バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。

聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。
※今月は、隔週水曜更新です。

アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

「息子を殺そうとしたアブラハム」「ナホルからの知らせ/サラの死」

mikaさんのこの作品は、いつも本当にわかり易くて感動します!^^
「息子を殺そうとしたアブラハム」では名画を紹介して下さることにして、ビジュアル的に場面がよくわかりますし、「ナホルからの知らせ/サラの死」では複雑な家族関係が「黒板」によって一目瞭然ですね^^
わかり易く書くというのは、とても大切なことだと思います。それは読者に対する心遣いであるだけでなく、何よりmikaさんがこの題材(聖書)を本当に深く理解なさっていることの証明でもあるわけですよね。
特に「息子を殺そうとしたアブラハム」は、信仰というものを考える際に、とても大きな意味を持つ気がしました。キリスト教ではなくて道教の話ですが、わたしはふっと「杜子春」の物語を思い出してしまいました。いろいろな試練を負わされるところがちょっと似ている気がしたのです。元々の中国の原作では「自分の子供に対する愛情」から、原作を改編した芥川龍之介の作品では逆に「自分の母親に対する愛情(孝心)」から、杜子春は最後に戒を破って口を利いてしまうのですが、むしろそれが人間らしい行い(少なくとも自然な行為)だと――特に芥川の作品の方からはそういう思想が窺われます。
でも、アブラハムは本当にイサクを犠牲にしようとするんですね。そこがけっこう衝撃的でしたし、いろいろ考えさせられます。(まだうまく考えがまとまらないのですが…^^;)

それにしてもmikaさんが紹介して下さった名画、殺されそうになるイサクが妙にエロチックな感じに描かれていてびっくりしました。
聖書をモチーフにした絵画というのは、聖書の意味を伝えるものでは必ずしもなくて、聖書の場面をかりて何か別なものを描こうとすることもあるのかなあ、とちょっと感じてしまったのですが、そういう感想を持つのはおかしいでしょうか?^^
とにかくすごく面白く、且ついろいろ考えさせられる作品で、続きがまたまた楽しみです~(^^)/

返信(1)

南ノさん、お忙しい中でお読みいただきありがとうございます! 図解が分かりやすかったと言っていただけて、安心しました^^
「イサクの犠牲」のお話を読んで、『杜子春』を思い出されたのですね。さすが南ノさんです。仙人になるための試練を受けた杜子春は、自分の子供のため、あるいは自分の母親のために、戒めを破って声を出してしまう。俗世を捨てた超越的な仙人になるよりも、家族の情愛を捨てきれない人間のままでいる方を芥川は倫理的に評価したのですね。
キルケゴール(沈黙のヨハンネス)は、『おそれとおののき』の中でこんなことを言っています。

アブラハムには嘆きの歌がない。嘆くのは人間らしいことだ。泣く者とともに泣くのは、人間らしいことだ。しかし、信仰するということは、いっそう偉大である。信仰ある者を眺めるのはいっそう幸いなことなのだ。

アブラハムは度重なる苦難に遭いながらも、神の言葉に従って生きてきました。アブラハムが神に言われたとおり、父の家を離れて旅立ったことについて、「もし信仰によるものでなければ、おそらく彼はさまよい出ることをしなかっただろう。そしてそのようなことは狂気の沙汰だと考えただろう」とキルケゴールは言っています。常識的に考えれば、見知らぬ土地で文化や信仰の異なる外国人とともに暮らさなければならなくなったら、自分の境遇を嘆くはず。神の言葉など聞かなければよかったとすら思うかもしれません。
しかしキルケゴールが言うとおり、『創世記』にはアブラハムの悲しみや嘆きは書いていないのです。イサクをささげようとした時も、神の命令の残酷さを呪ったりしないんですよね。そういう意味で、娘を生贄にささげたアガメムノンとはまったく異なる態度をとっています。このときのアブラハムの短い台詞から分かることは、イサクが生きて戻ってくることを信じていた、ということだけです。神が契約を果たすために、アブラハムにイサクを授けてくれたからです。
キルケゴールは、アブラハムの信仰が持つ価値、偉大さを称賛しながら、アブラハムに倣って生きることは自分にはできない、と率直に書いています。なんとも正直で、共感できますね^^

名画に描かれたイサク、官能的に見えましたか? ルネサンス期やバロック期の絵画は、肉体の表現が生々しいですよね。レンブラントの「イサクの犠牲」は、画面の中でイサクの肉体だけが光り輝いているように見えます。これは神学的に、イサクの犠牲がイエス・キリストの受難の予型として解釈されているからだそうです。レンブラントは聖書に対する深い理解に基づいて、この場面を描いているのですね。
南ノさんがひかえめにおっしゃる通り、ギリシャ神話や聖書を題材にとって、合法的にヌードを描いていた歴史はあります。ルネサンス以来、19世紀半ばまでずっとそのような傾向でした。ティツィアーノやカバネルはとても官能的なヴィーナスを描いています。
聖書から素材をとったものでは、ロトと娘たちの近親婚や、ユダとタマル(未亡人となったタマルが義父を誘惑して子を産む話)、バト・シェバ(ダビデ王が家臣ウリヤを意図的に戦死させて、その妻を寝取った話)などを題材とした絵画は、みだらで誘惑的な女性のヌードが描かれていることが多いですね。
画家たちがこうした絵を多く描いたのは、やはり依頼するお客が多かったからで、合法的にポルノを所持できるということで、聖書や神話を題材としてヌード画を描かせたのだろうな、と想像します。今となってはマネの「オランピア」は名画と評されていますが、公開当時は非難の嵐だったそうです。マネがこれまでの美術界の常識を破り、明らかに同時代の娼婦と分かるヌード画を描いたからです。同じ年に発表されたカバネルのヴィーナスは、はっきり言って「オランピア」よりも官能的なヌード画なのですが、批評家たちから称賛され、ナポレオン三世が購入したそうです。もしマネが娼婦のヌード画に、マグダラのマリアやデリラ(サムソンを虜にした娼婦)といった題名をつけていたら、批評家たちから称賛されたかも? 当時の美術界のダブルスタンダードがよく分かる逸話ですね。

次回はイサクとリベカのお話です。お時間あるときにのぞいていただけたらうれしいです^^