第一章 危険な仮面舞踏会(2)

文字数 6,650文字

 クロエは広々としたホールの隅っこで退屈していた。天井から吊られたシャンデリアには高価な蜜蝋の蝋燭が惜しげもなく使われ、壁の鏡がその灯を反射して何倍もの明るさでホールを満たしている。
 さざめきと笑い声、楽団の奏する音楽と衣擦れの音に取り巻かれ、クロエは不機嫌な口許を広げた扇子で隠しながらホールを見回した。顔の上半分は白い半仮面(ルゥ)で覆われている。クロエだけでなく、参加者は全員同じ半仮面(ルゥ)をつけていた。
 今夜は仮面舞踏会なのだ。
 とはいえあちこちで交わされる挨拶を見ていると、お互いの正体はほとんどわかっているようだった。
 クロエは締めつけた胴回りを嘆息まじりにさすった。ジゼルが張り切って締め上げてくれたおかげで格好はついたが、かなりしんどい。
 一張羅のドレスは、改めて点検してみるとシミがあったり虫に喰われている箇所があった。ジゼルがリボンや造花で隠してくれて何とかさまになったものの、歓談しながら行き交う女性たちに比べればどうしても見劣りする。
 裕福でお洒落な女性たちは最近イギリスから入ってきたパニエをつけてふんわりとスカート全体を膨らませているが、クロエのドレスは大御世の末期に作られたバッスルスタイル。もはや野暮ったい感じがしてしまう。
 こんな場所に履いて来られるような洒落た靴も一足しかない。華奢なヒールがときどき悲鳴を上げて、そのたびにヒヤヒヤした。
 太陽王と呼ばれたルイ十四世が長い治世の果てに身罷り、わずか五歳の曾孫が跡を継いだ。当然ながら幼い国王に統治能力はなく、臨終間近の大王によって摂政として指名されたのが弟の息子、つまり甥にあたるオルレアン公フィリップ二世である。
 派手好みの摂政公の時代になると、パリはそれまでの沈滞ムードを吹き飛ばすかのように、さらなる華やぎを競いあうようになった。集う人たちの表情は明るく、誰もがみな太平楽に浮かれている。
(……これだから、こういう場所には来たくなかったのに)
 うら悲しくクロエは嘆息した。家にこもっていれば殊更みじめさを意識しなくてすむのに、こんな華やかな場所に来ればいやでも思い知らされてしまう。
 最新流行のドレスに身を包んだ婀娜な貴婦人たち。豪華な錦織の上着(ジュストコール)の大きな袖口からレースを垂らし、宝石を散りばめたバックルとぴかぴかに磨かれた靴の伊達男。
 うらやんだところでどうにもならないとわかっていても、やはり贅を凝らしたドレスや装身具にはつい目を惹かれてしまう。
 クロエは胸元を飾るネックレスをそっと手で隠した。これは宝石ではなく、ガラス玉で作られた模造品だ。実物はもう長いこと質屋に預けられたまま請け出すあてもない。
 小さな真珠で飾られたカメオの耳飾りと、肌身離さず身に着けている母の形見の指輪だけが、いちおう本物の宝石だった。
(お兄様、どこへ行っちゃったのかしら……)
 エスコートしてくれるはずのオーレリアンは、顔見知りらしい貴婦人に『ちょっと挨拶してくる』と言って離れたきりだ。
 妹のことなどとっくに忘れ、どこぞの美人にお世辞を並べ立てているに違いない。天使のごとき容姿を優雅な衣装で包んだオーレリアンは、見てくれだけなら赤貧洗うが如き零落貴族とは到底思えないだろう。
 もっとも、歯の浮くようなお世辞は言えても機知(エスプリ)のきいた会話は苦手だ。加えて手元不如意により女性に小洒落た贈り物もできないオーレリアンは、可哀相にいつもすぐに飽きられてしまう。それでも彼は懲りるということを知らなかった。彼は美しい女性に目がないだけでなく、華やかなパーティーや賭け事も大好きだ。
 ひとたび賭博のテーブルにつけば有り金ぜんぶをかけてしまい、最後にはいつもすってんてんになってしょんぼり徒歩で帰宅するのだった。
 クロエは兄を心から愛していたが、その極楽トンボっぷりは時に腹に据えかねた。お人好しのオーレリアンは、妹がひとたびキレるとひたすら低姿勢でご機嫌とりに徹するのだが、賭博をやらないという約束ばかりはついぞ守られた試しがなかった。
 クロエは暇を持て余して周囲を見回した。こんなところにひとりでいてもつまらない。華奢なかかとのミュールで突っ立っているのも疲れた。
 外は冷え込んでいるが、室内は人いきれと数えきれない蝋燭、暖炉の熱気でむんむんしている。クロエは辺りを見回しながらゆっくりと歩きだした。
 同じ修道院にいて、結婚を機に寄宿舎を出ていった友人たちが来ていないだろうか。しかし全員が仮面をつけているのでは、よほど近くで見るか言葉を交わさないと誰が誰やら見当もつかない。前をよく見ていなかったクロエは、歩いているうちに誰かに突き当たってしまった。
「あ、ごめんなさい」
 白い半仮面(ルゥ)をつけた男が気取った仕種でお辞儀をした。
「こちらこそ失礼をいたしました。お怪我はございませんか? マダム」
独身よ(マドモワゼル)
「これは重ねてご無礼を」
 青年はうやうやしく跪き、クロエの手にかたちばかりくちびるを寄せた。洗練された仕種だったが、見上げた仮面の奥から覗く瞳にひやりとして、無礼にならない程度にすばやく手を引っ込めた。
「おひとりですか? お付きの者はどうなさいました」
「兄がどこかへ行ってしまって、探しているところなんです」
「おや。それでは見つかるまで私がエスコートいたしましょう」
 うさんくさい気もしたが、ひとりで歩き回って妙な誤解をされるよりマシかもしれない。
 シトルイユ夫人のサロンは大変開放的だと評判だ。つまり、どこの誰だかわからない人物が混ざっている可能性が高い。
 会場には、明らかに玄人と思われる色っぽい女性の姿も目についた。
 クロエはさりげなく青年を観察してみた。露出している鼻筋や顎の線はなかなか整っている。たぶん二十歳前後、兄と同じような年頃だろう。
 背はそう高くはないが、低いというほどでもない。靴のかかとを差し引きしても、小柄なクロエよりはだいぶ高いだろう。
 ボタンホールに金とダイヤモンドをあしらった上着(ジュストコール)とウェストコートは手の込んだ織物製で、裾が綺麗に広がっている。かつらは使わず、明るい栗色の髪を後ろで束ねて薔薇色のリボンで結んでいた。瞳は鮮やかなコバルトブルー。
 実際、かなりの美男子なのだろう。己の容姿に自信を持っていることが、何気ないそぶりからじゅうぶん窺える。やたら綺麗な兄の顔を見慣れているので、ある意味美形慣れしたクロエは別段どぎまぎもしなかった。
 青年の腕を取って歩きながらあちこち目を配ったが、兄の姿はどこにも見当たらない。
「暑くありませんか」
「えっ。ええ、そうですわね。そう言えば」
 青年はぱちんと指を鳴らして通りがかった給仕を呼び止め、シャンパングラスをクロエに差し出した。
「ありがとう」
「あなたの美しい瞳に、乾杯」
 かちんとグラスが鳴る。クロエは引きつった笑みを浮かべてグラスを口許に運んだ。
(なんかこの人……ものすごく怪しいかも……)
 さっきから喉が渇いていたので、一口でうっかり半分ほど空けてしまった。クロエは酒にそれほど強くない。しかもほとんど何も食べていなかったため、とたんに頭がくらっと来た。
 すかさずクロエを支え、青年が囁いた。
「座って休まれてはいかがです? ここは騒がしいし、空気も悪いですからね。少し別室で休憩しましょう」
「ええ……、そうね……」
 言われるままにホールを抜け、控えの間に入った。ホールに隣接して、ゆっくり話し込みたい客向けに肘掛け椅子や長椅子が置かれた部屋がいくつか用意されている。扉が開いて中から談笑する声が聞こえてくる部屋もあった。
 青年が案内したのはホールからもっとも離れた小部屋だった。照明の押さえられた部屋に連れ込まれたときはドキッとしたが、青年が扉を細く開けたままにしておいたのでホッとする。
 長椅子に座り、楕円形の猫脚テーブルに半分残したグラスを置いて、クロエは繻子張りの背にもたれかかった。
 火照る顔を扇子で扇ぎながらぼんやり上向くと、天井が回っていた。空きっ腹にアルコールはやはりまずかった。
 青年はクロエの隣に座り、いきなり身を寄せてきた。
「ちょ、ちょっと……っ」
 近すぎるっ、と慌てて立ち上がろうとしたが、腕を掴まれて引き戻されてしまう。
「どうして逃げるんです、可愛いひと」
 青年は耳朶にくちびるが触れそうな至近距離で甘く囁いた。反射的に鳥肌がたつ。この状況はまずい。非常にまずい。逃げようともがくクロエを押さえ込み、青年が顔を近づけてきた。
「あなたが誘ったのに、今さら怖じ気づいたんですか。大丈夫、怖がることはありません」
「だっ誰が誘ってなんか……っ。ちょっ、離してよ! 誰かっ……」
 叫ぼうとすると手で口を塞がれた。仮面の奥でコバルトブルーの瞳が笑う。炎暑の夏空みたいな、イカレた青い瞳が。
 ぞっと恐怖が背筋を伝い、クロエは無我夢中で男を突き飛ばした。立ち上がったとたん、背後からきつく抱きしめられる。
「離してよ!」
「威勢がいいな、そそられる」
 がらりと口調を変えて男が囁いた。
「離してってば! 人を呼ぶわよ!」
「どうぞ、マドモワゼル。自分の評判を落としてもいいのなら、ね」
 くすくす笑った男がクロエのうなじをなめた。男の顔面に肘鉄をめり込ませる寸前、呆れた声音が戸口の方から聞こえてきた。
悪戯(おいた)はそれくらいにしたらどうです」
 いつのまにか、扉に軽くもたれるように半仮面をつけた若い男が立っていた。背後で男が溜息をつく。
「……使用中だとわかるように扉を開けておいたのに」
「見て見ぬふりをするには相手が若すぎるように思えましたので。フロンサック公爵」
 身体を押さえつけていた力がゆるむ。クロエは脱兎の如く飛び出し、扉に駆け寄った。男はふてくされた声で呟いた。
「仮面舞踏会で名前を呼ぶなんて無粋すぎるぞ、ユーグ」
「あなたの振る舞いもね。世間知らずの小娘をたらし込んだところで、非難はされても何の自慢にもなりませんよ」
「ふん。愛の狩人の守備範囲は広いのさ」
「あ、あなたなんか鹿に変えられて猟犬に八つ裂きにされるのがオチよ!」
 平然とうそぶく男にキレて、クロエは叫んだ。男はニヤニヤしながら立ち上がり、芝居がかったお辞儀をした。
「可愛らしいアルテミス。ぜひまたお会いしましょう。今度は邪魔の入らないところで」
「誰がっ」
 憤激するクロエに流し目を送り、フロンサック公爵は悠々と部屋を出ていった。扉にもたれていた青年──ユーグが、嘆息しながら身を起こす。
「……ったく。きみはどこのお嬢ちゃんだ? ここは子どもが来るような集まりじゃない。さっさと帰りなさい。いったいどこから紛れ込んだんだか」
 クロエは目を怒らせ、ずいっと前に出た。
「ちょっと。誰が子どもですって?」
「きみ以外に誰がいる」
「わたしは十六よ! それに、れっきとした招待客!」
「嘘はいかん。どう見てもせいぜい十二歳だ」
「なっ……! あなた、どこを見てるの!?
「どこって、そりゃあ──」
 青年は大きく開いたデコルテ辺りを無遠慮に検分している。ムッとしたクロエは腰に手を当て、せいいっぱい胸を突き出した。
「……十三歳かな」
「だから十六!」
 クロエは頭に来て自分の半仮面をむしりとった。
「これでも子どもに見える!?
 青年が仮面の向こうで目を瞠る。外した仮面を急いで顔に押し当てると、ぷっとユーグは噴き出した。赤面し、クロエはやぶれかぶれに叫んだ。
「あなたも外しなさいよ! 不公平だわ」
 肩をすくめた青年が、無造作に仮面を外す。クロエは思わず息をのんだ。深い碧にも群青色にも見える、不思議な瞳だった。くっきりとした眉に、すらりと細く高い鼻梁。絶妙なラインを描いて微笑む薔薇色のくちびる。白く滑らかな頬は、東洋の冷たい陶器を思わせる。
 兄ほど美しい男はいないと思っていたのに──。
「これでいい?」
 面白がるような声音で訊かれ、クロエは慌てて目を逸らした。
「……いいわ」
 頬が熱い。うつむいて黙り込んだクロエを、ユーグはなだめるような口調で促した。
「少し外の空気にあたるといい。こっちへおいで。大丈夫、何もしないよ。僕は彼と違って人妻専門だからね」
 ぬけぬけと言われて呆れ返る。
「さっきの人、知り合い?」
「まぁね。彼には本当に気を付けた方がいい。未婚だろうが既婚だろうがお構いなしのうえ、好みの顔さえしていれば男女の別も問わないから」
 クロエは顔を引きつらせた。いくら今のご時世が乱れていても、それはあまりにひどすぎる。
(わたし、本当に危機だったんだわ……)
 今になってクロエはぞっとした。
 ユーグはバルコニーに続く両開きの扉を細く開いた。冷たい冬の夜気が流れ込んでくる。クロエは椅子のひとつに座り、窓際で外を眺めているユーグをそっと盗み見た。
 ごく淡い金髪……というより、冴えた銀灰色の髪色が、差し込む月光に映える。波うつゆたかな髪を結んでいるのは上着(ジュストコール)に合わせた水色のリボン。中に着たウェストコートと膝丈ズボン(キュロット)は濃い青で、靴下は真っ白な絹。彩りのせいか、まるで体温のない幻影のように思える。
 兄と甲乙つけがたいほどの美青年だが、ひどく対照的でもあった。オーレリアンの美貌がひだまりだとすれば、彼のそれは月光に照らされた静かな夜の湖だ。底知れない深みを内に秘めた、謎めいた美貌。その水面の下には何がひそんでいるのだろう……。
 しばらくして彼は窓を閉め、振り向いた。正面から見つめられ、どきんと心臓がはねた。ユーグは不思議な魅惑をたたえた瞳でじっとクロエを見つめ、優雅に小首を傾げた。
「彼の悪食も相当進んだみたいだな。これのどこがよかったんだろう」
「これ……!?
「まぁ、ごちそうを喰い飽きて珍味がほしくなったのかも」
「どういう意味よ!? わたしには魅力がないって言いたいの?」
「少なくとも僕の食指は動かない。安心したまえ」
「馬鹿にしないで! わたしはもう十六なんですからねっ、立派な大人よ! それにわたしはこれでも──」
 はっと言葉を切ると、ユーグは面白そうにクロエの顔を覗き込んだ。
「これでも、何?」
「何でもないわっ」
 青年が耳元で忍び笑うと、腰の辺りがぞくりとした。先ほどフロンサック公爵に迫られた時は嫌悪しか感じなかったのに、いまの戦慄は何だか違う気がする。
「お嬢さん。僕に口説かれたかったら、人妻になって出直しておいで」
「だ、誰があなたなんかに! あなたもフロンサック公爵と同じよ! この悪党(ルエ)っ」
 さもおかしそうにユーグは笑い、半仮面(ルゥ)を付けなおした。
「では、悪党(ルエ)は退散してお嬢様の騎士(シュヴァリエ)を探して来るとしよう。誰を呼べばいい?」
「ヴュイヤール侯爵を呼んでちょうだい」
 思いっきり高飛車に命じると、ユーグは驚いたように振り向いた。
「ヴュイヤール侯爵? 彼がきみの騎士(シュヴァリエ)なのかい」
「兄よ。今夜はわたしのエスコート役のはずなのに、ご婦人がたに挨拶に行ったきり戻って来ないの」
「──なるほど。では急いでお連れしよう。おやすみ、お嬢さん」
 ユーグは優雅にお辞儀をして去って行った。
「何よ! ばかにして……」
 ひとりになると悔しさがぶり返し、クロエは足をバタバタさせた。勢いで片方のミュールが脱げ、飛んで行ってしまう。クロエは息を切らし、怒りに潤んだ瞳で扉を見つめた。
「あの悪党(ルエ)。ちゃんと名乗りもしないで」
 ちょっとばかり顔が綺麗だからって何よ。女は誰でもなびくと思ったら大間違いなんだから。わたしはお兄様のお蔭で綺麗な顔には慣れてるの。
「……そうよ、あいつだってお兄様を一目見ればきっと焦るわ。自分がいちばんいい男だなんて思ってるなら、そんなの大間違いだって思い知れ!」 
 憤然ともう片方のミュールを投げつけた瞬間。
「クロエ! 貧血起こしたって本当──」
 ちょうど扉が開き、泡を食って駆け込んできた兄の美貌に、ミュールのかかとが激突した。
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登場人物紹介

クロエ・ド・ヴュイヤール、16歳よ。由緒正しき侯爵令嬢なのに、極楽トンボの兄と過去に生きる祖母を抱えて、お財布の中身が気になってしょうがないの。貧乏っていやよね! こう見えて腕に覚えはあるんだからナメないでいただきたいわ。

ユーグ・アスラン。19歳だ。摂政公の密偵を務めている。無茶ぶりばかりされるので正直うんざりだが、もっと困るのはわけのわからない創作料理を試食させられることだ。言っておくが、どんなに家柄がよかろうと貧乳小娘になど興味はない。付き合うなら人妻に限る。

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