バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

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バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

アブラハム、ゲラルへ行く

このあたり、聖書の引用部分をいきなり読んでも分かりにくいです。mikaさんの解説を一通り読んで、もう一度読んでみたら、ようやく半分ぐらい意味を取れました(笑)。と言っても間違っているかもしれないので、こんな理解で良いかどうか見て頂けますか^^?

立場の弱い「寄留者」は、いつ殺されるか分からない→妻を妹と偽って、その土地の権力者に差し出す→変わりに命の保証をしてもらう

という状況がまず現実にあって、その上で聖書では神が現れ、差し出された女性を助けてくれることになっている。
権力者が側室を持つことは悪いことではないけれど、その女性に夫がいる場合はダメ(「やましい考え」とか「罪」に当たる)。
神が王の妻や侍女たちを一時的に不妊にしてまで、この試練をアブラハムに与えたのは、結果として彼が銀千枚という生活費を得られるようにするため。

……という意味で読み進めるとすんなり入ってくるのですが、違うでしょうか(笑)?
こういう質問をぶつけられるのは、本当にありがたいです(牧師さんにはこんなこと聞けません)。mikaさんに感謝です!

返信(1)

あおぞらさん、いつもお読みいただきありがとうございます。

「立場の弱い「寄留者」は、いつ殺されるか分からない→妻を妹と偽って、その土地の権力者に差し出す→変わりに命の保証をしてもらう」

という状況が現実にあった、というのはそのとおりだろうと思います。なぜ「妹」でなければいけないかと言うと、宮廷に召し入れられるためには、未婚の処女であることが求められたのではないか、と考えます。御使いたちがソドムの町で襲われた時、ロトが「まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出します」(創19:8)と言って、暴力をやめるよう懇願する場面があります。ゲラルに入った時、アブラハムも同じような交渉をしたのかもしれません。(サラはゲラル滞在の時、90歳を超える高齢なので、未婚の処女と偽るのは無理がありそうですが…。90代でも20代に見える超若々しいご婦人だったと思いましょう)
エジプトとゲラルで、よく似ていますが、家畜や奴隷などの贈りものをもらうタイミングが違います。エジプトでは、サライが宮廷に召し入れられた代価として受けとっており、アブラムが妻を売ったことが明らかです。ゲラルでは、サラが召し入れられた時に代価を受け取っていません。王の使者の言いなりになって、献上したかたちです。家畜や奴隷、銀などはサラを返してもらう時に受け取っており、和解の贈りものとなりますね。

妻を「妹」と偽る物語は、表層的に読めば、弱者が狡知で強者を出し抜き、冨を得る痛快な物語です。神学的に深読みすれば、アブラハムが神を信じず、自分勝手な判断で大切な妻を失い、子孫繁栄を約束された未来を自分の手で手放してしまった、という「神の試練に負けた話」となるでしょう。このお話を語って、アブラハムの失敗を教訓にしなさい、と説いたかもしれないですね。
エジプトでもゲラルでも、アブラハムは神の御心に適わない行いをしますが、神は見捨てず、アブラハムに捨てられたサラを救い出してくれます。このお話を聞いた当時の女性たちは、神さまは夫よりも強く頼れる唯一の存在、と思ったかもしれませんね^^

アブラハムは結果的にアビメレクから多額の銀を受け取っていますが、神はお金のために試練を与えた、というのではないと考えます。お金で人間を売買したり、和解の賠償金とするのは、人間の尺度であって、神の正義ではないからです。アブラハムは二度とも試練に負けているので、もし試練に勝っていたらどうなっていたか、書いていないので分かりません。
アブラハムが神の試練に勝ったと言える、ただ一つのエピソードであるイサクを献げる話では、子孫繁栄の祝福をもらっています。なので、もし妻を「妹」と偽らずに、正直にサラを守り抜いていたら、命の危機の時に御使いが助けてくれて、子孫繫栄の祝福をもらう、というお話になっていたのではないか、と想像します。
イサクを献げた時、天から御使いが降って「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(創22:12)と言われます。妻を「妹」と偽る話では、アブラハムは神よりも人間をおそれていますね。
ゲラルの人々(ペリシテ人)は、「神を畏れることが全くない)(創20:11)と書かれています。そんな人々を治めるアビメレクの夢に神が現われたのは、アビメレクもまた神から試されていたのだ、と読み解くことができます。アビメレクは神の御言葉を信じ、正しくおそれたから、神の試練に勝ったわけですね。もし神の言葉を信じず、試練に負けていたら、御言葉のとおりにアビメレクも家来も皆、死んでいたでしょう。
エジプトのファラオやペリシテ人のアビメレクにとって、アブラハムの信じる神は、自分たちの信じる神々の一柱ではないので、神の御言葉を信じない可能性の方が高かったのではないか、と思います。ロトの娘の許嫁たちは、おそらくソドム人だったと思いますが、御使いの忠告を伝えにきた義父の言葉を信じず、逃げなかったですよね。

神が宮廷のすべての女性たちを不妊にさせていたのは、この話につづく21章でイサクが生まれるので、万が一にもイサクの血統に疑念が生じないように、配慮したのではないか、と思います。
20章の時点では、アブラハムはサラから息子が生まれると神に予告され、イサクという名前まですでに授かっているのに、そのサラを差し出してしまうのですから、とんでもないですね。神との契約のしるしに割礼まで受けたのに…。こんな愚かな行いをしたアブラハムですが、神は彼を見捨てて、子孫繁栄の契約は破棄だ!と怒ったりせず、引き続きアブラハムとともに歩んでくださいます。人間だったら、一方的に約束をないがしろにされたら、怒るでしょう。神の愛と忍耐強さを感じさせるお話ですね!

現代の日本人にとっては理解に苦しむエピソードですよね。少しでもあおぞらさんの読書の助けになればうれしいです^^
次回は、いよいよイサクの誕生です。引き続きよろしくお願いいたします。