎっ──ギリギリセーフ……でしたね」
 炎に包まれた廃墟を見下ろしながら、速午は冷や汗を掻きつつ安堵の息を吐いた。その頭や肩で〝にょにょ〟とミニ円盤タカラが得意げに跳ねる。
「ありがとうございます、ミニタカラくん。お陰で助かりました」
〝にょ〟
「しかし、俺にこんなに竜気を分けて大丈夫なんですか?」
〝にょにょ〟『些事である。気にするな』──という声が聞こえたような気がして、速午は「ははっ」と声に出して笑った。
「それにしても用意周到ですね。土属性の結界の下に火属性の罠とは……結界を破るのに使った木属性の竜気も、火気を盛り上げるために利用されてしまいました」
〝にょにょ〟肩に乗ったミニ円盤タカラが頬に体当たりしてくる。痛くはないが『早くしろ。悠長にしている場合か』と急かされているように感じた。
「はい、そうですね。すみません。飛び火したら大変ですし、すぐに消火するので、竜気を少し頂きますね」
〝にょ〟『お安いご用だ』とでも言うようにミニ円盤タカラは左右に揺れた。
 速午は想像する──廃墟を覆うほどの水を。それが炎の外側から廃墟を包み炎を抑え込むさまを。イメージは水で作られた巨大な風船。
 大量の竜気がミニ円盤タカラから速午へと送られ、広げた両手に黒い輝きが生じ、廃墟へと降り注ぐ。そして、想像を元に竜気によって水の膜が創造される。
 じゅうぅぅぅぅ……と音を立てながら炎が消え、夜なので少しわかりづらいが煤けた外壁が露わになった。
「二名、中にいますね。どちらも一階で片方は動かず片方は動いている……」
 再び屋根に降り立った速午は、先ほどより黒ずんでいる屋根をじっと見下ろしながら太刀の柄に手をかけた。
 風が吹き、マントのように羽織った黒い布が大きくはためく。
「……夜間、任務に赴く者は顔を隠すのが様式美、なんですよね」
 ふとあることを思いついた速午は、柄から手を離した。そして──。

     ☯

「ぎぎぎっ!」
 河童の嘴から歯ぎしりのような音がこぼれる。先ほどまでの楽しげな様子から一転、憎々しげに目尻を釣り上げ、鼻と思しき二つの穴を広げるさまは、そんな場合でないとわかっていながらも「ふっ」と吹き出してしまうほど滑稽だった。
「きぃーっ! シねっ! おマエ! シんじまえっ!」
 嘴から放たれたのは、子供のような声と唾だった。
 首を絞めようと躍起になっている河童の手首を掴んだまま、葛寿は「ははっ!」と笑い、不敵な笑みを浮かべながら河童のガラス玉のような目を睨みつけた。
「おいおいどうした! 力比べは河童の十八番だろう? 人に負けて恥ずかしくないのか?」
「ウルサいっ! ウルサいっ! ウルサいっ!」
 河童が腕に力を込める。葛寿も負けじと竜道を使い身体強化する。加減はしない。あと十五分ほどで葛寿の竜気は尽きるだろう。しかしそれで十分だった。異変に気付いた検非違使や陰陽師が到着するまで時間を稼げればいいのだ。
 脳裏に思い浮かべるのは、クローゼットに押し込めた初空のことのみ。他の事柄は意図的に排除し、意識も五感もすべて目前の河童に集中させる。しかし──
 どっ! ──どごっ‼
「──っ⁉」
 何か重量のあるものが右側に落ちてきたらしく、音と衝撃が葛寿の意識に飛び込んできた。
 埃が舞い上がり室内が白に染まる。
 何が起きたのか、何が落ちてきたのか、何もわからぬまま、瞬きで換算して五回ほどの時間が過ぎた。その間、葛寿は、状況を把握しようと首と視線を動かしていた。ふと河童のことを思い出し慌てて横に倒していた首を前に戻す──と、さっきまでそこにあった河童の頭が消え、朽ちかけた天井が埃の向こうに見えた。
 天井には、大きな穴が空いていた。いつの間に? と思った直後、どっ──と、傍らで音がした。今度は左側だった。また何かが床に落ちたようだ。先ほどよりは軽いが、そこそこ重く、何か水分を含んでいるような響きがあった。
 すぐに首を横に倒すと河童と目が合った。
「──はっ?」
 間の抜けた声を上げ、葛寿は恐る恐る身体を起こした。馬乗りになっていた河童の身体が力なく床に落ちる。その頭部は首の上ではなく少し離れた床の上に転がっていた。胴体、頭、どちらの切り口も白銀──金気の輝きを帯びている。そして、そこからさらさらと崩れ、青い靄になり、虚空に溶けて消えた。
 異様だが、元陰陽師の葛寿にとって、ある意味見慣れた光景だった。
「怪我はありませんか?」
 年若い男の声が頭頂部と後頭部の間あたりに投げかけられた。
 振り返ると、これまたいつの間にできたのか、右腕を伸ばせば届くような距離のところに円形の小さな舞台があった。恐らく先ほど落ちてきた重量のあるものの正体だろう。その上に、奇妙な人物が佇んでいた。
 頭から黒い布を被り、顔の上半分と上半身を覆い隠している。
 腰から下を見るに、身につけているのは狩衣のようだ。
 手にした抜き身の太刀が白銀の輝きを放っていることから、河童の首を切り、滅したのは、この人物で間違いないだろう。しかし、ウツロを滅したという達成感も、命を奪ったという罪悪感も、自身の強さに対する満足感も、この奇妙な人物の中には湧いていないらしく、纏う空気は、驚くほど静かだった。だからこそ葛寿も声をかけられるまでその存在に気付けなかったのだ。
 気がつくと埃はほとんど床に戻り視界が晴れていた。
 奇妙な男は、ぐるりと室内を見回してから太刀を鞘に仕舞った。「ふぅー」と長く深く吐き出された息が黒い布の縁を揺らす。
「怪我は……ありますね。見せてください」
 こちらに視線を戻した男は、何やら慌てた様子で舞台から飛び降り、葛寿の傍らに片膝を突いた。怪我──と言われ、それまでなんともなかった頬や顎がずきずきと痛み出した。どうやら河童の鋭く長い爪で何カ所か引っ掻かれていたようだ。しかしそれほど深くはない。それよりも葛寿には気になることがあった。
「お、俺は大丈夫だ! それより子供を……向こうの部屋のクローゼットの中にいるはずだ」
「──わかりました」
 葛寿が指差した方向を確認してから男は頷き立ち上がった。しかし数歩進んだところで足を止めた。進行方向から、たったったっ──と軽い足音が近づいてきたのだ。
「葛寿さんっ‼」
「初空っ⁉」
 壁の影から飛び出してきた足音の主は初空だった。
 青ざめていた顔が、葛寿と目が合った瞬間、くしゃりと歪んだ。
「か、葛寿さぁ~~~~んっ‼」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら初空は葛寿の胸に飛び込み、「うっ……うぇうわ、うわぁぁぁぁぁんっ‼」と盛大に泣き出した。
 耳をつんざくような泣き声。湿っていく胸元。布越しに感じる自分よりも高い体温と重み──生きている。自分も初空も生きている。その事実を唐突に実感した葛寿は、少年の後頭部に手を添えながら、「……よかった」と安堵の涙を流した。

 泣いたことで体力の限界を迎えたのか初空は葛寿の胸に寄りかかりうつらうつらし出した。床に頭を打ち付けないよう、初空の頭を膝に誘導すると、そのまま「すー……」と寝息を立てはじめた。寝顔は安らかで、頬もすっかり健康的な赤味を取り戻している。初空の頭を撫でてから葛寿は顔を上げた。
 開け放たれた硝子張りの引き戸の前には、先ほどの奇妙な男の他にもう一人、陰陽官の紋章が刺繍された純白の狩衣を纏い、真っ白な鼠の半面を付けた人物が立っていた。体つきからして女性のようだ。
 見覚えはない。しかし、その格好に葛寿は覚えがあった。
 夜な夜な一人で中央領を見回っていると言う、都市伝説のような存在──
「月の、陰陽師……」
「巷では、そう呼ばれているようだ」
 笑みを浮かべた唇が、快活で美しい声を紡ぐ。
「初空を助けてくれたのは、あんたか?」
「その子を助けたのは君だ。私は蔓を切って、ここまで連れてきただけだ」
「……それでも、ありがとう。あんなところにずっと閉じ込められていたら、安全のためとはいえ不安だったはずだ。それから、隣のあんたも、河童を滅してくれただろう。ありがとう。本当に助かった」
 黒い布を被った男は会釈で応えた。
「直に見回りの陰陽師や検非違使が来る。私たちのことは好きに話してくれて構わない。屋根と二階の床に空いた穴については、こちらで然るべき対応を取るから、心配するな」
 月の陰陽師の言葉を受け、葛寿は天井の穴を仰ぎ見た。先ほどは埃でよく見えなかったが、確かに、屋根にも同様の穴が空き、丸い夜空がのぞいていた。
 そういえばあの時、何か重量のあるものが落ちてくる音は二回した。
 まず屋根の一部を切り取り、二階に落ちたところで二階の床の一部を切り取り、そうして一階まで落ちてきたのだろう。
 言うは易く行うは難し──月の陰陽師に小突かれ、申し訳なさそうに頭を掻く黒い布の男の底知れぬ実力に、葛寿は敬意と、ほんの少しの畏れを覚えた。
「──来ました」
 不意に黒い布の男が門の方を見ながら呟いた。
 月の陰陽師は「そうか」と応え、葛寿に近づいてきた。
「贈りものだ。呑みすぎるなよ」
 風呂敷包みと鮮やかな笑みを残し、月の陰陽師は黒い布の男を伴い、庭から空へと消えていった。初空に視線を落とす。陰陽師と検非違使が居間にやって来た。

     ☯

 日本からの旅行者である夜刀は、他の旅行者共々迎賓館に滞在している。
 旅行者は基本、昼間は自分ともう一人の旅行者、案内兼護衛兼監視役である検非違使の三人で行動しなければならない。
 しかし夜間は届けさえ出せば、午後八時から十二時までの間に一時間だけ、旅行者のみで外出することが許されている。勿論、一人でも可だ。出入りの際、身体検査を受けるが、形式的なものなので引き留められることはまずない。
 食事を済ませたあと、しかも一時間だけなので大抵の旅行者は近くの歓楽街で一杯やって帰ってくるようだ。実際、夜刀が昼間行動を共にしている旅行者は「息抜きに」と数日に一回、酒場巡りを楽しんでいる。
 夜刀も数日に一回、夜の街に繰り出している。今夜もそのつもりだったが、身なりを整えている最中、なんの前触れもなくモモキが現れ、「すみません。陰陽師に見つかっちゃいました♪」と笑顔でとんでもないことを宣ったので、中止せざるを得なくなった。
「──というわけで、僕の存在が陰陽師に知られてしまいました。廃墟も調べられるので僕たちの企みも感づかれるかもしれません」
 モモキは夜刀が問い詰めるまでもなく、どうやらすっかり気に入ったらしい籐のリクライニングチェアに腰かけ、面白くない話を楽しそうに披露してくれた。
 ベッドに腰かけ、つまらなそうに話を聞いていた夜刀は、両手で顔を覆い「はぁ」と盛大なため息を吐いた。
「……お前が結界だのなんだのお膳立てしないで、さっさと竜之卵を奪って、その河童に与えればよかったんじゃないか?」
「嫌ですよ。ただ与えられるものを享受するだけの部下なんて使い物にならないじゃないですか。それにちゃんと殺し方も覚えてほしかったんです」
 夜刀は顔から手を離し、眉間に皺を寄せながらモモキを見据えた。
「お前は殺すことに固執しすぎだ。甘言と暴力で揺さぶって追い詰めて判断能力を鈍らせれば、いくら大切なものでも差し出すだろう? その方が証拠も残らない」
「証拠?」
 モモキは心底不思議そうに小首を傾げた。
 揶揄われていると思った夜刀はやや不機嫌そうに、
「血とか死体とか、処理が面倒だろう? 足も付きやすいし」と言った。
 ゆっくりとモモキの元から大きな目がまるで風船が膨らむように見開かれていく。そうして限界に達した次の瞬間──「ぷっ」と吹き出したかと思うと、
「きゃはっ‼ きゃはははははっ‼」とリクライニングチェアの上で腹を抱えて笑い出した。
 突然のことに夜刀がぽかんとしていると、満足するまで笑ったモモキが目尻の涙を拭いつつ「あぁ、すみません」と珍しく心のこもった謝罪を口にした。
「……俺は、そんなに変なことを言ったか?」
 若干拗ねた様子の夜刀にモモキは不自然なほど爽やかな笑みを浮かべながら「いいえ」と首を左右に振った。胡散臭いことこの上ない。
「ただ、そうですね。竜之卵に関してはウツロ諸共、僕に一任されているので、保持者を生かすも殺すも好きにさせていただきますとだけ言っておきますね」
「……わかった」
 釈然としないが竜之卵のこともウツロのことも詳しく知らない夜刀には、そう返すほかなかった。
「そもそも、まだ協力してくれるような口ぶりですが、いいのですか?」
「いいも何も、もう船はこぎ出しているんだ、今更引き返せないだろう」
 リクライニングチェアの上で膝を抱えながら上目遣いに問いかけてくるモモキに、夜刀は淡々と言い返した。
「それもそうですね。──では、先に外で待っていますね。今夜も出かけるつもりだったのでしょう?」
「……お前が来たから行けなかったんだよ」
「それは失礼いたしました」
 ヒョイッとリクライニングチェアから飛び降りたモモキは、そのまま流れるような動作で優雅に頭を垂れ──瞬きの間にいなくなった。
 夜刀は体内にわだかまっていた様々なものを押し出すように「ふぅ」と息を吐いてから、荷物の奥に隠すように仕舞われている品を取り出し、上着の内ポケットに入れた。日本を発つ際に野槌から渡されたもので、夜刀の掌に収まるほど小さいが作るのに手間暇かかる上、作り手の数が驚くほど少ないらしく、金をティッシュか何かと勘違いしている野槌が「扱いに気をつけろよ。次、いつ手に入るかわからないんだからな」と滅多にない真剣な面持ちで念を押してきた希少な一品だ。
 ──何をしているんだろう。
 不意に目が眩むような虚しさが夜刀の胸中に去来した。
 ぐるぐるする思考の中で、二人の人物が笑いかけてくる。しかし炎と土が、笑顔を焼き払い、灰も何もかも覆い尽くした。何もない暗闇に、夜刀は一人残される。
「──行こう」
 破滅へと続く道の先へ、そうとわかっていながら夜刀はまた一歩踏み出した。
 それは二人の笑顔から遠ざかる行為であり、
 二人に追いつくための一歩でもあった。
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