文字数 1,499文字

 夏が終わる頃には、完全にユミコのことしか考えられなくなっていた。一時的な感情ではなかった。このことはクマノには知らせていない。いつかは話さなければと思ってはいる。次にクマノが学校に来た時にと思いながら、その日が来ないことを望んでいる。そんな気持ちを抱えたまま、二人で休日の教室で会っていた。時に恋人同士であるかのような感覚だったが、あの夏祭りでのキス以来、ユミコの態度は曖昧で、気持ちを確かめる勇気が無かった。それにユミコは受験のことで頭がいっぱいだった。それを邪魔したくはなかった。うやむやに放置された心は次第に傷ついていった。大きく傷ついたわけではない。見た目にも、ユウイチ本人にも気付かないほどの擦り傷が増えていった。
 船橋の街のネオンは、今のユウイチにとって最も身近な世俗であった。それがあまり好きになれなかった。自分と世俗の間には見えない壁があるのだと信じていた。クマノがこの街の中に消えた時、彼のようになることを恐れた。仕事に明け暮れて、自分自身を見失うような生活になるのが嫌だった。ユミコを思う気持ちとほんの僅かに残っている画家への憧れ。金や地位や名誉も要らない。細々と自由に生きて行ければ、それだけで満足できる。自分とユミコだけは、この街のネオンから隔離された世界で生きて行ける。教室に立ち込める油のにおいと、ユミコさへ傍に居てくれれば・・・・・・。
 そんなある日、ユミコが珍しく学校を休んだ。クマノが学校に来なくなってからというもの、船橋の街に寄りつかなかったが、久しぶりに何か食べて帰ろうと思った。腹は減っていたが、駅前の安いだけの飲食店で済ますのは嫌だった。慣れない路地を歩き、どこか気の利いた店はないかと探したが、飲み屋ばかりで、次第に窮屈な気持ちになり、足が自然に駅へと向いていた。近道をしようと駅まで続く細い路地裏を抜けようとして角を曲がった時、そこで目に飛び込んできたものは、まぎれもないユミコの姿だった。だらしなく煙草を咥え、真赤なルージュが毒々しかった。ユウイチの知らぬ男に抱きかかえられ、酔っているのだろう、その横顔は紅く、品の無い笑い声に包まれていた。見て見ぬ振りをして、その脇を通り過ぎようとした。けれども雑踏の人ごみで、誰かと肩がぶつかった。よろけて思わず振り向いた時、人ごみを境にして、確かにユミコと目が合った。周りの男たちを払いのけ、胸元を直しながら夜のネオンに消えていった。
 翌日は休日だったが、生徒に開放された教室にユミコの姿は無かった。心のどこかでほっとしていた。まだ気持ちの整理がついていなかった。どんな顔をしてユミコに会ってよいのかわからなかった。その反面、しっかりと顔を合わせて、昨日のことを聞かなければならないと思った。なぜだかわからないが、あの醜い姿が頭の中を駆け巡っても、彼女のことを嫌いにはなれなかった。そんなはっきりとしない自分の気持ちを、会って伝えたかった。今日、彼女は必ず自分に会いにやって来る。だから時間が許す限り、教室で待つつもりだった。イーゼルを立て、カンヴァスに何か描こうと思っても、カンヴァスは白いままだった。
 夜の八時を過ぎ、他の生徒が居なくなった頃、ユミコが夜の教室に姿を見せた。走ってきたのか息が荒い。彼女の息遣い以外、何も聞こえない。ユウイチが白いカンヴァスを見つめたまま前を見つめている。
「どうして、黙っているの?」
 立ち上がろうとした。そのはずみでカンヴァスが床に倒れた。俯いているユミコの傍まで行き、抱きしめた。もう自分の気持ちに嘘はつけなかった。ユミコが顔を上げた。目を閉じて唇と唇を重ね合わせた。
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