第3話 修二

文字数 2,689文字

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 わたしは樋口優子、年齢は三十二才。この会社に入社してもう十年。右も左もわからないヒヨッ子だったわたしが、いつのまにか若い子たちを使う立場になっていた。
 この十年と言うもの、華やいだ話もなく、例のゲス部長の悪夢に始まり、その他のセクハラ、パワハラにもめげず、同期入社の女子たちが次々と片付いてゆく中、気が付けばいつの間にかお局様だ。しかし裏を返せばそれはただ仕事一筋でやって来た証拠だ。でもこんなわたしにだって彼氏ぐらいはいる。
 なるほどそうか、ピンと来た。今夜も須藤が遅くまで残っているのはそういうことか。上で会議中のあいつを待っているのか。 
 わたしをたらし込んだ時には、あいつはまだ主任だったのに役員の娘と結婚して今や営業部長様だ。悔しいが世渡りはうまい。でもあの女好きは一生治らないだろう。女なら誰でもいいのか? バカにしている。
 誰もいなくなったレセプションを通り過ぎ、わたしは颯爽とエントランスへ向かう。正面の自動ドアにスーツ姿のわたしが映っていた。派手さはない。しかし自慢するわけではないが、見た目はけっこうイケている、と思う。
 建物から一歩外に出るとそこには妖艶な春の宵が広がっていた。街は蒼く澄んだ海の底に沈んでいるようだ。わたしは急ぎ足で駅に向かって歩き出した。
 この三か月間と言うもの、彼とはすれ違ってばかり。お互い忙しい身だ。それは重々わかっていたが、わたしは身も心も乾き切っていた。ようやく週末を二人きりで過ごすことができる。
 ここ数週間と言うもの、どんなに女が疼いても自分で慰めたりはしていない。こっそり通販で買ったシリコン製の恋人はワードローブの奥に封印中だ。ずっと我慢している。今自分でも欲情しているのがわかる。
 あの指の感触や、あの唇や、あれやこれや……。思い出すたびに妄想はどんどん膨らむ。そしてひび割れた体と心に恵みの水を灌ぐのだ。そう思うと自然に急ぎ足になる。
 正面の高層ビルの間に大きな満月が浮かんでいた。なんと淫靡な色だろう。
 時折、生温く湿った東風がわたしの顔をやんわりと撫でる。月は東に日は西に……か。聞き覚えのあるフレーズが思い浮かぶ。「えっと、上の句は何だったっけ?」そんな取り留めもないことを呟く道すがら、沈丁花の甘い香りが漂っていた。三十二にもなってわたしは不覚にも少し浮かれていたのだ。
 その時、キンコンとスマホが鳴った。嫌な予感。わたしはバッグから取り出して見る。今待ち合わせをしているあいつからだ。予感的中!
〝急に予定が変わった。今夜は会えない。ごめん。この埋め合わせは来週必ず〟
〝ええ、どうして?仕事?〟と返すと、キンコンとすぐに返事。
〝うん。急な大阪出張。ほんとゴメン〟
〝わかりました〟
 打ってすぐにスマホの電源を切った。怖かった。もう返事は来ないこと……。
 ――嘘ばっかり。あいつはいつもそうだった。本当はうすうす気付いていた。たぶん今もあいつは一人じゃない。どこかのお洒落なカフェで若い女を前にわたしにLINEしたに違いない。そのシチュエーションがあっさり想像できる。
 ああもう! でも仕方ない。悔しいけれど年には勝てない。今夜会ったらそんな話になるんじゃないかと心のどこかで覚悟していた。さあこれでもう自由だ。行き場を自分で決めなければならない。それが自由と言うものだ。
 付き合い始めた頃はわたしもまだ二十六だった。若かった。それがどうだ、足掛け六年、のらりくらりと待たせたあげくにこの仕打ちだ。さっさと見切りを付けなかったわたしにも非はあるだろうが、今度もし、あいつに会うことがあったらグーでなぐってやる。しかし何だろうこの満たされない思いは。涙すら出ないのはどうしてだ。
 小柄なスーツ姿の男が前から歩いて来る。ちらりと顔を見る。少しあいつに似ている。ああ、わかった。アレだ。体が、無理やり納得しようとしている心に文句を言っているんだ。
 女って面倒だ。出したら終わりの男と違って、一度入ったスイッチはそう易々とは切れない。たとえ登り詰めたとしてもそれで終わりではない。
 そう、スイッチを切ってくれる人が必要なのだ。朝までいっしょに眠ってくれる人が必要なのだ。いいえ、もうやめましょう。余計に惨めになる。くだらない自己分析はわたしの悪いクセ。
 ふん、何のことはない。つまり今わたしはとても欲求不満になっている。ただそれだけのこと……。
 無駄に早く着いたターミナルは浮かれたカップルだらけ。週末だし、こんな春の宵だもの。浮かれもするよね……。あれはちょっと前のわたしの姿。
『孤独』と言う大きな書き文字がわたしの頭上からずしんと落ちて来そうだ。
 結局わたしは一人淋しく家路を急いでいた。急いで帰る理由もないけれど、どうせ一人でいるなら家がいい。今夜はもう誘ってくれる人もいない。たまにあるんだ。こういう夜が。
 こんな夜はやたらと肌の温もりが恋しくなる。それがどんなつまらない男であっても、声を掛けられたらふらふら付いて行きそうな危ない夜だ。もう後でトラウマになるのはたくさんだ。さっさと帰ろう。温かいお風呂に入って思い切り泣ければいい。
 混雑した改札を抜けて、ちょうど来た電車に乗り込む。明るい車内。帰り人たち。みんな疲れた顔をしている。すぐにグルメ雑誌の中吊り広告が目に入る。ドア横には美容脱毛のB3ポスター。これはわたしの会社で創った広告だ。VIO脱毛か……。わたしにはそんな勇気はない。ていうかそんな必要はもうない。そう言えば、あいつはパイパンが好きなド変態野郎だった。わたしのヘアーを剃らせてくれと頼んだこともあった。ふざけんな! 怒りがぶり返す。隣に立つサラリーマンからコロンが匂う。甘い香りだ。あいつと同じ匂い……。
 こんな時の電車は進まない。毎日見ている景色。まだここか。乗っている時間がいつもよりも長く感じられる。ドアに映るわたしの顔。酷く疲れた顔だ。わたし、こんな顔していたっけ? まるで自分ではないみたいだ。もう少し女、磨かなきゃ。これじゃあ男に逃げられるはずだ。
 ようやく電車は家のある駅に到着した。ドアが開き、大勢の人がホームに降り立つ。その人ごみに混じって、見覚えのある横顔の男性が一人。
 あれは確か……?
 そうだ、幼馴染の修二だ! 苗字は、えっと、そうだ。山崎だ。山崎修二だ。確か大学を卒業後、九州方面に就職したと聞いていた。もう長いこと会っていない。こっちに戻っていたんだ。 
 わたしの中に衝動が湧き起こる。次の瞬間、わたしは人ごみに消えるその後姿を無意識に追いかけていた。
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