二章:陰陽師の資質〈五〉

文字数 5,759文字

 昼でもなお薄暗い廃墟の廊下で葛寿は一人黙々と作業をしていた。
 壁を背にして埃が積もった床に胡座を搔き、冷え切ったおにぎり、スナック菓子、生ぬるい瓶入りの烏龍茶、表面がしっとりしたコロッケ、胡瓜の漬物──……等々、広げた風呂敷の上に転がる食べ物を飲み物を手当たり次第掴み口に運んでいく。
 立てる音は最小限。咀嚼だけはしっかりと熟し味わうことなく嚥下する。乙木之葛寿という道具(カラクリ)を動かすために動力を取り込んでいく(ネジを巻く)──ただそれだけの単調な作業を淡々と繰り返す。
 作業の最中、落ちくぼんだ目は、正面にある片開きの扉を真っ直ぐ見据えていた。
 表面の汚れを落とせばすぐに再利用できそうな木製の扉だ。
「…………」
 不意に作業の手を止め、葛寿は立ち上がった。
 ゆっくりと扉に近づきノブを掴む。音もなく開いた扉の向こうには、書斎と思しき部屋があった。大きな窓があり、そこから真昼の陽光が差し込んでいる。
 眩しさに目を細めながら室内を見回すと、執務机や倒れた棚の上に埃が積もり、本や燭台、花瓶などがごみと一緒に散らばっている。
「…………」
 葛寿は右足を引きずりながら大きな窓の下に設えられた重厚感のある執務机に近づいた。意匠の同じ椅子が少し離れたところでひっくり返っている。
 天板に手をつき、床ぎりぎりまである幕板の裏側を覗き──……
「──っ!」
 ぞわり、と悪寒が走った。咄嗟に執務机から飛び退き──「あっ」足がもつれ床に倒れた。立ち上がる間も惜しみ、埃が舞う中、匍匐前進で退室し、なんとか立ち上がり縋り付くように扉を閉める。
 心臓がどくどくと脈打っていた。血の気は引いているのには脂汗が止まらない。
 気持ちを静めようと目を閉じ、呼吸を整える。──と、
『足掻くなよ』
 記憶の奥底から這い出てきた美麗な青年が悍ましい笑みを浮かべながら語りかけてくる。
『お前は陰陽師を辞めて、これからどうしたらいいかわからないんだろう? 何がしたいかわからないんだろう? だったら──……』
「黙れっ‼」
 額を扉につけ、両手を首に添えながら葛寿は叫んだ。
 美麗な青年は、くすくすと笑いながら記憶の奥底に戻っていった。
 しばらくそうしていると階下から人の気配がした。
 窓に近づき眼下を見ると庭へと続く獣道に一組の男女がいた。
 顔の広範囲に古傷がある陰陽生の少年と特徴的な髪型の女陰陽師だ。
「──っ! ちっ!」
 湧き上がる苛立ちのまま鋭い舌打ちを響かせ、葛寿は階段に向かって歩き出した。

     ☯

 雨宿り亭の前で梫太郎たちとわかれた扇と速午は、一度公園に顔を出してから廃墟に向かった。その道すがら……──
「扇少将……」
 人気がないことを確認した速午が足を止め、そっと右手を差し出してきた。袖口から、ひょこっとタカラが姿をのぞかせる。
「あぁ」
 扇も足を止め同じように右手を差し出すと、速午の袖口から弾丸のようにタカラが飛び出し、すぽっと扇の袖口に入り込んだ。
〝にょにょ〟満足そうな声が聞こえたので扇は袖にいるタカラを布越しに撫でた。
 速午がぼそっと「羨ましい……」と呟いたが扇の耳には届かなかった。
「先ほどは急に席を外してすまなかったね。田村くんと鈴木くんとは楽しくおしゃべりできたかい?」
「はい。デザートを食べながらそれなりに。タカラくんがいたので扇少将の姿が見えずとも、なんとか冷静を保つことができました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「──……梫太郎さんを食事に誘ったのは、情報を得るためですか?」
 探るような速午の視線に扇は笑顔で「そうだよ」と応え歩き出した。
「武術の授業で葛寿くんと手合わせしたと言っただろう? その時、梫太郎くんもいたんだ。実力の近い者同士、なんとなく一緒に行動することが多かったらしい。だから今も交流があるかと思ってね」

 昼食後、扇は笄花に断りを入れてから梫太郎と連れ立って店の外に出た。田村と鈴木がデザートを選んでいる最中、「乙木之葛寿くんについて教えてほしい」とこっそり伝えたところ、普段の声量からは考えられないほど小さな声で「では、外で」と返されたのだ。
 梫太郎は昼でもなお薄暗い路地裏で足を止めた。
「まずは、扇さんのお話を伺っても?」
「そうだね。その方がいいだろう」
 扇は前日の出来事を掻い摘まんで話した。梫太郎は始終真剣な面持ちで清聴していたが、扇が話し終えると「はぁ……」と詰めていた息を吐き、「葛寿は、生きているのですね」と安堵の滲む声で呟いた。
「顔色はよくないし身体も細かったよ。よく眠れていないようだ」
「それでも、生きているのならば上々です。──……あっ‼」
 扇の婚約者のことを思い出したのだろう。梫太郎が真っ青な顔で口を抑える。しかし声量は抑えられなかった。あわあわする梫太郎に扇は「ふふっ」と笑みをこぼし、「確かに、生きていれば上々だ」と応えた。
「しかし同時に、生きるということは四苦八苦を抱え続けるということだ。葛寿くんに何があった?」
 静かな口調で問いかけると、落ち着きを取り戻した梫太郎が「ごくり」と唾を呑み、話しはじめた。
 乙木之葛寿は十九歳で陰陽生に、二十二歳で陰陽師になった。
 やや真面目すぎるきらいはあったが勤務態度も職場の人間関係も良好だった。
 しかし勤務中にウツロと交戦し右足を負傷。現場に居合わせた先輩の陰陽師によってウツロは滅せられたが、右足に後遺症が残ったため退職する道を選んだ。
 陰陽師になってから一年と数ヶ月後のことだった。
 その後、様々な仕事に就いたがどれも長続きせず、ここ数年は建築現場で日雇いの仕事をして糊口を凌いでいた。しかし、今からひと月ほど前、現場で事故が起き、葛寿は自分と同じ日雇い労働者を庇い負傷。幸い軽傷で済んだが、庇った相手と口論になり、そのまま出奔。以降、その足取りは途絶えてしまった。
「その助けられた方も昔、陰陽師を目指していたそうです。だからこそ片足が不自由にも拘わらず自分より動ける葛寿が陰陽師を辞めたことに憤りを覚え、『どうして陰陽師を辞めた!』と、なじってしまったと仰っていました」
「わざわざ話を聞きに行ったのかい?」
「はい。葛寿の足取りが知りたかったので、藁にもすがる思いでした」
「……随分、葛寿くんのことを気にかけているんだね」
 扇の指摘に、梫太郎はぐっと唇を引き結んだ。
「生きているならば上々──それはまるで、葛寿くんがいつ死を選んでもおかしくない、と言っているようにも聞こえるよ」
 決して逃がさないという意志を込めて長身の梫太郎を見上げると、年かさの友人は沈痛な面持ちをしていた。その唇が、そっと開かれる。
糸遊之摩耶(いとゆうのまや)を覚えていますか?」
「勿論。摩耶くんを含め、学び舎で君たちと交わした竹刀の感触を忘れたことはないよ。ただ……彼は四年ほど前に指名手配されたはずだ」
「はい。殺人未遂で指名手配されています。その現場を目撃したのが自分で、被害に遭ったのが葛寿です」
「──っ‼」
 息を呑む扇を真っ直ぐ見据えながら梫太郎は頷き、告げた。
「四年前の蒸し暑い晩夏の夜に、葛寿は摩耶に殺されかけたんです」

「摩耶くんは、陰陽師だったんだが二年ほどで辞めて貿易会社に転職したんだ。大海の島と竜之国を行き来して、中々羽振りもよかったらしい。一方、葛寿くんの方は日雇いの仕事をはじめたばかりで色々と大変な時期だったそうだ。
 事件の日、二人が再会したのは偶然で、摩耶くんが奢ると言って何軒かはしごした後、路地裏に連れ込み犯行に及ぼうとした。そこに仕事終わりの梫太郎くんが、これまた偶然、通りがかったというのだから因果だね。梫太郎くんは、てっきり酔っ払いが吐いているのだと思って声をかけたらしい。しかし近づいてみると友人が友人の首を絞めているという地獄絵図だったわけだ」
「その摩耶さんは……」
「現場から逃走。未だに行方不明だ」
 廃墟の獣道を進みながら扇は軽く肩を竦ませ首を左右に振った。
 先を行く速午はその様子を肩越しに見て、なんとも言えない表情になった。
「動機はわかっているのですか?」
「竜之卵だよ」
 速午の疑問に答えたのは、後方にいる扇ではなく前方にある元は庭だった林に佇む葛寿だった。いつの間にか獣道を抜けていたのだ。葛寿の耳元に小さな竜巻のようなものが浮かんでいたが、ふっと解けるように消えてしまった。
「聞き風か。凄いね。そんなに小さなものは久しぶりに見たよ」
 扇は純粋に感心したのだが葛寿は不服そうに口をへの字にした。
 聞き風は、離れた場所の音を収集し聞くことができる竜道を用いた技の一種だ。
 竜道の使い方に決まりはないが、汎用性が高く誰でも使えそうなものには名称がつけられ、技として学び舎でも教えたりする。聞き風は本来索敵用だが悪用もできるので、学び舎ではなく就職してから必要に応じて上司や先輩から伝授される。
「動機が竜之卵というのは、どういうことですか?」
 扇を庇うように前に出た速午が問いかけると、葛寿はぴくりと眉を動かし値踏みするような視線を速午に向けた。
「お前、昨日もいたな。俺の風を切りやがった陰陽生」
「柃之速午です。土属性です」
「ふぅ~ん……」
 生返事をしながら葛寿は顎を撫でた。興味なさそうに見えるが、速午の顔に固定された視線は、妙に鋭い。
 速午は居心地悪そうに身じろぎし、扇に問いかけた。
「……扇少将、俺の顔に何かついてますか?」
「目と鼻と口が、いい塩梅でついているよ」
「おかしなところはないということですね。わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」と返してから扇は少し声を落とし、
「それと摩耶くんが凶行に及んだ動機だが、彼の勤めていた貿易商は、大海の島の裏社会とずぶずぶだったんだ。事件の後、然るべき裁きを受けて倒産したけどね。摩耶くんも質の悪い輩に弱味を握られ竜之鱗を密輸していたことが検非違使の捜査で判明している。脅されていたが報酬ももらっていたので止められなかったようだ」
「……そのうち、相手が竜之鱗では満足できなくなったんですね」
 淡々と、しかし痛ましそうに眉を顰める速午に、扇は「そうだ」と首肯した。

「蘇芳之、天馬……」

 葛寿の口から懐かしい名前が紡がれたのは、その直後だった。

     ☯

「そうだその顔! 見たことがある、子供の頃だ! 蘇芳之一族の末っ子、史上最年少で陰陽生になった天才、そして竜皇の娘であり未来の竜皇の異母妹の婚約者!」
 歪な笑みを浮かべた葛寿は真っ直ぐ速午を指差し叫んだ。
「俺は八貴族である乙木之一族の末席に名を連ねているからな、貴族の集まりにも行ったことがあるんだ! 陰陽生! お前の顔は、お前の上司の死んだ婚約者、蘇芳之天馬にそっくりだ! 他人のそら似なんてものじゃない! 十年以上前に死んだ男と同じ顔、同じ属性の男が、どうして存在しているんだろうな?」
 妙にぎらぎらした両目には、嗜虐の色が濃く滲んでいる。ただただ他者を痛めつけることだけに注力しているようだ。そこに整合性などありはしない。そのことに気付いた扇は冷静に葛寿の言葉を受け止めることができた。しかし速午は、悪意をそのまま受け止めてしまったらしい。
「──っ! 何が言いたいっ⁉」
「落ち着け、速午くん」
 眉を吊り上げ葛寿に詰め寄ろうとする速午を扇は手で制した。
「はははははっ! あはははははっ! ひひひひひっ!」
 葛寿は腹を抱えて笑い出した。心底楽しそうだが纏う空気は澱んでいる。
 速午は、扇の制止を振り切ろうとはしないが、太刀の柄を右手で強く握りしめ、ぎりぎりと歯を食いしばり、炎のような怒気を宿した黒と白銀の瞳で油断なく葛寿を睨みつけている。しかし葛寿はそれすら心地好いと言わんばかりに笑い続けた。呼応しているのか、それとも無意識に竜道を使って風を動かしているのか、周囲の木々もざわざわと葉擦れを響かせている。
「はははははっ! 梫太郎から俺の過去を色々聞いたようだが、まずは自分の周囲を心配した方がいいんじゃないか? なぁお姫さま。ひひひひひっ! 皇族の婚約者に隠し子がいたんだ、皇族も相手が二大貴族の蘇芳之一族とはいえ黙ってないだろうなぁ。あはははははっ! はははははっ! ひひっ! ひひひっ……──」
 笑声が段々小さくなり、ぴたりと止んだ。
「……おい、なんだその顔は? なんでそんな平然としている?」
 上機嫌から一転、顔をしかめた葛寿が地を這うような声で詰問する。
 動揺を見せない扇の態度に苛立ちを覚えたようだ。
 扇は、「あぁすまない」と言って微笑んだ。
 葛寿は、ぎりっと奥歯を噛みしめたが、すぐに「はっ」と嘲笑を浮かべた。
「そうか、そうだよな。どうせ親同士が決めた政略結婚だ。年も随分離れていたし、今更、隠し子の一人や二人いたところで、なんとも思わないってことか」
「勝手に納得しているところ悪いが、私は天馬くんのことをとても大切に想っているし、万が一、隠し子がいたのならば死ぬほど悲しい」
「ならなんでそいつを部下にした? 何故お前はまだ生きている?」
「部下にしたのは勅命だからだ。生きているのは速午くんが天馬くんの隠し子じゃないからだ」
 それは願望でも希望でもなく、扇の中では、ただ紛れもない事実だった。
 だからこそなんの気負いもなく断言することができた。
 しかしその余裕のある様子が葛寿には堪えたようで、「ぐっ」と悔しそうに口を噤むと、そのまま糸が切れた傀儡のようにうつむいてしまった。

 扇は、速午の肩を軽く叩き「戻ろう」と言って踵を返した。速午もすっかり頭が冷えたらしく、「はい」と頷き、すぐについて来た。
「あっ」少し進んだところで扇は一度足を止め、振り返った。
「葛寿くん。今日、初空くんは来ないよ」
「はつぞら?」
 少し顔を上げた葛寿が訝しげに繰り返す。
「昨日、君に食べ物を運んできてくれた男の子だよ。彼の兄の友人がさっき公園まで来て教えてくれたんだ。初空くんの兄が廃墟通いを両親に伝えたところ、交代で初空くんとの時間を取ることにしたから、今日は家から出ないはずだと」
「……俺には関係ない」
 力なく応え、葛寿はふらりと廃墟に向かって歩き出した。
 その丸まった背を、さわっ……と柔らかな風が撫でていった。
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