第四章 黒い仮面の女(2)
文字数 2,531文字
ガラガラと車輪の音が石畳に反響する。薄暗い馬車の座席に座り、クロエは膝の上で握りしめた自分の手を見つめていた。向かいに座ったユーグは黙って窓の向こうを眺めたまま何も言わず、何も訊かない。
「……ありがとう」
小さく呟くと、ふと我に返ったようにユーグがこちらを向いた。クロエは思い切って顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。
「あなたには二回も助けてもらったのに、お礼も言ってなかった。ごめんなさい。──ありがとう、おかげで助かりました」
ふ、とユーグの表情がやわらぐ。角灯 の乏しい灯でも彼の微笑みはこのうえなく優美で、クロエは思わず見とれてしまった。それに気付くと頬が熱くなり、急いで目を伏せる。
「どういたしまして」
微笑をふくんだ声が返ってきた。水晶のきらめきと天鵞絨 の艶めきをかね備えた魅惑的な声。
まるで夜空から降る星のよう。兄のオーレリアンがひだまりの天使なら、ユーグは夜空を渡る天使だ。美しく、謎めいて、底知れない──。
「どうして何も訊かないの?」
「きみが話したいのなら喜んで聞くよ」
穏やかな答えに、クロエはきゅっとスカートの生地を握りしめた。
「……もうわかってるんでしょう。立ち聞きしてたんだから」
「僕が聞いたのは、アルマンがきみにもちかけた恥知らずな提案だけさ。彼がきみに近づくまでは遠くから眺めてた。こんなところで何をしているのかと」
クロエはばつの悪さに身じろいだ。
「誤解しないで。いくらなんでも、あんな取引をするつもりはないわ」
「もちろんわかってるさ」
駄々っ子をなだめるようにユーグは頷いた。しばし沈黙が降り、車輪の音だけがけたたましく響く。
「……クロエよ」
ユーグのとまどい顔に顔を赤くして、早口で続ける。
「わたしの名前。クロエ・フランシーヌ・ド・ヴュイヤール。……知らないかと思って」
微笑んだユーグの顔は、知っていたとも知らなかったとも、どちらとも取れるものだった。クロエはわざと怒ったような口調を装い、気恥ずかしさを誤魔化した。
「あなたも名乗ったらどう。だいたいあなたのほうが先に名乗るべきなのよ」
「そうだったね。──僕はユーグ。ユーグ・アスランだ」
「あなたは何をしているの、ユーグ」
「別に。ただぶらぶらしてる。きみの嫌いな悪党 だよ。フロンサック公爵よりはいくらか安全というだけの、ろくでもないならず者さ」
「うそ。だって、権力者に信用があるって言ってたじゃない」
「信用というのはね、必ずしも客観的なものとは限らない。佞臣の言葉にばかり耳を傾ける君主なんて、めずらしくもないだろう?」
ユーグはがらりと表情を変え、ふざけたようにニヤリとした。
「──そんなに僕に興味があるんだ?」
涼しげな美貌がいきなり近づき、クロエは座席に背を押しつけた。
「べ、別に、興味があるわけじゃ……。ただの世間話、社交辞令よ!」
「悪いけど、僕はうぶなお嬢さんにはぜんぜん興味がないんだ。口説かれたければ人妻になって出直してもらわないと」
仮面舞踏会の時にも聞いた台詞を、ユーグは悪びれもなく繰り返す。クロエは頬を染めて怒鳴った。
「違うって言ってるでしょ! やっぱりあなたなんか悪党 だわっ」
「だからそう言っただろ?」
くすくすと、余裕で彼は笑う。むかっ腹をたてたクロエが、知ってる限りの悪口雑言を吐いてやろうと息巻いたそのとき、馬車の速度が落ち、がたりと音をたてて止まった。
「到着」
いたずらな声でユーグが囁く。馬車の後部から飛び下りたジルベールが、いそいそと扉を開けた。先に降りたユーグの手をしぶしぶ取って馬車から降りる。御者と並んで黒眼鏡の従者が座っていた。外套 の襟を立て、顔だちも年格好も確かめようがない。
「では、お嬢さん。おやすみ 。もう二度とあんな悪所へ出入りしてはいけないよ。カネの工面は、そもそもの元凶である兄上にやらせるべきだ」
優雅にお辞儀をして、ユーグは馬車に乗り込んだ。御者台から降りた従者が後に続き、ぴしゃりと扉を閉めた。
「できるならそうしてるわよ……!」
去っていく馬車を睨み、クロエは悔しまぎれに舌を突き出した。
* * *
「──どうして取り入らなかったんです?」
侯爵邸が後方の夜闇に溶けた頃、ラファエルが尋ねた。ユーグは窓外に目を向けたまま黙っている。黒髪の従者は無感動に続けた。
「あなたなら、世間知らずの娘をたらし込むくらいお手のものでしょう」
「人を色魔みたいに言わないでくれないか」
「おや、違ったんですか」
さも意外そうな声音に、ユーグはじろりと従者を睨んだ。
「あのな、ラフ。色魔というのはアルマンみたいな奴を言うんだ。彼は趣味の行き過ぎ、俺のは単なる仕事の一環。ま、役得がないとは言わないが」
「だったらクロエ嬢をダシにしてあの家に入り込み、侯爵夫人を籠絡すればいいだけのことです。前にもそう提案したはずですがね」
「ちょっと考えてはみたけどね。あまり気が進まないな。世間知らずの娘と過去の思い出だけに生きているような老婦人を『たらし込む』のはどうもね……」
「柄にもなく優しげなことをおっしゃいますね」
ラファエルは眉一筋動かさず、辛辣に切って捨てた。
「別にそんなんじゃないさ。ちょっと調子が狂っただけ」
「あまりのんびりしている時間はないのでは。……ああ、そういえば摂政公が」
「何だよ。経過報告をしろとでも?」
「いえ。是が非でも新作料理の試食に来いとおっしゃっていました。もし来ないと」
「来ないと、何だ」
ユーグはうさんくさそうに従者を横目で見る。ラファエルは他人事のようにそっけなく肩をすくめた。
「さぁ? そのあとは何もおっしゃらず、ただニタァと不気味に笑われるばかりで」
「……行く」
「それがよろしいかと」
口の端で笑ったラファエルは窓を開け、御者に向かって車輪の音に負けじと大声を上げた。
「パレ・ロワイヤルへ!」
ぴしりと手綱が鳴る。馬車は速度を増し、角灯 に照らされた夜の街を疾走した。
「……ありがとう」
小さく呟くと、ふと我に返ったようにユーグがこちらを向いた。クロエは思い切って顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。
「あなたには二回も助けてもらったのに、お礼も言ってなかった。ごめんなさい。──ありがとう、おかげで助かりました」
ふ、とユーグの表情がやわらぐ。
「どういたしまして」
微笑をふくんだ声が返ってきた。水晶のきらめきと
まるで夜空から降る星のよう。兄のオーレリアンがひだまりの天使なら、ユーグは夜空を渡る天使だ。美しく、謎めいて、底知れない──。
「どうして何も訊かないの?」
「きみが話したいのなら喜んで聞くよ」
穏やかな答えに、クロエはきゅっとスカートの生地を握りしめた。
「……もうわかってるんでしょう。立ち聞きしてたんだから」
「僕が聞いたのは、アルマンがきみにもちかけた恥知らずな提案だけさ。彼がきみに近づくまでは遠くから眺めてた。こんなところで何をしているのかと」
クロエはばつの悪さに身じろいだ。
「誤解しないで。いくらなんでも、あんな取引をするつもりはないわ」
「もちろんわかってるさ」
駄々っ子をなだめるようにユーグは頷いた。しばし沈黙が降り、車輪の音だけがけたたましく響く。
「……クロエよ」
ユーグのとまどい顔に顔を赤くして、早口で続ける。
「わたしの名前。クロエ・フランシーヌ・ド・ヴュイヤール。……知らないかと思って」
微笑んだユーグの顔は、知っていたとも知らなかったとも、どちらとも取れるものだった。クロエはわざと怒ったような口調を装い、気恥ずかしさを誤魔化した。
「あなたも名乗ったらどう。だいたいあなたのほうが先に名乗るべきなのよ」
「そうだったね。──僕はユーグ。ユーグ・アスランだ」
「あなたは何をしているの、ユーグ」
「別に。ただぶらぶらしてる。きみの嫌いな
「うそ。だって、権力者に信用があるって言ってたじゃない」
「信用というのはね、必ずしも客観的なものとは限らない。佞臣の言葉にばかり耳を傾ける君主なんて、めずらしくもないだろう?」
ユーグはがらりと表情を変え、ふざけたようにニヤリとした。
「──そんなに僕に興味があるんだ?」
涼しげな美貌がいきなり近づき、クロエは座席に背を押しつけた。
「べ、別に、興味があるわけじゃ……。ただの世間話、社交辞令よ!」
「悪いけど、僕はうぶなお嬢さんにはぜんぜん興味がないんだ。口説かれたければ人妻になって出直してもらわないと」
仮面舞踏会の時にも聞いた台詞を、ユーグは悪びれもなく繰り返す。クロエは頬を染めて怒鳴った。
「違うって言ってるでしょ! やっぱりあなたなんか
「だからそう言っただろ?」
くすくすと、余裕で彼は笑う。むかっ腹をたてたクロエが、知ってる限りの悪口雑言を吐いてやろうと息巻いたそのとき、馬車の速度が落ち、がたりと音をたてて止まった。
「到着」
いたずらな声でユーグが囁く。馬車の後部から飛び下りたジルベールが、いそいそと扉を開けた。先に降りたユーグの手をしぶしぶ取って馬車から降りる。御者と並んで黒眼鏡の従者が座っていた。
「では、お嬢さん。
優雅にお辞儀をして、ユーグは馬車に乗り込んだ。御者台から降りた従者が後に続き、ぴしゃりと扉を閉めた。
「できるならそうしてるわよ……!」
去っていく馬車を睨み、クロエは悔しまぎれに舌を突き出した。
* * *
「──どうして取り入らなかったんです?」
侯爵邸が後方の夜闇に溶けた頃、ラファエルが尋ねた。ユーグは窓外に目を向けたまま黙っている。黒髪の従者は無感動に続けた。
「あなたなら、世間知らずの娘をたらし込むくらいお手のものでしょう」
「人を色魔みたいに言わないでくれないか」
「おや、違ったんですか」
さも意外そうな声音に、ユーグはじろりと従者を睨んだ。
「あのな、ラフ。色魔というのはアルマンみたいな奴を言うんだ。彼は趣味の行き過ぎ、俺のは単なる仕事の一環。ま、役得がないとは言わないが」
「だったらクロエ嬢をダシにしてあの家に入り込み、侯爵夫人を籠絡すればいいだけのことです。前にもそう提案したはずですがね」
「ちょっと考えてはみたけどね。あまり気が進まないな。世間知らずの娘と過去の思い出だけに生きているような老婦人を『たらし込む』のはどうもね……」
「柄にもなく優しげなことをおっしゃいますね」
ラファエルは眉一筋動かさず、辛辣に切って捨てた。
「別にそんなんじゃないさ。ちょっと調子が狂っただけ」
「あまりのんびりしている時間はないのでは。……ああ、そういえば摂政公が」
「何だよ。経過報告をしろとでも?」
「いえ。是が非でも新作料理の試食に来いとおっしゃっていました。もし来ないと」
「来ないと、何だ」
ユーグはうさんくさそうに従者を横目で見る。ラファエルは他人事のようにそっけなく肩をすくめた。
「さぁ? そのあとは何もおっしゃらず、ただニタァと不気味に笑われるばかりで」
「……行く」
「それがよろしいかと」
口の端で笑ったラファエルは窓を開け、御者に向かって車輪の音に負けじと大声を上げた。
「パレ・ロワイヤルへ!」
ぴしりと手綱が鳴る。馬車は速度を増し、