十四

文字数 3,585文字

 滞在四日目。
「さてと、今日はレイコ先生のステンドグラスを観に行きますよ。心の準備はよいですか?」
「茶化さないでよね、今日は真剣です」
「ああ、でもこれを観てしまったら、旅もいよいよなのね、寂しくなっちゃう」
「もう滞在四日目なんだね」
 レイコはこの日のために持参したデジタルカメラと、教会に合うように選んだ黒いシックなスーツを着て、念入りに化粧を施した。
「化粧しなくても、充分綺麗だよ」
「そういう問題じゃないの。男の人にはわからないと思うけど、ある意味、気合みたいなものなのよ」
「そのデジカメは?」
「デジカメはステンドグラスを撮るために買ったの。スマートホンのカメラはあなたも写るでしょう。万が一ステンドグラスの写真にあなたが写り込んで、みんなにバレるといけないから」
 化粧を続けた。横顔が少し緊張しているように見えた。やはりステンドグラスに向き合う時は、絵画を観るのとはまた違った心境なのだろう。彼女は父親の話をあまりしないが、思春期に反発して生きてきた彼女にとって、ステンドグラスと向き合うことは、父親と向き合っていることと同じなのかもしれない。
 二人はホテルを出ると、ジョルジュ・サンク駅からメトロ一号線に乗り、オルテ・ド・ヴィル駅で下車し、セーヌ河の中洲であるシテ島のノートルダム寺院を観に行った。外観はゴシック建築の極みである。壮麗で幻想的、豪華であり、かつ緻密。西側正面の三つの入り口には、それぞれ見事な装飾がなされ、観る人の心を奪う。特に扉脇の円柱の人像は、生身の肉体以上に活き活きとした質感を湛え、まるで脈でも打ちそうな錯覚を覚える。正面にある、直径にして十mはあろうかという『薔薇窓』には、ステンドグラスが施され、観るものを釘付けにした。レイコは専門家らしく、外からのステンドグラスの見方をハマダに解説し、写真を撮った。
「早く、中に入りましょう!」
 建物の中に足を踏み入れると、外観からは想像もできない穏やかな、静寂に包まれたような造りで、ハマダは高い天井を見上げた。
「凄いな、これは!」
 とにかく目に飛び込んで来るのは、外からでは黒ずんではっきりしなかった、薔薇窓のステンドグラスだった。陽光を背に受け、光がガラスを透過し、鮮やかに染め抜かれた光跡が、壁と柱を照らす。内装のシンプルさをハマダは理解した。
「信じられない・・・・・・」
 レイコの声が漏れた。そして全く身じろぎもせず、光の芸術を体全体で受け止めているようだった。目を瞑り、両手を広げ、聖なる光を存分に浴びているように見えた。
「素晴らしい、光の芸術だね」
「ええ、ここに来て本当に良かったわ。ユウイチさん、有難う」
 ハマダが微笑した。
「こちらこそ、有難う。君のその笑顔が見れただけで、僕は・・・・・・」
 レイコがハマダを見つめた。唇が微かに動いた。何かを伝えようとしたが、飲み込んだようだった。それを見て、全て受け入れるつもりで頷いてみせた。それから二人は寺院の中を丁寧に見てまわり、南塔の頂上からパリの街を眺めた。
「よい旅行になって本当に良かった」
「私ね、確かにステンドグラスを観たいと思ってパリに来たんだけど、でも、さっき、あの素晴らしいステンドグラスを観て感じたの。あなたと一緒に来れたことが幸せであって、場所はどこでもよかった、ステンドグラスは、ステンドグラスでしかない。あなたと一緒に観ることができたことに、こんなにも喜びを感じるなんて」
 レイコが肩を振るわせたので、思わず肩を抱き寄せた。
「僕も君と同じ気持ちだよ」
 目はうっすらと紅かった。彼女の背中に手をまわし、もう片方の手で髪を撫で、目を瞑り、キスをした。
「このまま、東京になんか帰らずに、ここで一緒に暮らせたらいいのに」
 レイコの言葉に、ハマダも言葉を詰まらせた。若き日の夢を、今ここで彼女に叶えてもらったような気がした。
「君を連れてこのまま逃げてしまいたいよ」
 二人はしばらく見つめ合った。
「もっと早く、もっと早く、あなたに出会いたかった」
「もっと早く、君に巡り合いたかった」
 言葉を被せた。パリの街並みを見ながら、二人は顔を寄せ合いキスをした。
 二人はノートルダム寺院を後にし、外の露店でフルーツジュースを飲み、少し歩いたところにあるサント・シャペルに向かった。
「サント・シャペルのステンドグラスがパリ最古だって知ってる?」
「へえ、さすが物知りね、そうなんだぁ」
「ルイ九世の命令で、建築家のピエール・ド・モントルイユが建てたもので、ゴシックの宝石なんて呼ばれてる。最大の見所はステンドグラスに聖書の物語を表現しているところだろうね。元々ステンドグラスのデザインは宗教的な要素が強い傾向がある、それはこの時代の最古のものからずっと流れを受け継いだものなんだ」
「ゴシックアートというものが、神の存在を可視化するために光を神として崇めたんですもの」
「神の姿は目に見えないからね。その存在を信じる人々が光を通してその存在を感じることをしたんだね、きっと」
 ハマダは新約聖書を読んだことがある。クマノが死んで、絵を描くことを諦めた若い頃に、たまたま船橋の街頭で宣教師のような外国人から貰ったもので、その当時は全く理解できなかった。それでも捨てずに本棚の奥に突っ込んでいて、六年前にソノカワユミコが自殺した時に、一度だけ開いて読んだ。自分でも理由はわからない。その時に気になった一節があった。それを今思い出した。

 新約聖書 マルコの福音書 第十節

The Pharisees came and asked him,“Is it lawful for a man to divorce his wife?” They said, “Moses permitted a man to write a certificate of divorce, and to dismiss her”
But for the beginning of the creation, God “made them male and female for this reason a man shall leave his father and mother and be joined to his wife and the two shall become one flesh, so then they are no longer two but one flesh, therefore what God has joined together, let not man separate”
So he said to them “Whoever divorces his wife and marries another commits adultery against her.

※以下訳
パリサイ人たちがやってきて、夫と妻が離別することは許されるかどうかと質問した。イエスを試そうとしたのである。人々は言った。「モーゼは離婚状を書いて、妻と離別することを許しました」
イエスは「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それが妻と一緒に、又は父と母とが離別すべきではない理由なのです。二人の者が一心同体になり、もはや二人は別々ではなく、一人なのです。人は神が結び合わせた者を、引き離してはなりません」
そしてイエスは言われた。「誰でも妻と離別して、別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すことになるのです」

                     マルコの福音書 第十節より

 昔、何の気無しに読んだ新約聖書の一節が気になっていたことは確かだった。レイコの姿を見ながら、自分は罪深い人間なのだろうかと思った。宗教的に? 社会的に? いや、ユリに対して罪を犯しているのか? 自分の気持ちに素直に生きることが罪なのだろうか? 人が人を好きになることに、罪があるのだろうか? その時、レイコの声が耳元で聞こえた。
「私はステンドグラスをキリスト教の呪縛から解き放って、一般の人々のものにしたいと考えているの。人々の普遍の心というか、喜びも哀しみも、怒りも楽しみも、みんな包み込むような、人々の生活の中のアートにして行きたいの」
 ハマダは頷いた。
「自分の心に素直に生きてもいいのかな」
 レイコはハマダの瞳の奥を探った。
「それでいいんだと思う。少なくとも私はそうしたい。周りから何と言われてもいい。自分の気持ちに正直に生きなければ、他人を幸せにすることもできないと思うから」
 二人はそれ以上深く互いの気持ちに入り込もうとはしなかった。
「私たち、似たもの同士なのよね」
 レイコが同意を求めたが、ハマダは何も答えなかった。

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