一章:竜之卵の行方〈三〉

文字数 5,968文字

 時に歩き、時に駆け、時に飛びながら湖太郎は指定された場所を目指していた。
 内包する竜気の量が多い湖太郎の場合、走るよりも飛んだ方が速いし楽なのだが空を飛べる至竜といえど常日頃から飛び回っているわけではないので、ずっと飛んでいると悪目立ちしてしまう。保護者のいない幼児ならばなおさらだ。
「私のところに来る際は、なるべく人目につかないよう気をつけてくださいね」と言われていたので湖太郎はなるべく足を使うようにしていた。
 無意識に竜気で持久力を底上げしながら──それでも幼い身体には途方もない距離を進んでいく。息は切れ足の裏も痛い。ぐすっと鼻をすすりながら人気のない路地裏で湖太郎は袖ごと左腕を胸に抱き込んだ。そうすると袖の中にいるおばあちゃんの気配を強く感じることができた。卵になってしまったおばあちゃんは、あの少し固く暖かな手で湖太郎を撫でてはくれない。かすれているが不思議と聞き取りやすい声で湖太郎を呼んではくれない……──それでも、まだここにいる。傍にいてくれる。
 離れたくない──そんなささやかな湖太郎の願いを大人は叶えてはくれなかった。
 しかし──
「もうすこしだ……」
 キヨは約束してくれた。
 条件を満たせばおばあちゃんとずっと一緒にいられる方法を教えてくれると。

     ☯

「あと二週間よ。二週間経ったらおばあちゃんとは、さよならなの」
 朝食を食べ終えた後、真っ直ぐ向き合いながら「わかった?」と母親に聞かれ、湖太郎は視線を逸らすように頷くことしかできなかった。噛みしめた唇と握りしめた掌がずきずきした。
 姉の玻璃菜と共に竜之卵を拭き、玻璃菜が学び舎に行くのを見送ってから湖太郎はおばあちゃんの部屋で竜之卵をぼんやり眺めていた。いつの間にか眠っていたらしく目を覚ますと学び舎に行ったはずの玻璃菜が隣で竜之卵を見つめていた。湖太郎の目覚めに気づいた玻璃菜が振り返り「ご飯、食べた?」と訊いてきた。答える前に、お腹がぐぅ~っと鳴った。
 それから湖太郎は玻璃菜と共に用意されていた昼食を食べた。途中、笄花がやって来て「湖太郎、起きたのね」と言って頭を撫でていった。食後、おばあちゃんの部屋に戻ろうとすると玻璃菜に腕を掴まれ「学び舎に行かない?」と言われた。湖太郎はなんとなく「いく」と応えた。
 湖太郎は玻璃菜と共に学び舎の広大な敷地をあてもなく歩き回った。ベンチや芝生があるので疲れたら座ったり寝転がったりした。玻璃菜がお小遣いを使ってジュースやお菓子を買ってくれたので一緒に食べた。
 玻璃菜は何かと「楽しい?」と訊いてきた。楽しかったし嬉しかったけど、湖太郎は素直に頷くことができなかった。ふとした瞬間、おばあちゃんの顔が頭をよぎり、胸の真ん中がすぅっと冷たくなり、楽しいも嬉しいも消えてしまうのだ。
 人気のない木陰で思い出や感情が溢れた湖太郎は堪えきれず「おばあちゃんとはなれたくない」と泣き出してしまった。「なんで、あとにしゅうかんだけなの? たまごになっちゃったから?」「もっといっしょにいたい」と言いつのると、玻璃菜も「そうだね」「うん」と今にも泣き出そうな顔で応えてくれた。

「その願い、叶えてあげられるかもしれません」

 幹の向こう側から聞こえてきたその声は、しゃがれているが少年のものだった。
 玻璃菜と湖太郎が幹から離れると、幹の後ろから人影が軽やかに飛び出した。
 十歳前後の少年で真っ黒な山伏のような出で立ちをしており、髪は短く、黒目がちな目を細め、大きな口の両端をニィッと釣り上げている。その表情は笑顔のはずなのに、湖太郎には猛禽類が獲物との距離を測っているように見え、背筋がぞわぞわした。しかしそれよりも何よりも少年の言った言葉の方が気になった。
「……どちらさまですか?」
 湖太郎が逡巡している間に玻璃菜が湖太郎を背中に庇いながら問いかける。
 少年は芝居がかった仕草で手を胸に添えた。
「私のことは、キヨとお呼びください。おばあさまが竜之卵になられてしまったようですね。いくつかの条件を満たしてくれるのなら、ずっと一緒にいられる方法をお教えできますが、いかがなさいますか? なぁに、そんなに難しいことではありません。しかし、この先の話を聞くのであれば後戻りはできませんので、あしからず」
「ずっと、一緒……」と呟いたのは玻璃菜だった。
 見ると姉の顔には驚きと──それ以上の喜びが滲んでいた。玻璃菜も同じ気持ちなのだと気付いた湖太郎は、躊躇うことなく姉の後ろから飛び出し少年──キヨに「おしえてください」と言って頭を下げた。
 玻璃菜は息を呑んだが弟を止めようとはしなかった。
 キヨが笑みを深める。
「──では、続きをお話ししましょう」

     ☯

 虹霓は、宮城の場所や大路小路の配置など日本の平安京を模しているが、平安京と違い四方に城壁が築かれ大小複数の門が設置されている。
 湖太郎は「はぁはぁ」と荒い呼吸を繰り返しながら、南側の城壁に造られた小さな門を通り抜けた。花野と言うには、まだ色彩の乏しい草原が目前に現れる。念のため周囲を確認すると左手の遠方に、南側の城壁の中央に位置する虹霓の正門、蟠螭門(ばんちもん)と、門へと続く街道を行き交う人々が見えた。他に人影は見当たらない。
 背後を気にしながら草原を進んでいくと鬱蒼とした雑木林が現れた。
「キヨさん、キヨさん」
「あぁ湖太郎さん。こちらですよ。こちらです」
 湖太郎が呼びかけると雑木林の中からキヨの声が返ってきた。しかし生い茂る枝葉によって薄暗くなっているため湖太郎はキヨの姿を捉えることができなかった。声だけを頼りに雑木林に足を踏み入れる。
「こちらです。こちらですよ──陰陽師は追ってきていませんか?」
「きてないよ。おねえちゃんがべつのところにつれていってくれてるはずだよ」
「それはいいですね。とてもいいです」
「さきにりゅうのたまご、じかんをあけて、おんみょうじのひとをつれてくる……それがじょうけんだもんね」
「その通りです。その通りです」
 満足そうなキヨの声に導かれ湖太郎は雑木林の奥へ奥へと踏み込んでいった。
 先を行くキヨの声はつかず離れず一定の距離を保っている。それほど離れていないはずだが姿は一向に見えない。声と草や小枝を揺らす音がたまに聞こえる程度だ。
 なんとも言えない違和感が湖太郎の胸中に去来した。しかし幼い湖太郎は、それが違和感とは気づかず、ただなんとなくもやもやするなと思った。
「止まってください」
 キヨの指示に従い湖太郎は足を止めた。
 するとキヨの声が聞こえてきた草むらがガサガサと揺れた。
「キヨさん?」
「ガァッ──‼」
 湖太郎が声をかけると、草むらから赤茶色の大型犬が牙を剥き出しにしながら飛びかかってきた。
「わぁっ⁉」
 湖太郎は尻餅をつき咄嗟に両腕で頭を庇った。左腕を引っ張られ地面に倒れ込む。ブチブチッ──と繊維が乱暴に裂ける音がした。しかし──
「…………………………あれ?」
 覚悟していた痛みや衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
 目を瞬かせながら恐る恐る起き上がると、少し離れたところに布切れを銜えた赤茶色の大型犬が佇んでいた。赤みがかった黒い目がジッと湖太郎を見据えている。
「ひっ!」
 湖太郎は恐怖に身を竦めた。しかし大型犬が銜えている布切れが自身が身に纏う着物と同じものだと気づき慌てて左腕を見た。案の定、袖の部分がほとんどなくなっている。視線を戻すと、大型犬がまるで見せつけるように口を開いた。
「──っ! おばあちゃんっ‼」
 様々な色をまとった完璧な球体──竜之卵がそこにあった。
 湖太郎が立ち上がるのと大型犬が竜之卵を丸呑みするのは、ほぼ同時だった。
「あぁっ‼ ……あっ……あぁ……お、おばあちゃん……おばあちゃん……」
 まるで幽鬼のような顔色と足取りで湖太郎は大型犬に近づいた。
 そんな湖太郎の目の前で大型犬の身体がどろりと溶ける。
「──っ⁉ ぅぐっ! ──げぇっ……」
 立ち込める強烈な腐臭に湖太郎は咄嗟に鼻を押さえたが遅かった。せり上がってきたお菓子だったものを地面に吐き出す。
 その間に蝉が脱皮するように、溶けた腐肉の中から真っ黒な山伏の格好をした少年が姿を現した。キヨだ。背中には赤茶色の猛禽類の翼が生え、目、鼻、口など顔の中心部分以外の肌は翼と同色の羽根に覆われている。
 その姿は、烏天狗そのものだった。
「嗚呼っ! 新たに生まれ落ちたようだ! これが誕生‼ 今、私はとても清々しく満ち満ちている‼」
 翼を広げ自身を抱きしめながらキヨはぽろぽろと涙をこぼし恍惚の表情で天を仰ぎ謳った。羽根の先から火の粉が舞い、薄闇の中に佇むキヨを浮かび上がらせる。
 その神秘的で禍々しい光景を湖太郎は四つん這いの状態で眺めていた。
「……キヨ、さん? なんで……だって、さっき犬が、おばあちゃんを……」
 なんとか絞り出した声は混乱のため小さい上に掠れていた。しかしキヨの耳にはしっかり届いたらしく「あぁすみません。説明不足でしたね」と言って近づいてきた。
「先ほどの犬は私です。少し身を隠す必要があって間借りしていたんです。でもいつまでも犬の中にいるわけにはいかないので、あなた方に協力してもらって、力を蓄えることにしたんです。それと、犬に話しかけられたら吃驚してしまうと思い、あなた方とお話しする時は、幻術を使っていました」
「あっ……」
 はじめて会った時から変わらない笑顔──それが獲物を前にした獣の舌なめずりなのだと湖太郎は本能的に理解した。胸の中にあったもやもやが明確な恐怖に変わる。なんとかキヨと距離を取ろうとしたが、腰が抜けてしまい尻餅をつくことしかできなかった。そんな湖太郎をキヨはあと数歩の距離から笑顔で見下ろす。
「どうしました、湖太郎さん。随分震えていますね。怖いのですか? 私が」
 屈託なく悪びれもせず問いかけてくるキヨに湖太郎は恐怖を忘れ憤怒した。自由になる両手で草を千切り投げつける。草はキヨに触れることなく灰になってしまったが、湖太郎は構わず何度も何度も草を投げつけた。
「うそつき! うそつき! おっ、おばあちゃんをかえせぇ!」
「嘘?」キヨがこてんと首を傾げた。「嘘なんてついていませんよ?」
「じょうけんをみたせば、おばあちゃんとずっといっしょにいられるっていった! なのに、なのにおばあちゃんを……おばあちゃんをたべたじゃないか!」
「えぇ、ですから私が湖太郎さんの竜之卵を捕食すれば、おばあさまと湖太郎さんは私の中でずっと一緒にいられるでしょう?」
「──っ⁉」
「玻璃菜さんもお母さま、お父さまも、お友達も、みんな、みぃ~んな一緒です。寂しい思いはさせません。嬉しいでしょ? よかったですね。私も力を得られて嬉しいです。まさに一石二鳥ですね」
 穏やかで優しげな口調でキヨは語る──その内容を湖太郎は、はじめ理解することができなかった。ゆっくりと遅効性の毒が身体を巡るようにキヨの言葉が頭を巡り、その悍ましさに総毛立つ。
「な、なんで⁉ なんでそんなことするの? そんな……そんな、ひどいことっ‼」
「それが世の理だからです」
 笑顔はそのまま、先ほどまでとは打って変わって静かな声で言い放ち、キヨは炎を纏った掌を湖太郎に向けた。

「私はウツロ──天之大地より生じ、至竜を捕食する、至竜の天敵ですから」

 キヨの掌から炎が放たれ湖太郎の視界を埋め尽くす。鼻や頬に熱気を受け、漠然と『死』を意識した湖太郎の胸元で何かが動いた、次の瞬間──
〝にょにょ〟
 雄叫び(?)を上げながら赤ん坊の拳大の丸く透明な物体が着物の合わせから飛び出した。物体は瞬きの間に薄い壁のような形状に変わり炎をすべて受け止めた。
 じゅうじゅう音を立てながら壁に触れた炎が消え、あたりに霧が立ちこめる。
「なっ‼ ──ッ⁉」
 顔を歪めながらキヨが後ずさる──と、足元の地面が急に泥濘み、胸のあたりまで一気に沈み込んだ。腕は勿論、翼も思うように動かせずキヨは「ぐぅ」と呻いた。

 何が起きたのか湖太郎には、わからなかった。ただ逃げなければと思い、まだうまく力が入らない足腰を叱咤し、なんとか立ち上がった。しかし片膝がかくっと曲がってしまった。「あっ」再び尻餅をつきそうになった湖太郎の胴体を一本の腕が掬い上げた。そのままひょいっと小脇に抱え上げられる。
「湖太郎っ‼」
 左側から聞こえてきた聞き慣れた声に振り返ると、姉の玻璃菜が湖太郎と同じように小脇に抱えられていた。
「おねえ、ちゃん……? どうして? だってまだ……」
「お姉さんが急に、湖太郎があぶないって言い出したの! 半信半疑だったけど、気がついたらここにいて……だいじょうぶ? どこか、けがとかしてない?」
 紛うことなき姉の声に湖太郎の中で知らず張り詰めていたものがぷつっと切れた。
 ぼろぼろと涙を流しながら両手を姉の方に伸ばす。
「お、おねえちゃん……おねえちゃん‼ おばあちゃんが、おばあちゃんがっ‼」
「すまない。判断を誤った」
 降ってきたのは聞き慣れない──しかし耳に心地いい声だった。
 湖太郎は声の主──自分たちを抱えている人物を見上げた。珍しい髪型の美しい人だった。表情は厳しいが湖太郎たちに注がれる視線はとても優しい。
 ほんの数十分前のことを思い出し湖太郎は、はっとした。
「つめしょの、おんみょうじ、さん?」
「扇と呼んでくれ。詳しい説明は後だ。ミニタカラが足止めしてくれたが長くは保たない。少し距離を取るから舌を噛まないよう口を閉じていなさい」
 言うや否や詰め所の陰陽師──扇は駆け出した。乱立する木々の間を風のようにするすると通り抜けていく。──と、
「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」
 突如轟いた野太い叫びに幼い姉弟はびくっと身体を竦めた。
 背後を気にしながら扇は足を止め二人を地面に下ろした。
「二人とも、三、二、一、はい、と言ったら真上に飛ぶんだ。木より高い位置に着いたら虹霓を目指しなさい。ミニタカラ、二人を守ってくれ。お願いだ」
 明らかに戸惑っている姉弟の目を交互に見据えてから、扇はいつの間にか湖太郎の頭の上を陣取っていた透明な物体──ミニタカラを撫でた。
「行くぞ。三、二、一──はいっ!」
 かけ声と共に背中を押され、玻璃菜と湖太郎は戸惑いながらも言われたとおり真上に飛んだ。湖太郎は少しよろめいてしまったが、玻璃菜がすぐに手を繋いでくれたので持ち直すことができた。そうして二人が木より高い位置に到達した直後──
 足元で雑木林の一部が燃え上がり、何かが弾けるような鈍い音が響いた。
「──っ⁉ お、お姉さん‼」
 咄嗟に引き返そうとした玻璃菜の腕を大きな手が掴んだ。
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