プロローグ~摂政公はいつもきまぐれ~
文字数 3,380文字
「──ところで、〈すみれの王冠〉という宝石を知っているかね?」
それまで交わしていた当たりさわりのない会話が途切れたかと思うと、何の脈絡もなく問われた。
このひとの口から飛び出す言葉がしばしば行き先不明であることは、とうに身にしみている。ユーグは表情も変えず即答した。
「知りません」
にべもない答えに、男はうら悲しそうな顔になった。
豪華な刺繍入りの上着 をまとい、つややかな栗色の長いかつらをかぶった姿は泰然としている。体格は中肉中背、と言うにはいくぶん横幅がありすぎか。四十をいくつか過ぎたというのに、灰青色の瞳には未だいたずらな少年じみたきらめきが宿っている。
対するユーグは十九歳になったばかり。
かつらは使わずに銀灰色のゆたかな地毛をベルベットのリボンで結び、すらりと引き締まった体躯を仕立のよい上着 に包んで佇む姿は、ルネサンス時代の彫像のように均整が取れている。
男に向けられる蒼と翠が絶妙に混ざった紺碧の瞳は、冷たいというより辛辣だった。
自慢の絵画コレクションが所狭しと飾られたサロンを舞台上の役者のように歩き回っていた男は、やがて芝居がかった溜息をついた。
「ユーグ。おまえはどうしてそういつも私にだけ愛想がないんだ?」
「あなたに愛想を振りまいても何の益もありませんから」
きっぱり言い返すと、男はムッとしたように眉を上げた。
「何を言うか! 私は摂政だぞ。目下のところ、この国の最高権力者だ。誰よりも愛想を振りまくべき人物ではないのかね?」
期待するような男の問いに、ユーグは醒めたまなざしで応えた。オルレアン公フィリップ二世は、いかにも哀しそうに首を振った。
不首尾を悟った摂政公はひとしきり咳払いをすると、辺りをはばかるように小声で尋ねた。
「あー、益のあるところには、ちゃんと愛想を振りまくのだろうね? せっかく私よりも容姿に恵まれたんだから、行使しなくてはそれこそ宝の持ち腐れだよ」
自分の言葉にうんうんと頷きながら、摂政公はユーグにそろりと歩み寄った。
「……それにしても、おまえの髪は本当に綺麗だねぇ。どんなに丁寧に髪粉をかけたかつらだってかなわないよ。しかし、できればもうすこし脇の方をカールさせた方が──」
伸ばされた手をわずらわしげに押しやり、そっけなくユーグは答えた。
「必要とあらば出し惜しみはしませんので、どうぞご心配なく」
「そ、そうか。それならよい。──ところで何の話をしていたのだったかな」
「〈すみれの王冠〉がどうとか」
「それそれ。すごく珍しい宝石なんだ。何でも紫色のダイヤモンドだとか……」
「紫? そんな色のダイヤモンド、聞いたこともありませんね」
「だから珍しいんじゃないか!」
当然だろうと言いたげに摂政公は目を剥く。ユーグは悪い予感にげんなりしてきた。
「その〈すみれの王冠〉が何だって言うんです」
「もちろんほしいのさ。手に入れておくれ。もちろん代価はきちんと払うよ」
まるで林檎が食べたいから取って来いというような無邪気な口調だ。このひとは、どうしていつもこののんびり口調でしち面倒くさいことばかり命じるのか……。
無駄と知りつつせめて不本意を表明しようと、ユーグは口の端を軽く曲げた。
「堂々と購入すればいいじゃないですか。あなたはまさしく時の人、ほしいと言えば誰でも喜んで譲ってくれるはず」
「いや、あまり表立って動くと藪蛇というか、横やりが入りそうでねぇ……」
摂政公は奥歯にものが挟まったような言い方をする。面倒なことにはなるべく関わりたくないが、彼の極私的な密偵という自らの立場上そうもいかない。
しぶしぶとユーグは訊いた。
「どこにあるんですか。その〈すみれの王冠〉とかいうシロモノは」
「それが、よくわからないんだなぁ。噂を小耳に挟んだだけなんでね」
「……そんな曖昧な話なわけですか」
「だからおまえに探ってほしいんだ。手がかりはあるんだよ。なんでも先王陛下が、とある女性に贈ったもので」
「モンテスパン夫人ですか?」
「いやいや、彼女が失脚したずっと後の話。くだんの女性の名はね――何だっけ。ああ、そうそう、ベアトリスだ。マドモワゼル・ド・ラ・リュシドールと呼ばれていた。地方の小貴族の娘で、マントノン夫人の読書係だったんだよね」
意味ありげに摂政公はユーグを見る。
「……なるほど」
「得心がいったかな。知ってのとおり、うちの母上はマントノン夫人が大嫌いでねぇ。大御世 (※ルイ十四世の御世のこと)のときから真っ向対立してた。まぁ私も好意は持っていないけどね。彼女のお蔭で長年冷や飯を喰わされた身としてはねぇ」
摂政の言葉が愚痴っぽくなるのはやむを得ないだろう。大王晩年の寵姫で無冠の王妃であったマントノン夫人は、敬虔で謹厳、質素をよしとする女性で、才気煥発だが享楽的で遊蕩を好むフィリップに対する嫌悪を隠そうとしなかった。
ユーグは軽く嘆息した。
「──ひとつ聞きたいんですが。その〈すみれの王冠〉とやらを手に入れて、どうするおつもりです? またどこぞの御婦人に気前よくくれてやろうというわけですか」
「いやだな、違うよ。王冠につけたいんだ。我らが愛くるしい国王、ルイ十五世陛下が戴冠式でいただく王冠にね。式までにはまだだいぶ間があるけれど、できるだけ早くから準備は整えておきたいからねぇ」
フィリップは肘掛け椅子に腰を下ろし、足を組んでにこりとした。
「国王陛下の御ためであれば、否やはないだろ?」
「やむをえませんね」
「そう言ってくれると思ったよ。私の可愛いユーグ」
「気持ち悪いからやめてくれませんか、それ」
身ぶるいするユーグに、摂政公は口を尖らせた。
「何を言うか。私はおまえの実のち──」
「では失礼します」
最後まで言わせず、ぞんざいにお辞儀をするとユーグはそそくさと退出した。後からフィリップのうわずった声が切なそうに追いかけてきた。
「今度夕食においで! 新作料理を考案したんだよ。客人に披露する前に、ぜひおまえに試食してもらいたい」
「遠慮します」
冷たく言い捨て、ユーグはばたんと扉を閉じた。
廊下を見回すと、待っているはずの従者の姿がない。ここで絵画を眺めていると言ったのに。ユーグはいらいらと声を上げた。
「ラフ! どこだ、帰るぞ」
一室の扉が開いて黒髪の青年が顔を出す。彼は室内に向かって優雅にお辞儀をし、ばか丁寧に扉を閉めた。
「何してたんだ、ラファエル」
戻ってきた青年は口の端で微笑んだ。
二十代前半、黒いガラスの丸眼鏡をかけ、後ろで束ねた黒髪を緋色のベルベットの髪袋で包んでいる。身にまとう上着 は黒と光沢のある濃灰色を組み合わせている。
まるで影のように、ラファエルはぴたりと主人の後に続いた。彼の方がユーグよりも若干背が高い。ラファエルはこのうえなく忠実ではあったが、態度はかなり不遜である。
彼は不機嫌な主人に対し、ひょうひょうと応じた。
「暇だったので、魔王夫人 のお相手を少々」
皮肉な笑みをふくんだ従者の答えに、ユーグは眉を上げた。魔王夫人 とは、摂政が自分の正妻をからかって呼ぶ軽口で、むろん当人が気に入っているはずもない。
「……それ、本人の目の前で言ってないだろうな」
「まさか。出入り差し止めになっちゃいますよ。──で、今度は何の御用でした?」
歩きだしながらユーグは肩をすくめた。
「〈すみれの王冠〉を探せだと」
「何です、それは」
「紫色のダイヤモンドだそうだ」
「ほ。また摂政公の酔狂ですか」
「そうとばかりも言えないようだが……。ともかく命令だ。やるしかないさ」
パレ・ロワイヤルの中庭に出ると、冷たい風が冬枯れの木々を寒々しく揺らしていた。どんよりとした灰色の空を見上げ、ユーグはうんざりと嘆息を洩らした。
新王即位から四か月、パリの街は今宵もまた華やかな享楽の夜を迎えようとしていた──。
それまで交わしていた当たりさわりのない会話が途切れたかと思うと、何の脈絡もなく問われた。
このひとの口から飛び出す言葉がしばしば行き先不明であることは、とうに身にしみている。ユーグは表情も変えず即答した。
「知りません」
にべもない答えに、男はうら悲しそうな顔になった。
豪華な刺繍入りの
対するユーグは十九歳になったばかり。
かつらは使わずに銀灰色のゆたかな地毛をベルベットのリボンで結び、すらりと引き締まった体躯を仕立のよい
男に向けられる蒼と翠が絶妙に混ざった紺碧の瞳は、冷たいというより辛辣だった。
自慢の絵画コレクションが所狭しと飾られたサロンを舞台上の役者のように歩き回っていた男は、やがて芝居がかった溜息をついた。
「ユーグ。おまえはどうしてそういつも私にだけ愛想がないんだ?」
「あなたに愛想を振りまいても何の益もありませんから」
きっぱり言い返すと、男はムッとしたように眉を上げた。
「何を言うか! 私は摂政だぞ。目下のところ、この国の最高権力者だ。誰よりも愛想を振りまくべき人物ではないのかね?」
期待するような男の問いに、ユーグは醒めたまなざしで応えた。オルレアン公フィリップ二世は、いかにも哀しそうに首を振った。
不首尾を悟った摂政公はひとしきり咳払いをすると、辺りをはばかるように小声で尋ねた。
「あー、益のあるところには、ちゃんと愛想を振りまくのだろうね? せっかく私よりも容姿に恵まれたんだから、行使しなくてはそれこそ宝の持ち腐れだよ」
自分の言葉にうんうんと頷きながら、摂政公はユーグにそろりと歩み寄った。
「……それにしても、おまえの髪は本当に綺麗だねぇ。どんなに丁寧に髪粉をかけたかつらだってかなわないよ。しかし、できればもうすこし脇の方をカールさせた方が──」
伸ばされた手をわずらわしげに押しやり、そっけなくユーグは答えた。
「必要とあらば出し惜しみはしませんので、どうぞご心配なく」
「そ、そうか。それならよい。──ところで何の話をしていたのだったかな」
「〈すみれの王冠〉がどうとか」
「それそれ。すごく珍しい宝石なんだ。何でも紫色のダイヤモンドだとか……」
「紫? そんな色のダイヤモンド、聞いたこともありませんね」
「だから珍しいんじゃないか!」
当然だろうと言いたげに摂政公は目を剥く。ユーグは悪い予感にげんなりしてきた。
「その〈すみれの王冠〉が何だって言うんです」
「もちろんほしいのさ。手に入れておくれ。もちろん代価はきちんと払うよ」
まるで林檎が食べたいから取って来いというような無邪気な口調だ。このひとは、どうしていつもこののんびり口調でしち面倒くさいことばかり命じるのか……。
無駄と知りつつせめて不本意を表明しようと、ユーグは口の端を軽く曲げた。
「堂々と購入すればいいじゃないですか。あなたはまさしく時の人、ほしいと言えば誰でも喜んで譲ってくれるはず」
「いや、あまり表立って動くと藪蛇というか、横やりが入りそうでねぇ……」
摂政公は奥歯にものが挟まったような言い方をする。面倒なことにはなるべく関わりたくないが、彼の極私的な密偵という自らの立場上そうもいかない。
しぶしぶとユーグは訊いた。
「どこにあるんですか。その〈すみれの王冠〉とかいうシロモノは」
「それが、よくわからないんだなぁ。噂を小耳に挟んだだけなんでね」
「……そんな曖昧な話なわけですか」
「だからおまえに探ってほしいんだ。手がかりはあるんだよ。なんでも先王陛下が、とある女性に贈ったもので」
「モンテスパン夫人ですか?」
「いやいや、彼女が失脚したずっと後の話。くだんの女性の名はね――何だっけ。ああ、そうそう、ベアトリスだ。マドモワゼル・ド・ラ・リュシドールと呼ばれていた。地方の小貴族の娘で、マントノン夫人の読書係だったんだよね」
意味ありげに摂政公はユーグを見る。
「……なるほど」
「得心がいったかな。知ってのとおり、うちの母上はマントノン夫人が大嫌いでねぇ。
摂政の言葉が愚痴っぽくなるのはやむを得ないだろう。大王晩年の寵姫で無冠の王妃であったマントノン夫人は、敬虔で謹厳、質素をよしとする女性で、才気煥発だが享楽的で遊蕩を好むフィリップに対する嫌悪を隠そうとしなかった。
ユーグは軽く嘆息した。
「──ひとつ聞きたいんですが。その〈すみれの王冠〉とやらを手に入れて、どうするおつもりです? またどこぞの御婦人に気前よくくれてやろうというわけですか」
「いやだな、違うよ。王冠につけたいんだ。我らが愛くるしい国王、ルイ十五世陛下が戴冠式でいただく王冠にね。式までにはまだだいぶ間があるけれど、できるだけ早くから準備は整えておきたいからねぇ」
フィリップは肘掛け椅子に腰を下ろし、足を組んでにこりとした。
「国王陛下の御ためであれば、否やはないだろ?」
「やむをえませんね」
「そう言ってくれると思ったよ。私の可愛いユーグ」
「気持ち悪いからやめてくれませんか、それ」
身ぶるいするユーグに、摂政公は口を尖らせた。
「何を言うか。私はおまえの実のち──」
「では失礼します」
最後まで言わせず、ぞんざいにお辞儀をするとユーグはそそくさと退出した。後からフィリップのうわずった声が切なそうに追いかけてきた。
「今度夕食においで! 新作料理を考案したんだよ。客人に披露する前に、ぜひおまえに試食してもらいたい」
「遠慮します」
冷たく言い捨て、ユーグはばたんと扉を閉じた。
廊下を見回すと、待っているはずの従者の姿がない。ここで絵画を眺めていると言ったのに。ユーグはいらいらと声を上げた。
「ラフ! どこだ、帰るぞ」
一室の扉が開いて黒髪の青年が顔を出す。彼は室内に向かって優雅にお辞儀をし、ばか丁寧に扉を閉めた。
「何してたんだ、ラファエル」
戻ってきた青年は口の端で微笑んだ。
二十代前半、黒いガラスの丸眼鏡をかけ、後ろで束ねた黒髪を緋色のベルベットの髪袋で包んでいる。身にまとう
まるで影のように、ラファエルはぴたりと主人の後に続いた。彼の方がユーグよりも若干背が高い。ラファエルはこのうえなく忠実ではあったが、態度はかなり不遜である。
彼は不機嫌な主人に対し、ひょうひょうと応じた。
「暇だったので、
皮肉な笑みをふくんだ従者の答えに、ユーグは眉を上げた。
「……それ、本人の目の前で言ってないだろうな」
「まさか。出入り差し止めになっちゃいますよ。──で、今度は何の御用でした?」
歩きだしながらユーグは肩をすくめた。
「〈すみれの王冠〉を探せだと」
「何です、それは」
「紫色のダイヤモンドだそうだ」
「ほ。また摂政公の酔狂ですか」
「そうとばかりも言えないようだが……。ともかく命令だ。やるしかないさ」
パレ・ロワイヤルの中庭に出ると、冷たい風が冬枯れの木々を寒々しく揺らしていた。どんよりとした灰色の空を見上げ、ユーグはうんざりと嘆息を洩らした。
新王即位から四か月、パリの街は今宵もまた華やかな享楽の夜を迎えようとしていた──。