前進しているのか否か

文字数 1,835文字

 最近は、遊びにおいでと、シュウから誘ってくれる。休日を除いて、週に二回はお邪魔していた。
 話に夢中になって、すぐ時間が経ってしまう。それでも、私は比奈さんと呼ばれるまま。
 シュウは、記憶を失う前の時事問題や流行については覚えている。一般常識や雑学は、私よりも知っていた。
 ゴッソリ抜け落ちたのは、自分のことだけ。鏡に映った顔、邦倉修士という名前、一緒に住む両親。どれも、いきなり押し付けられた設定にしか思えないそうだ。
 現在、記憶が戻る気配はないけど、少しずつ快方に向かっていると信じたい。今にも消えそうな儚さは薄れて、髪や服装に気を遣うようになった。
 今日も、玄関でシュウのお母さんが迎えてくれる。初めて会った時はくたびれた感じだったけど、表情や身につける服の色が明るくなった。
「いらっしゃい」
「こんにちは。いつも長居をして、すみません」
「比奈さんが来てくれて助かるよ。イライラすることや塞ぎ込むことがなくなったし、私やお父さんとは、これまでと変わらない感じで話すようになったもの」
 私はお母さんにお辞儀をしてから、シュウの部屋に向かう。ノックをすると、シュウがドアを開けてくれた。
「待っていたよ」
「今日も暑いから、途中でアイスを買ってきた」
「いつもありがとう」
 私達は各々、パッケージを開けて、アイスキャンディーに噛り付く。少し溶けたかと心配したけど、歯が立たないくらい、キンキンに冷えていた。
「シュウはお母さんのこと、どんな風に感じている?」
「赤の他人だって、切り捨てられない。笑ってくれると嬉しいし、何も覚えていなくても好きなんだと思う」
「シュウは良い子だ」
「オバ様の誉め方だよ、それ」
「失礼な、私はピチピチの16歳だよ?」
 軽口を叩き合っていると、うっかりシュウと呼びたくなる。ベタだけど、シュウが近くて遠い。


 シュウは、自分のものを使うことに抵抗がなくなってきたようだ。それでも、プライバシーに関するものは、未だ触れられないでいる。
「スマホは、どこにあるの?」
「机の引き出し。着信が鳴った時に、怖くて電源を切ったきり」
 誰だって、知らない相手からの着信は無視するものだ。シュウはスマートフォンを取り出して、はいと私に手渡す。事故当時はリュックに入れていたのか、ディスプレイにひび割れはない。
「好きに見ていいよ」
 シュウは、漫画雑誌を貸すような調子で言う。個人情報の塊なのに、気安いな。
 本人の許可があるとはいえ、自分がされて嫌なことはしたくない。スマートフォンの動作確認をしたら、すぐに返そう。
 電源ボタンを長押しすると、メーカーのロゴが表示された。次にロック画面が出て、ここではメッセージ等の通知を非表示にしているらしい。
 パスワードを要求されたので、シュウに目を向ける。ミニテーブル越しに、私を観察しているらしかった。記憶がなくても、思考は変わっていない筈。
「パスワードが掛かっている。邦倉くんならば、何て設定する?」
「誕生日かな」
 暗証番号で使わないことが望ましいと注意喚起されているけど、私もスマートフォンのパスワードは誕生日にしている。シュウの場合は六桁設定なので、生年月日だろうか。
 まずは、和暦の生年月日を入力。エラーになったので、次は西暦下二桁プラス誕生日にしたけど駄目だった。
「違っていた?」
「うん。総当たりで挑戦してもいいけど、何回も入力エラーになると面倒なんだよね」
 入力可能になるまでの待機時間が長くなるし、機種によっては画面ロックされる。シュウの記憶が戻るまで待った方が良さそうだ。
「初期化しようかな」
「最後にバックアップをしたのがいつか分からないから、それはやめた方がいい」
「この中に入っているデータが消えても、未練はないよ」
 シュウは、ふっと立ち消えそうな笑みを浮かべた。記憶を失う前のシュウを必要としていないみたいで悲しくなる。今のシュウにとって、過去に纏わるものは足枷でしかないのだろうか。
「ごめん、困らせたね」
「ううん」
「それ、比奈さんが預かって。手元に置くと、衝動的に初期化する可能性があるから」
「分かった」
「パスワードで入れていたようだけど、オレの誕生日を知っているの?」
「去年、コンビニスイーツで祝ってあげたから覚えているよ」
 本当は友達だから当たり前と答えたかったけど、今のシュウに言っては図々しいかなと、ためらってしまった。シュウは記憶を探るように、ジッと一点を見据える。少ししてから、諦めた様子で息をついた。
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登場人物紹介

比奈結子(ひな・ゆいこ)

ハキハキした性格の女子高生。

中学時代に失恋して以来、ナカナカ恋ができないでいる。

邦倉修士(くにくら・しゅうじ)

結子と同じクラスで、周りから仲良しコンビとして認定されている。

チャラいイケメンに見られがちだが、実は草食系男子。

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