第七章 きみは泣いてもかまわない(4)

文字数 2,542文字

 ブランディーヌは愛人の肩にしなだれかかり、聞こえよがしに囁いた。
「早いとこ特別な賭場を開こう。好き者どもに秘密の符丁つきの招待状を送るんだ。まっさらな生娘のご令嬢が賞品と知れば、勝負にもさぞ熱が入るだろうよ」
 ダリエは笑いながら頷き、好色そうにクロエを眺めた。男は長椅子に歩みよると、クロエの顎を掴んで無理やり仰向けた。
「……こいつ、追い詰められた野良猫みたいな目付きをしやがるぜ。また酒をたんまり呑ませて酔わせておかないと、大事な客を引っ掻きかねないな」
「それもまたお楽しみかもしれないじゃない」
 嘲笑を浮かべて女が覗き込む。クロエは力任せに男の手を振り払い、無我夢中でブランディーヌに掴みかかった。抱きつかれる格好で、女が床に尻餅をつく。クロエは力任せに女の手を掴んだ。
「返してよ!」
 反対側の手で頬を張り飛ばされ、背後からダリエによって羽交い締めにされる。
「何するんだい、この小娘が!」
 激昂して立ち上がった女は、なおも平手打ちを浴びせようと手を振り上げた。
「まぁ待てって。大事な賞品なんだ、顔が腫れ上がってたら興ざめだろう?」
「だけどこいつ、頭に来るんだよ!」
「ガキなんだ。勘弁してやれ。さぁ、着替えて化粧を直して来いよ。気晴らしにカードでもやりに行こうぜ。小娘はここに閉じ込めておけばいい。──おい、目を離すなよ。後で夜食を届けてやるから」
 ダリエが女装した手下に命じた瞬間。窓ガラスの割れる音が響き、同時に廊下に面した扉がばたんと開いた。十人以上の男たちが一斉になだれ込み、いちばん近くにいた女装の手下がたちまち組み伏せられた。
 室内の誰もがあっけにとられる中、ブランディーヌだけがとっさに野生の獣じみた動きを見せた。彼女は愛人には目もくれず、一瞬のうちに隣の部屋に続く扉の向こうに消えた。
 男たちが怒号を上げ、ダリエを突き飛ばす。数人がかりで男を縛り上げているあいだに、残りの面々が閉まった扉に取りついた。
「開かないぞ」
「向こうからかんぬきをかけやがった!」
「蹴破れ!」
 わぁわぁと騒ぎながら男たちは扉を突き破り、次の間へ飛び出していく。古びた軍服みたいなのを着ている者もいたが、ならず者だか一般人だかよくわからない。少なくとも正規の捕方ではないようだ。
「いないぞ!」
「どこ行きやがった」
「探せーっ」
 怒号が交差する中、長椅子にへたりこんだクロエはただただぽかんとしていた。
(な、何なの、この人たち……!?
「お嬢様ぁっ」
 ふいにクロエの足元に誰かが身を投げ出した。
「ジル! どうしてここに?」
 ダリエの店の前で別れたままになっていた従僕のジルベールが、薄汚れた顔を安堵の涙でぐちゃぐちゃにしていた。ふだんはオーレリアンのお下がりを着てこざっぱりとしているのに、今はやけにぼろぼろな格好だ。
「俺、浮浪児のふりをしてあのお屋敷を見張ってたんです。元は本当に浮浪児だったんで、お手のもんですよ」
「お屋敷って……、アドリエンヌさんの?」
「そう、あの綺麗なマダムです。いい人ですね! 毎日俺に小遣いくれたんですよ!」
「それじゃ、アドリエンヌさんに頼まれて……?」
「いえ、銀の髪の紳士(ムッシュウ・ダルジャン)の指示です」
「銀髪……、ユーグ?」
「はい。お嬢様を狙ってる奴がいるから、屋敷の周りを見張ってろと言われて。旦那もエキュ銀貨を毎日くれました。三枚もですよ。いい人です! ぜんぶ姉ちゃんに取り上げられてしまったけど」
「……あのね、ジル。お金をくれるからって、いい人とは限らないのよ」
「そうですかぁ? あのおふたりはいい人だと思うけどなぁ。だって、お嬢様のこと、それは気遣ってくださってるんですよ?」
 そのふたりに黙って飛び出してきたことを思い出し、急にクロエは後ろめたい気分になった。
「それより、よくここがわかったわね」
「たまたまお嬢様が裏口から飛び出してきたのを見たんです。馬車に轢かれそうになったでしょ? 肝が冷えましたよ。あの馬車、お屋敷の周りでよく見かけるんで、どうも怪しいなと思ってたんです。馬車はただの黒塗りだけど、馬で見分けがつきますからね」
 クロエを助けに行こうとしたジルベールは、目をつけていた馬車からブランディーヌが降りてきたことに驚いた。不審を感じ、とっさに馬車の後ろに飛びついたのだのだと言う。
「俺、いくらか払って昔の仲間に手伝いを頼んでたんです。そいつらが馬車の後を途中まで追いかけてきてくれて。俺、ここにお嬢様が連れ込まれてすぐ引っ返して、ムッシュウ・ダルジャンに伝えてくれって仲間に頼んだんです」
「それじゃ、この人たちは……」
「ムッシュウの手下じゃないですかね? 黒眼鏡の男が指示してたから」
 ちょうど引き上げてきた男たちが、戸口に向かって声を張り上げた。
「旦那。屋敷内には誰もいませんぜ。小窓が開いてたんで、たぶんそこから逃げたんだな。小柄な奴をそこから出して後を追わせましたが」
 扉の際に立っていた黒眼鏡の男が頷いた。
「他に何か発見は? 宝石類は見つかりましたか」
「銀食器なら空き部屋に積み上げてありましたがね……。宝石はないようです」
「あるだけまとめてシャトレへ運びましょう。荷馬車の用意を。ここはもう結構」
 どやどやと出て行く男たちを見送り、黒眼鏡の男はゆっくりと長椅子に歩み寄った。男は眼鏡を外し、クロエに向かって一礼した。蝋燭の灯を映した彼の瞳は、陰りをおびた赤い色をしていた。
「お怪我はないようですね」
「ええ、お蔭様で」
 捻挫した足首を用心深く引き寄せ、クロエは背筋を伸ばして男に相対した。
「あなた……、確かラファエルと言ったかしら」
 無表情な男の顔に、初めて微笑の片鱗らしきものが浮かんだ。
「我が主をここまで振り回した女性はあなたが初めてですよ、マドモワゼル・ド・ヴュイヤール。ですが、できれば今夜はこれ以上走り回らないでいただきたい」
 クロエは顔を赤らめてそっぽを向いた。
「……そうしたくても無理だわ。足首を捻挫したの」
 おやおや、と呟き、ラファエルはばつの悪そうにうつむいたクロエを思案顔で眺めた。
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登場人物紹介

クロエ・ド・ヴュイヤール、16歳よ。由緒正しき侯爵令嬢なのに、極楽トンボの兄と過去に生きる祖母を抱えて、お財布の中身が気になってしょうがないの。貧乏っていやよね! こう見えて腕に覚えはあるんだからナメないでいただきたいわ。

ユーグ・アスラン。19歳だ。摂政公の密偵を務めている。無茶ぶりばかりされるので正直うんざりだが、もっと困るのはわけのわからない創作料理を試食させられることだ。言っておくが、どんなに家柄がよかろうと貧乳小娘になど興味はない。付き合うなら人妻に限る。

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