バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

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「創世記」アブラハム、ゲラルへ行く

「創世記」アブラハム、ゲラルへ行く。解釈がとても難しいエピソードだなあ、と思いながら読んでいたのですが、でも、そのうち、難しいのは、アブラハムのことを、「神に選ばれた人なのだから、人格的にも、行動的にも立派であるはずだ」と思い込んでいたせいではないかと気づきました。

アブラハムが、妻サラを「妹」と偽って王に差し出してしまうのは、つまり、「自分だけは助かりたい」という願望であり、それは人間の、どうしようもない「エゴ」と「弱さ」なわけですよね。
神は最後にサラを救うわけですが、アブラハムとしては、もろ手を挙げてサラの帰還を喜ぶことができたのかなあ、とちょっと疑問に感じてしまいました。
あんなことをしてしまって、普通ならサラに顔向けできないですよね^^;

神はサラを救うことによって、アブラハムに、己の救いがたい「エゴ」と「弱さ」を理解させ、それと向き合うことを求めたのではないのでしょうか。
アブラハムは「エゴ」と「弱さ」の塊であるからこそ、逆に最も神を必要とする人間なのかもしれない、と思いました。
そう考えると、聖書が急に身近に感じられてくるような気がしました^^

返信(1)

南ノさん、いつもお読みいただきありがとうございます。南ノさんのおっしゃるとおりです!! 妻を「妹」と偽る話が、これほど後世の聖書学者たちを悩ませ、こじつけでは?と思えるようなさまざまな解釈が生まれたのは、アブラハムを「神に選ばれた人なのだから、人格的にも、行動的にも立派であるはずだ」と考えるからだと思います。
このパターンの説話を文字通りに読めば、アブラハムが王に嘘をついて騙した、という解釈しかないですよね。しかし、アブラハムが嘘をついたのだ、と読み取る聖書学者は少ないのです。アブラハムの弁明を正しいものとみなして、アブラハムとサラを異母兄妹と解釈するか、近親婚のタブーをさけるために、サラはアブラハムの姪だったという、ちょっと無理がある解釈をとるのが主流です。
参考文献にいつも挙げているヘブライ語対訳聖書では、「サラはイスカと同一人物」であり「サラはアブラハムの姪」という説をとっています。ジョン・ドレインの『総説・図説 旧約聖書大全』では、アブラハムの弁明通りに異母兄妹婚説をとっています。

わたしはこの説話はアブラハムの失敗から教訓を得る物語だと考えます。アブラハムの弁明が真実かどうかは重要ではなくて、彼が保身のために大切な妻を捨ててしまった、というあやまちを二度もしたということを子孫へ教訓として伝えるものではないか、と思うのです。自分たちの父祖アブラハムがうそをついてだますはずがない、という思いが先立って、無理やりアブラハムのふるまいが正しかったと解釈するのは、聖書を記した人々の意図とかけ離れてしまっているかもしれませんね。
宮廷に召し入れられたサラがどんな気持ちだったか、聖書には書いていませんが、どれだけ孤独で不安だったでしょう。ロトがソドムの男たちに自分の娘を差し出します、と申し出る場面もとんでもないですよね。サラやロトの娘たちは、夫や父が「差し出す」と決めてしまったら、「ノー」とは言えないかったのでしょうね。本来は守ってくれるはずの夫や父から、「物」として扱われる恐ろしさにぞっとします。

アブラハムは「信仰の人」ではあるけれど、道徳的にすぐれた人物というわけではない、とわたしも思います。アブラハムの息子イサクも妻を「妹」と偽る話があるし、イサクの次男ヤコブは長子相続権を長男エサウから狡知で奪うし、ヤコブの息子たちは末弟ヨセフを奴隷としてエジプトに売り飛ばしてしまいます。人は弱いから、一時の感情にとらわれて、愚かな行いをしてしまう。そんな人の弱さや愚かさを、神は決して見捨てない。
昨日の主日礼拝で、わたしはオルガン奏楽を務めたのですが、この日の聖書箇所はイエスが処刑される直前に言われた言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)でした。アブラハムが嘘をついてサラを宮廷に差し出したとき、彼は自分のあやまちと愚かさに気づいていなかった。芥川竜之介は『奉教人の死』の中で、冤罪で追放される主人公にこのイエスの言葉を言わせています。わたしたちも同じように、日々の生活の中で、間違いをたくさんしているし、気づかずに人を傷つけていることも多いはずです。

一色義子さんは『エバからマリアまで 聖書の歴史を担った女性たち』の中で、こんなことを書いておられました。
「女性も男性も、神さまのお心をほんの少しでも理解できるもの―いわば受信機―をいただいているはずです。ちょうど携帯電話でもテレビでもラジオでも、送る側と受信する側の周波数に何らかの共通のものがあれば、たとえ小さな受信機でも電波をキャッチすることができるように、神さまは、私たちがイエスさまに周波数を合わせれば、神さまの御心に合わせるようにしてくださっているのです。」

この一色さんの考え方にしたがうと、アブラハムが神の言葉を聞くことができたのは、彼が神に選ばれた特別な人間だからではなくて、神の声をキャッチできる受信機の感度がすごく高かったから、ということになりますね。神は人をご自分にかたどって、男も女も造られたのだから、誰しもが神の声をキャッチする受信機が備わっている。そう考えると、なんだか面白いと思いませんか^^ 受信機の感度は、信仰の深さと言い換えることができると思います。

定住生活をしている現代人には、神は教会や神殿などのどこか神聖な場所でなければ出会えないもの、というイメージがありますよね。半遊牧生活をしていたアブラハムたちにとって、神はいつも自分たちと共に歩んでくださり、日常生活すべてに影響を与えるものだったことでしょう。そういう理由で、アブラハムたちはまさに「信仰の人」だったと言えると思います。