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 ユウイチには学生時代、クマノという友人がいた。彼は皆に『クマちゃん』と呼ばれていた。獰猛な野生の熊とは程遠い、どちらかと言うとコアラのようなイメージの男だった。クマノは随分と背が低かった。百五十センチぐらいだったろうか。ユウイチの身長は百八十センチ。二人が並んで立つと、まるで大人と子供だった。二人は船橋芸術学院の生徒として知り合った。美術学校というところは、男子生徒の数が極端に少ないこともあり、男同士はすぐに仲良くなる。特に二人が所属した油彩科の夜間部は、五十人のクラスに男子生徒三、四人であった。男子生徒は肩身が狭い思いをする反面、女子から注目され、変な話だが、少ない男子を取り合うようなことも起こる。普段はそれ程モテないタイプの男でも、もの珍しいのか案外モテたりもする。ユウイチは背も高く、そこそこ女子の人気を集めたが、クマノは皆に『クマちゃん』と慕われてはいたが、浮いた話は一切無かった。夜間部の学生は半分が現役高校生。もう半分が浪人生。それぞれ昼間働いたり勉強したりしている。クマノもその一人だった。自分で学費を稼ぐため、昼間は船橋市内でアルバイトをして働き、夜は美術大学進学のために絵の勉強をする。それに比べユウイチも一年浪人して美術大学を目指していたが、昼間は友人と遊びに出たり、美大以外の受験に備えて家で勉強をしたりしていた。クマノに比べどこかのんびりとしていたのは、家が割合裕福であったからかもしれない。子供のころから絵が得意で、クラスでは常に目立つ存在であったが、絵を得意とする学生の集団の中にあっては全く目立たなかった。一方、クマノは別の意味で目立つ存在であった。画材すらまともに揃っていないような初心者だった。誰が見ても絵が上手いとは言い難かった。なぜ美術学校に入学してきたのだろうと囁かれたほどだ。教室内での絵の評価は露骨で、講師が見て上手い人の絵から順に中央に飾られ、下手な絵はどんどん端に追いやられる実力主義だった。ユウイチの絵もそれ程良い位置ではなかったが、クマノの絵は常に端の方に寄せられていた。中央の絵は講師によって皆の前で評されるが、端の絵はコメント一つ無い。その時間ずっと恥を晒して耐えねばならなかった。特にクマノの絵は一目で皆にわかった。絵の下の余白に『くま』と大きく記してあるからだ。それにクマノの絵は何回も描き直したせいで、絵全体が黒く汚れて見えた。対照的にユウイチの絵は淡白で、思い切った色彩を使う自信に欠けていた。そんなに大きくサインしなくてもいいのにと言うのだが、クマノはそれをやめなかった。二人の性格は全く逆だったが、そんな二人が仲良くなったのは、周囲からすれば意外であったかもしれない。
 夜間部の授業が終わると、いつも船橋の駅までクマノと一緒に帰った。クマノの家は船橋市内にあったので、どうしてJR船橋駅まで見送ってくれるのか、不思議に思っていた。二人だけで帰ることもあったが、他にクマノが卒業した高校の同級生で、同じ夜間部に通うソノカワユミコという女生徒が一緒になった。彼女は習志野というところに住んでいた。JR船橋駅からJR津田沼駅までユウイチはソノカワユミコと一緒だった。彼女はとても快活で洒落ていた。甲高い声が少し耳に障ったが、一つ一つの仕草に上品さを感じさせる。時折見せる無邪気な微笑と透き通るような白いうなじが印象的だった。クマノと船橋駅で別れた後、ユウイチとユミコは二人きりだったが、あまり言葉を交わさなかった。二人とも車窓に映る自分の姿を見つめながら、電車の音を聞いていた。普段は間にクマノがいてくれて、お互いに意識せずにいられたが、二人きりになると、僅か二駅だけの間だったが意識してしまう。何か話そうとしているうちに、すぐに津田沼駅に到着し、軽く手を振って別れるのが常だった。ホームを歩いて遠ざかって行く彼女を見て、胸が締め付けられた。思わず一緒にホームに下りてしまいそうになる。風になびく彼女の髪は長く、美しかった。ユウイチの視線を感じてか、ユミコは肩越しに視線を投げた。電車はそのまま動き出し、それから千葉駅まで一人電車に揺られた。
 翌日も、ユミコの元気な姿が教室にあった。そして、その隣には常にクマノの姿があった。ユミコについてクマノに尋ねると、いつも嬉しそうに、「関係無い、ただの同級生だ」と言う。けれどもユミコに気があるのは誰が見ても明らかだった。ユウイチだけが、それを認めたくないという思いからか、クマノの『関係ない』と言う言葉を信じ込もうとしていた。
 この日も、一週間前から取り組んでいた静物画の講師評価があり、ユミコの絵は教室の一番中央に飾られていた。ユウイチに限らず、教室の誰もがいつしか彼女を尊敬と羨望の眼差しで見るようになっていた。それは極自然なことであったが、クマノだけはユミコの絵が皆にもてはやされるのをあまり快く思っていなかった。そんなクマノを見て不思議に感じたが、特に理由を聞こうとしなかった。
「クマちゃん、彼女の絵を見たかい?」
「ああ、見たけど何か?」
 不機嫌な顔をした。そして、教室の端に掛けてある自分の絵を見つめた。
「芸大に行けるよ彼女は、そう思わない? クマちゃん」
 クマノがユウイチを見た。
「君はどうなんだい? 芸大行けるの?」
「僕には無理」
「そんなら、あいつの絵を見て、喜んでる暇は無いんじゃないか?」
ユウイチの顔色が変ったのを見て、クマノもはっとしたようだった。
「ごめん、言い過ぎた」
 何も言えなかった。確かにクマノの言う通りだった。するとクマノが溜息をつき、
「なぁ、君はどうして芸大なんて行こうと思うの? 何であんな何浪もしないと入れないようなところに行こうと思うの?」
 ユミコの姿を目で追った。
「将来の夢のためかな」
 同意を求めてクマノの肩に手をやったつもりだったが、眉をひそめ苦笑しただけだった。クマノの手は機械的に描き続けていたが、その背中は絵を見る視線とは矛盾した、無気力な寂しさで小さく丸くなっていた。
 クマノには父親がいなかった。後で知ったことだが、子供の頃に交通事故で亡くなったのだそうだ。家に帰っても母親は夜遅くまで働きに出ているため、二人はよく船橋の街で夕食を食べてから帰った。駅前の安い飲食店で牛丼や具の無いカレーを黙々と食べるクマノを見ていると、隣に座って一緒に食べずにはいられなかった。短い食事を終えると、クマノは周りの華やかなネオンや浮ついた若者たちには目もくれず、足早に帰って行った。何となく息苦しさを感じた。クマノに対してというわけではなく、自分が彼のような生い立ちだったらということを想像したのだった。
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