終章 それはたぶん天使のしわざ(2)

文字数 2,689文字

 クロエは安楽椅子に腰掛け、暖炉で踊る炎を見るともなしに眺めていた。ひねった足首はまだ引きずってしまうが、腫れはだいぶ引いて痛みもやわらいできた。それでも全快までには今しばらくかかりそうだ。
 カラス夫人(マダム・コルボー)ことブランディーヌの取り調べは裁判所で続いている。拷問を受けるのがいやで、取り調べにはわりと素直に応じているらしい。
 盗んだ宝石や銀器類には売ってしまったものも多く、すべてが元の持ち主に戻る可能性は薄いと、訪ねてきたアスラン警視から丁重な説明があった。初めて会ったユーグの兄は、感じのいい思慮深そうな顔だちをしていたが、弟とはまったく似たところがなかった。
 暖炉の傍らで火に当たりながらオーレリアンが残念そうに呟く。
「ユーグも一緒に来てくれればよかったのに。先日のお礼を言いたかった」
「お礼ならあの晩にじゅうぶん言ったじゃない」
「いや、おまえが会いたがってると思って」
 クロエはムッとして言い返した。
「どうしてわたしが! あんな軽薄な悪党(ルエ)にはもう二度と会いたくないわ」
「いい奴だと思うけど……。さては彼があんまり女性にもてるんで妬いてるな?」
「それはお兄様でしょ」
「いやぁ、彼にはむしろ女性の見方について教えを請いたいくらいだ。僕はどうも、綺麗な上っ面しか見えないようだからねぇ」
 寂しげに笑う兄の様子に、クロエは思わず声を詰まらせた。ブランディーヌに騙されていたことを知り、オーレリアンは手ひどく打ちのめされた。数日間ほとんど口もきかず、今でもしょっちゅう溜息をついている。
「……いつか素敵な人にめぐり逢うわよ、きっと」
「そうだね。今度いい出会いがあったら、まずは念入りに素性を調べることにするよ。家も訪ねてみないとね。どうも今回は焦りすぎた。まさしく貧すれば鈍すってやつだ。まったく情けないよ。こうして火に当たっていられるのも、結局はユーグの好意なわけだし」
 当分の薪や食料を確保できたのは、ユーグがジルベールに払った日当のお蔭だった。彼は従僕の少年に過分な報酬を支払い、アドリエンヌもまた『お礼』と称して毎日銀貨で小遣いをくれていた。その金はしっかり者の姉ジゼルが取り上げて、当然のごとくヴュイヤール家の家計に繰り入れられた。
 本来ジルベールのものなのだから、とクロエもオーレリアンも遠慮したのだが、頑としてジゼルに押し切られた。改めて姉から小遣いをもらったジルベールは、ぶつぶつ言いながらも隠しで銅貨をジャラジャラ鳴らしてけっこう嬉しそうだ。
「……おばあさまの宝石がひとつでも戻ってくればいいんだが、難しいだろうな」
 嘆息まじりの兄の言葉に、クロエは頷いた。
「期待しないほうがいいわね。盗まれたものが出てくることは滅多にないんだから。家紋の指輪を取り戻せただけでも本当に幸運よ」
「残念だよ。せめて母上の形見の指輪は取り戻したかった」
 クロエは何もない自分の指に目を落とし、そっと片手で隠した。
「……仕方がないわ。お母様のこともお父様のことも、しっかりここで覚えているもの。形見がなくても大丈夫よ。ね?」
 胸を押さえて兄を見上げると、オーレリアンは天使のような笑みを浮かべた。
「ああ、そうだね──」

 その夜、クロエは夢を見た。やわらかな陽射しに照らされて、春の野原を歩いている。足元にはすみれが青紫の絨毯のように咲きみだれ、やさしい香りがただよっていた。
 誰かが自分の指に摘んだばかりのすみれを巻き付ける。嬉しくなって見上げると、太陽がまぶしくてそのひとの顔がどうしても見えない。ただ、優しく微笑んでいるその口許だけが、光の乱舞のなかで揺らめいている──。
 ふ、と目を薄く開き、クロエは溜息をついて枕にしがみついた。次の瞬間、ぱちりと音をたてる勢いで目を見開く。枕を掴んだ指に、青紫のサファイアの指輪が嵌まっていた。クロエは跳ね起き、茫然と指輪を見つめた。おそるおそるはずして確かめる。
 彫り込まれた『過ぎゆかざるものは愛のみ』の文字。確かに母の形見の指輪だ。
「──どういうこと?」
 かすれ声でクロエは呟いた。ブランディーヌがセーヌ河に投げ込んで、永遠に失われてしまったはずなのに。
 クロエは寝台から降り、まだ少し不自由な足をひきずって窓辺に歩み寄った。カーテンの向こうからまばゆい陽射しが現れた。窓を開ければ敷石に薄く雪が積もっていた。クロエは眩しさに目を細め、空を振り仰いだ。透けるような薄青の空が静かに広がっていた。
 クロエは指輪の宝石にそっとくちづけた。
「……天使のしわざに、してあげる」
 冷たい空気に包まれ、クロエはくしゃみをした。急いで窓を閉めると、洗面用の湯を持ったジゼルがきびきびと入ってきた。

 窓の直下では、オーレリアンとユーグが壁に貼りついていた。
「……見つからなかったよな?」
「たぶん」
 おそるおそる尋ねたオーレリアンにユーグは頷いた。
「でも、本当にあれでよかったのかい。直接渡してくれれば、いくらあの子が意地っ張りでもめちゃくちゃ喜んだと思うんだけどなぁ」
「いいんですよ。どっちみちすり替えたのがバレたら怒られるだろうし」
 泣き疲れたクロエがうとうとした隙に、ユーグはあらかじめよく似た色のアメシストで作っておいた模造品を本物の指輪とすり替えたのだ。鑑定して摂政公に見せ、その後でまたすり替えるつもりだったが、思わぬ状況の変化で奇しくも本物が失われるのを防ぐことができた。
 ユーグは静かに笑って壁際を離れた。
「それに、光栄にも天使のしわざにしてくれるそうですから。──それじゃ、侯爵。くれぐれも朝帰りが妹君にバレないように。賭博場で遊んでいたのが知れたらきっとものすごい雷を落とされますよ」
「う、うん、わかった。でも、あんなに勝ったの初めてだよ。きみのお蔭だ」
「なに、あそこは元々イカサマなんです。それより侯爵、約束をお忘れなく。賭け事がやりたくなったら僕をお呼びください。いつでもお付き合いしますから。ひとりでやっちゃいけませんよ。昔のお仲間ともね」
「ああ、わかってる」
 生真面目に頷くオーレリアンに微笑んで会釈して、ユーグは白い雪を踏みしめて歩き出した。
 その背を見送り、オーレリアンは懐に納めた財布を押さえてうっとりした。久々に、財布はルイ金貨でいっぱいだった。
 ユーグは眩しげに空を見上げ、三角帽(トリコルヌ)をかぶりなおした。ふたたび歩きだした彼のくちびるには、まだ遠い春風のような微笑が浮かんでいた。
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登場人物紹介

クロエ・ド・ヴュイヤール、16歳よ。由緒正しき侯爵令嬢なのに、極楽トンボの兄と過去に生きる祖母を抱えて、お財布の中身が気になってしょうがないの。貧乏っていやよね! こう見えて腕に覚えはあるんだからナメないでいただきたいわ。

ユーグ・アスラン。19歳だ。摂政公の密偵を務めている。無茶ぶりばかりされるので正直うんざりだが、もっと困るのはわけのわからない創作料理を試食させられることだ。言っておくが、どんなに家柄がよかろうと貧乳小娘になど興味はない。付き合うなら人妻に限る。

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