第六章 魔女になった、あの日(5)

文字数 3,611文字

 そっと扉が開き、ラファエルが顔を出す。ユーグはそっとくちびるに指を当てた。
 長椅子で丸くなっているクロエの身体に脱いだ上着(ジュストコール)をかける。ラファエルは足音を忍ばせて歩み寄り、クロエを覗き込んで眉を上げた。赤らんだ頬に涙の跡がはっきりと残っていた。
「ついに泣かせましたね」
「ばか言うな。そんなんじゃない」
「ダリエの行方が掴めました。それと、例の黒仮面の女ですが──」
「外で聞く」
 眠っているクロエを憚り、ユーグは従者を追い立てるように部屋を出た。
「──なぁ、ラフ。おまえ、誰かが死ねばいいと思ったことってあるか」
 廊下に出たユーグに突然問われ、ラファエルはムッとしたように眉をひそめた。
「ボケたんですか? 今さら私にそんなことを訊くなんて」
 冷やかな物言いに苦笑する。
「悪い」
「そういうあなたはどうなんです」
「ないな。死ねばいいと思ったことは」
「では何と?」
「いつか必ずこの手で殺してやる、と思ったことならあるよ。今でもそう思ってる」
 しばしラファエルは黙然と主人を眺めていた。
「……ご安心を。邪魔はしません」
 ユーグは無表情な従者を見やり、ふいにニヤリとした。
「俺、おまえのそういうところが好きなんだよな~」
「私はあなたのそういうところが嫌いです」
 にべもなく応じた従者と無理やり肩を組み、ユーグは廊下をずんずん歩きだした。
「それで、ダリエが何だって?」
「居所ですよ。それと、黒仮面の女」
 迷惑そうな顔で、それでも腕を振りほどこうとはせずラファエルはぶっきらぼうに報告を始めた。

 報告を聞き終えたユーグは、従者にダリエの監視を命じ、人気のないサロンでひとり考え込んでいた。今日は女主人が頭が痛いと面会をすべて断っているので、ユーグの他に客はない。
 そこへ、薄化粧に部屋着姿のしどけない格好でアドリエンヌが現れた。ゆるめに結った髪がうなじにこぼれ落ち、いわく言いがたい色香がただよっている。彼女は座っているユーグの背後から身をかがめ、親しみをこめて頬にキスした。
「おはよう、わたしのハヤブサさん。獲物はもう捕まえて?」
「それがどうやら囮だったようで」
「あらあら」
 アドリエンヌはおどけて目をくるくるさせた。侍女が銀の盆に銀のポットと中国風のカップを載せて入ってくる。アドリエンヌは侍女を下がらせ、自ら珈琲を注いでユーグに差し出した。
「頭痛はもうよろしいのですか」
「ええ。よくなったわ。シャンパンをちょっと飲みすぎたみたい。摂政公が自ら腕を奮って作られたお料理がどれもすごく美味しくて。いつもながら、とっても愉快な夜食会だったわ」
「それはよかった」
 ユーグは皮肉っぽく眉を上げた。事前に味見を無理強いされたかいあって、客が床をのたうちまわるような仕儀には至らなかったようだ。アドリエンヌは美味しそうに珈琲を飲み干し、いたずらな仔猫のような目付きでユーグを見た。
「では、これから真の獲物を追うというわけね。そのわりに何だか浮かない顔をしているようだけど……?」
「二枚舌に振り回されるのは好きじゃないんですよ」
「あら、あなただってさんざん女を振り回してるじゃないの」
「僕がいつそんなことを? 女性には振り回されてばかりですよ。もっとも、あなたのような美しい方に振り回されるなら大歓迎ですが」
 ユーグはアドリエンヌの頤をそっと持ち上げて囁いた。
「……あなたはさぞ素敵な二枚舌をお持ちなんでしょうね」
「確かめてごらんになれば?」
 真珠のような歯のあいだから桃色の舌がちらりと覗く。ユーグがくちびるを寄せると、アドリエンヌはくすくす笑って腕を背に回した。やがて彼女はうっとりと目許を上気させて囁いた。
「……いかが?」
 ユーグはにやりとした。
「三枚舌、かな」
「もうっ、意地悪なひとね! そういうところが好きなんだけど。──わたし、あなたがあのお嬢さんを連れてきたとき、少し妬けちゃった」
 ユーグはいぶかしげに眉をひそめた。
「クロエですか? 別にあなたほどの美女が妬くことは。まだほんの子どもですよ」
「だってあなた、気絶したあの娘をすごく大事そうに抱えてたじゃない」
「走ってる馬車から飛び下りたんですよ。無茶にもほどがある。どこか骨折してるんじゃないかとひやひやしました。それにあれは気絶というより完全に酔いつぶれてましたね」
火酒(オー・ド・ヴィ)を無理に呑まされたんでしょう? 可哀相に。彼女、本当に育ちのいいお嬢さんね。経済的に苦労はしてるようだけど、きちんと躾けられてるのが立ち居振る舞いを見ているとよくわかるわ。それにとても無邪気で可愛いわね。取り澄ましたところが全然なくて、何と言うか、こっちのほうが毒気を抜かれちゃう」
「彼女の兄さんもあんな感じですよ。抜け目ない悪人につけ込まれてカモられる、典型的な善人タイプ」
「あら素敵。そういう純真なタイプって今まで付き合ったことないのよね。今度どこかでお見かけしたら声かけてみようかしら。あなたと並べれば両手に花だわ」
 楽しそうなアドリエンヌに、そっけなくユーグは肩をすくめた。
「遊ぶなら優しくしてあげてくださいね。何かと傷つきやすそうな人だから」
「あなたが友人として守ってあげればいいじゃない」
「どうして僕が」
「ふふ。どうせ放っておけやしないわ。あなたはいい子だもの、ねぇ?」
 からかうように、アドリエンヌはユーグの頭にぽんと手を置いた。憮然とするユーグの頬を撫でたアドリエンヌの瞳には、情人というよりもむしろ姉のような慈愛が浮かんでいた。
「あのお嬢さんのことだって、気になってるんでしょ」
 ユーグはぷいと顔をそむけた。
「……僕はあんな痩せっぽちの小娘になど興味はありません」
「心配しなくてもそのうち育つわよ。そりゃ、確かに派手な顔だちじゃないけど、造作は上品で悪くないんだから。きちんとお化粧をすればぐっと映えるわ」
「そのころには僕は老人になってますよ、きっと」
「何言ってるの! まだ二十歳にもならないくせに。いい? 女の子がおとなになるのなんて、あっという間なんだから」
「では彼女が色っぽい人妻に変身したら考えてみましょう。まぁ無理でしょうが」
「またそんな意地悪……」
「世間知らずの若い女の子とは、なるべく関わりたくないんです。何かとしち面倒くさいし、ルールを知らないから迂闊にゲームも仕掛けられない」
 アドリエンヌはユーグの端麗な顔をつくづくと眺めた。
「あなたってどこからどう見ても軽薄な詐欺師タイプのくせに妙なところで真面目なのよね」
「僕はいつでも大真面目に恋愛してますよ、マダム」
 にっこりと笑うと、アドリエンヌは呆れはてたように眉を上げ下げした。
「じゃあ、わたしたちは恋愛芝居の何幕目かしら。そろそろ倦怠期ってとこ?」
「あなたが飽きられたとおっしゃるなら、僕はいさぎよく身を引きます」
 目許を押さえようとするユーグの手を、アドリエンヌはぺちっと叩いた。
「三文芝居はけっこうよ。四の五の言わずにハヤブサは飛びなさい。カラスより速く飛べるでしょ」
 黙って目を上げたユーグに、アドリエンヌは会心の笑みを浮かべた。
「甘く見ないでほしいわね。わたしにだって独自のネットワークというものがあるのよ。生まれながらの上流婦人じゃありませんからね。──摂政公の本当の狙いはカラス夫人(マダム・コルボー)なんでしょう? 〈すみれの王冠〉はそのためのエサ」
「……やはり油断ならない人ですね。カラス夫人(マダム・コルボー)のことは僕もさっき知ったばかりなのに」
「裏世界ではかなり有名人なのよ、彼女。宝石(ヒカリモノ)が大好きだから〈カラス夫人(マダム・コルボー)〉。人前に現れる時はいつも黒い天鵞絨(ビロード)の仮面をつけてるんだって。数年前に捕まったけど、脱獄して行方知れずになったのよね。何でも外国に逃げたとか……」
「オランダに隠れてるとかイギリスに渡ったとか、いろいろと噂が飛んだようですが、去年、大王が亡くなった頃にふたたび舞い戻って来たらしい。そのあたりからまた宝石が盗まれるようになった。まったく懲りてませんね」
「重度の宝石マニアだもの、紫色のダイヤモンドなんて聞いたら放ってはおかないわ。どんな手段を使っても手に入れようとするはずよ。──それで、ユーグ。聞いておきたいんだけど、そもそも〈すみれの王冠〉なんてシロモノは実在しているの?」
 ユーグが口を開くと同時に、慌ただしく扉が開いてクロエ付の侍女が駆け込んできた。
「大変です、奥様! お嬢様がどこにもいらっしゃいません!」
 泣きそうな顔で侍女が握りしめていたのは、ユーグが眠っているクロエにかけておいた上  (ジュストコール)だった。
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登場人物紹介

クロエ・ド・ヴュイヤール、16歳よ。由緒正しき侯爵令嬢なのに、極楽トンボの兄と過去に生きる祖母を抱えて、お財布の中身が気になってしょうがないの。貧乏っていやよね! こう見えて腕に覚えはあるんだからナメないでいただきたいわ。

ユーグ・アスラン。19歳だ。摂政公の密偵を務めている。無茶ぶりばかりされるので正直うんざりだが、もっと困るのはわけのわからない創作料理を試食させられることだ。言っておくが、どんなに家柄がよかろうと貧乳小娘になど興味はない。付き合うなら人妻に限る。

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