第五章 すみれは深い霧の中(3)
文字数 1,947文字
昼すぎに目が覚めると、頭痛はだいぶよくなっていた。そのまま寝室でアドリエンヌとともに食事をとった。部屋の一角には優美なかたちの椅子とテーブルが配され、暖炉では薪がぱちぱちと軽快な音をたてている。
こんなにゆったりと食事をするのは久しぶりだ。アドリエンヌはクロエにパンを取ってくれたり、冷肉を切り分けてくれたり、かいがいしく面倒をみてくれた。
非の打ちどころのない美貌と優雅な物腰。加えて悪戯っぽくきらめく瞳が、成熟した大人の女性でありながら、どこか少女めいた独特の魅力をかもしだしている。愉しげに話す声や気取りのない笑い声も伸びやかで溌剌としている。
これまでクロエの憧れの女性は『お姉様』だけだった。剣術師匠の令嬢で、剣と射撃と乗馬の名手。そんな『お姉様』とアドリエンヌは一見まったく異なるタイプのようで、どこか根底で共通するものがあるようにも思える。
(ああ、そうだわ。ふたりとも美人なだけじゃなくて、すごく姿勢がいい)
ピンと伸びた背筋。それでいて固すぎない、颯爽としたしなやかさ。凛とした表情から窺えるのは、自分に対する確固たる矜持だ。
話をするうちに、アドリエンヌが裕福な未亡人であることが知れた。亡くなった夫は貧しい家庭の出身だったが、勉学に励み、こつこつと蓄財して代訴人の職を購入したという。
「わたしたち、年齢 がふたまわりも離れていてね。夫は背も低かったし、お世辞にも美男子とは言えなかったわね。──ほら、あの肖像画が夫よ」
指さされた肖像画には、なるほど小柄な男性が描かれている。
「ちんちくりんでしょ。お客が来る場所にかけてあるのはもう少しマシに修正済みよ」
アドリエンヌはあっけらかんとひどいことを言ってくすくす笑ったが、その声音には愛情がこもっていた。肖像画を眺めるまなざしはどこまでも優しい。
「仕事以外では口下手でね。わたしの楽屋にたびたび花束をもって来てくれたけど、ろくに話もせずに、椅子に座って珈琲を飲んでるだけなの」
「楽屋、ですか」
「あら、言わなかった? わたし女優だったの。結婚して舞台は降りたけど。そんなわけで、夫と結婚したときは美女と野獣だとか、財産目当てだろうなんて、散々言われたものよ。ま、半分以上当たってるけどね」
クロエがびっくりすると、アドリエンヌは目をくるくるさせておどけた。
「正直言って、地位と財産はほしかったもの。わたしのような女は、容色が衰えたらそれでおしまい。誰にも相手にされなくなる。裏通りでみじめに暮らすならまだマシよ。救貧院に押し込められて、槍の先に突き刺した腐肉を必死に掴もうと柵越しに手を伸ばすようになるかもしれないわ」
静かなアドリエンヌの横顔を、クロエは絶句して見つめた。アドリエンヌは珈琲茶碗を手にとり、ひとりごちるように呟いた。
「……どんな享楽のさなかでも、心のどこかでわたしはいつも未来に怯えていた。夫はそれをわかっていた。いいえ、わたしが心底ほしがっていたものを差し出してくれたのは、夫だけだった。そして彼はわたしにすべてを残してくれた。夫に恋したことはないけれど、誰よりも愛していたわ。跡取りを作ってあげたかった。でもわたし、若い頃に流産して子どもが産めないの。夫はそれでもいいって言ってくれた。いいひとでしょ。それこそ、ばかみたいにね……」
目を伏せて珈琲を飲み、アドリエンヌはしっとりと輝く目を上げて微笑んだ。
「ごめんなさい。何だか湿っぽくなっちゃったわね」
クロエは急いで首を振った。
「いいえ、素敵なお話だと思います。本当に。わたしの両親も、お互いとても愛しあっていました。そういうのって今は野暮だと思われるみたいだけど……」
「あなたも、好きなひとと結婚したい?」
クロエは赤くなった。
「それは……、できればそうしたい、ですけど……」
「むずかしいわね。貴族は政略結婚が当たり前ですもの」
驚いて顔を上げると、澄ました顔でアドリエンヌは微笑した。
「あなたが侯爵家のご令嬢だってことは、もちろん聞いてるわよ。くれぐれも身分にふさわしい扱いをするように、って頼まれたし」
「……誰にですか」
答えずにアドリエンヌはさっと立ち上がった。
「それより着替えましょうか。せっかくだから、いっぱいおめかししましょうねー。男装も倒錯的に似合ってたけど、女の子はやっぱりドレスよ」
「倒錯的……!?」
「んー、倦怠期にはそれも刺激があっていいんだけど、あなたにはまだ早いわね」
「け、倦怠期って……。あ、あのっ……!?」
「いいからいいから、こっちいらっしゃい」
にこにこしながら、有無を言わせずアドリエンヌはクロエを婦人部屋 へ引っ張って行った。
こんなにゆったりと食事をするのは久しぶりだ。アドリエンヌはクロエにパンを取ってくれたり、冷肉を切り分けてくれたり、かいがいしく面倒をみてくれた。
非の打ちどころのない美貌と優雅な物腰。加えて悪戯っぽくきらめく瞳が、成熟した大人の女性でありながら、どこか少女めいた独特の魅力をかもしだしている。愉しげに話す声や気取りのない笑い声も伸びやかで溌剌としている。
これまでクロエの憧れの女性は『お姉様』だけだった。剣術師匠の令嬢で、剣と射撃と乗馬の名手。そんな『お姉様』とアドリエンヌは一見まったく異なるタイプのようで、どこか根底で共通するものがあるようにも思える。
(ああ、そうだわ。ふたりとも美人なだけじゃなくて、すごく姿勢がいい)
ピンと伸びた背筋。それでいて固すぎない、颯爽としたしなやかさ。凛とした表情から窺えるのは、自分に対する確固たる矜持だ。
話をするうちに、アドリエンヌが裕福な未亡人であることが知れた。亡くなった夫は貧しい家庭の出身だったが、勉学に励み、こつこつと蓄財して代訴人の職を購入したという。
「わたしたち、
指さされた肖像画には、なるほど小柄な男性が描かれている。
「ちんちくりんでしょ。お客が来る場所にかけてあるのはもう少しマシに修正済みよ」
アドリエンヌはあっけらかんとひどいことを言ってくすくす笑ったが、その声音には愛情がこもっていた。肖像画を眺めるまなざしはどこまでも優しい。
「仕事以外では口下手でね。わたしの楽屋にたびたび花束をもって来てくれたけど、ろくに話もせずに、椅子に座って珈琲を飲んでるだけなの」
「楽屋、ですか」
「あら、言わなかった? わたし女優だったの。結婚して舞台は降りたけど。そんなわけで、夫と結婚したときは美女と野獣だとか、財産目当てだろうなんて、散々言われたものよ。ま、半分以上当たってるけどね」
クロエがびっくりすると、アドリエンヌは目をくるくるさせておどけた。
「正直言って、地位と財産はほしかったもの。わたしのような女は、容色が衰えたらそれでおしまい。誰にも相手にされなくなる。裏通りでみじめに暮らすならまだマシよ。救貧院に押し込められて、槍の先に突き刺した腐肉を必死に掴もうと柵越しに手を伸ばすようになるかもしれないわ」
静かなアドリエンヌの横顔を、クロエは絶句して見つめた。アドリエンヌは珈琲茶碗を手にとり、ひとりごちるように呟いた。
「……どんな享楽のさなかでも、心のどこかでわたしはいつも未来に怯えていた。夫はそれをわかっていた。いいえ、わたしが心底ほしがっていたものを差し出してくれたのは、夫だけだった。そして彼はわたしにすべてを残してくれた。夫に恋したことはないけれど、誰よりも愛していたわ。跡取りを作ってあげたかった。でもわたし、若い頃に流産して子どもが産めないの。夫はそれでもいいって言ってくれた。いいひとでしょ。それこそ、ばかみたいにね……」
目を伏せて珈琲を飲み、アドリエンヌはしっとりと輝く目を上げて微笑んだ。
「ごめんなさい。何だか湿っぽくなっちゃったわね」
クロエは急いで首を振った。
「いいえ、素敵なお話だと思います。本当に。わたしの両親も、お互いとても愛しあっていました。そういうのって今は野暮だと思われるみたいだけど……」
「あなたも、好きなひとと結婚したい?」
クロエは赤くなった。
「それは……、できればそうしたい、ですけど……」
「むずかしいわね。貴族は政略結婚が当たり前ですもの」
驚いて顔を上げると、澄ました顔でアドリエンヌは微笑した。
「あなたが侯爵家のご令嬢だってことは、もちろん聞いてるわよ。くれぐれも身分にふさわしい扱いをするように、って頼まれたし」
「……誰にですか」
答えずにアドリエンヌはさっと立ち上がった。
「それより着替えましょうか。せっかくだから、いっぱいおめかししましょうねー。男装も倒錯的に似合ってたけど、女の子はやっぱりドレスよ」
「倒錯的……!?」
「んー、倦怠期にはそれも刺激があっていいんだけど、あなたにはまだ早いわね」
「け、倦怠期って……。あ、あのっ……!?」
「いいからいいから、こっちいらっしゃい」
にこにこしながら、有無を言わせずアドリエンヌはクロエを