バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

面白かったです!

最新二話、とても面白かったです!
アブラハムが神に何度も問いかけて、「ソドムの町を滅ぼすための基準となる『正しい者』の人数」をどんどん減らしていくところ、読んでいて(いつ神が怒りだすかと)ドキドキしました。でも、神は怒らないんですね。最終的には10人よりもっとずっと少なかったのですから、びっくりです@@ でも、これが「赦す」ということなのかと、その意味について考えさせられました。一旦「正しい人を赦す」と決めたら、それがたった一人であっても、神は救うということなのでしょうか。でも、もしこれが人と人の間だったら、「赦す」という行為には、どこかで線を引いてしまいますよね(ここまでは赦すが、これ以上は赦せない、というように)。…その意味で、いろいろ考えさせられるエピソードでした^^
「ソドムとゴモラ」は、プルーストの『失われた時を求めて』のイメージが強いですよね。でも、『創世記』には、「同性愛が罪だった」とは書かかれていないということに、改めて驚きました。『失われた時を求めて』の影響などもあり、なんとなく「キリスト教=同性愛差別」のイメージがなかったとは言えないので、「自分たちの差別感情とどう向き合うかによって、「ソドムの滅亡」をめぐる解釈も変わる」という言葉が、とても印象に残りました。時代の移り変わりや社会状況の変化、また個人的な意識の違い等によって、解釈も変わるということなのでしょうか。
mikaさんの巧みなナビゲートのおかげで、毎回『聖書』が含む様々な問題を知ることができ、またその魅力と面白さがビビッドに伝わってきます。
続きを楽しみにしています~(^^)/

返信(1)

南ノさん、お忙しいところお読みいただきありがとうございます。わぁ、お楽しみいただけてうれしいです!
神にしつこく食い下がるアブラハム、読んでいてドキドキしますよね^^ そうなんです、神は怒ったりしないのです。18章と19章を読んで、神の憐み深さを感じます。ソドムに取り残された「正しい者」を御使いに手を引かせて、神ご自身が救い出してくれるんです。ロトは逃げるのをためらっているし、娘たちの許嫁はロトの話を笑って相手にしません。それでもロトが町から脱出し、近郊の小さな町に避難するまで待ってあげます。
神が御使いをソドムに遣わしたのは、ソドムを訴える「叫び」が無視できないほど大きかったから、その真偽を確かめるためでした。神はソドムを裁くにあたり、片方の意見だけで判断しないで、双方をよく見てから、決断しています。神の正義の公正さを感じるところです。

1955年以降、現代の聖書学者たちは「ソドムの滅亡は歓待の掟を守らなかったことへの裁き」、という解釈を支持していますが、ネット上では現在でも「ソドムの罪は同性愛」という言説があふれているんです(Wikipediaなど)。ロトの家をソドムの男たちが襲撃したとき、男たちは客人たちを強姦しようとした、と考える解釈もあります。しかし、襲撃の目的が強姦でも強盗殺人でも、理由がなんであれ、罪のない旅人を襲撃したこと自体が罪であると言えます。
アブラハムたちは、旅と一時的な定住を繰り返す半遊牧生活をしていたので、見知らぬ町で受け入れてもらえるかどうかは、文字通りの死活問題だったはずです。アブラハムの時代の法と倫理に照らせば、ソドムの住民たちが歓待の掟(客人法)を破ったことは、神に裁かれて当然の重い罪、ということになるでしょう。

出エジプト以降、イスラエルの民は定住して建国します。国家ができると、領土を接する異教の国々と戦い続けなければいけません。偶像崇拝や性的不道徳は敵対する敵勢力のシンボルです。だから、ソドムも偶像崇拝と結びつけて考えられるようになったのでしょう。捕囚時代、イスラエルの民は自国が滅亡した理由を問い続けます。滅亡した祖国と、ソドムが重ね合わされ、ソドムと同じような罪(ここでは偶像崇拝の罪)を犯したから、神はイスラエルを裁いて、異教徒たちの奴隷にさせたのだ、と考えるのです。同時に、栄華をきわめるバビロンの都も、異教徒が住む町なので、いずれソドムと同じように滅亡するだろう、と考えて未来に期待するんです。捕囚時代や捕囚後に書かれた旧約の文書は、このような考え方です。

アウグスティヌス以降、ソドムと同性愛が結びつけるようになり、その誤った聖書解釈は現代までつづいています。南ノさんのおっしゃるとおり、教会が同性愛者を迫害し、排除してきた歴史は目を背けてはいけないと思います。ワイルド裁判が有名なように、同性愛はかつては犯罪とされていました。1980年代に入って、ヨーロッパ各国で同性愛が合法化されました。公的な権利が認められたとは言え、同性愛者を対象としたヘイトクライムはいまだになくなりません。アメリカのキリスト教会では、同性愛をカムアウトした牧師がいたり、同性婚を認めるリベラルな教会がある一方で、同性愛者にバプテスマを受けさせないとか、聖体拝領をさせないなどの教会もあります。同性愛者を排除する教会では信徒の子供が同性愛者の場合、「病気」だから異性愛者に治すための「矯正教育」を施す、といった非人道的な教会も現実にあるそうです。同性愛者を受け入れる教会も、排除する教会も、どちらも同じ聖書を読んでいて、同じ神を信じているんですよね。それぞれ、自分たちが正しいと聖書を根拠に主張しています。
わたしが直接知っている日本人牧師で、同性愛をカムアウトしているかたがいますよ。その牧師を通して感じるのは、聖書からは同性愛を罪とし、同性愛者を排除する言葉を読み取ることもできるし、性指向を生まれ持った賜物として受け入れ、神の前に平等と考える言葉を読み取ることもできる、ということです。聖書からどんなメッセージを受け取るかは、読者の差別感情しだいだなと思います。

次回はロトの妻と娘のお話です。引き続きよろしくお願いいたします!