文字数 6,869文字

 季節は冬を迎え、東京に乾いた風が吹き、午後五時には日が暮れた。街にはクリスマスツリーが飾られ、年末の慌しさが感じられた。しかし、土曜日の午後の神保町はどこかのんびりとしていた。この街は昔から、土曜日の午後と日曜日は、通りを歩く人も疎らになる。書籍の取次ぎが土曜日の午前中で業務を終えるだけではなく、ビジネス街としての神保町の一面に気付かされる。古書が目当ての客も、ここ数年は特に減っているようだった。
 土曜日の朝は寝坊し、ベッドでグズグズとした後、ゆっくりと起きてきてシャワーを浴び、丁寧に歯を磨き、お気に入りの私服に着替えた。いつもスーツでいることに慣れているため、外出用の私服が少ない。ブルー、ベージュ、アイボリーホワイト、薄いピンクなどのジーンズ。冬はカシミヤのセーターを着て、レザーのコートか、カジュアルにダウンジャケットを羽織る。下手に洒落た格好で出かける方が、怪しまれると言うものだ。いつものように朝食はとらず、神保町でブランチをとった後、『Sunflower』に向かった。オザキとは、あの新宿の美術館に行った時以来、二人で食事をしたことは無かった。先生と生徒という関係になってしまったこともある。他の生徒の目も気になる。オザキからしても、公私混同したくないという雰囲気を醸し出していた。ステンドグラスを教えるオザキの表情は真剣そのものだった。
 ハマダはよく、すずらん通りの『キッチン南海』や『ス井ートポーヅ』に行った。キッチン南海のカツカレーもス井―トポーヅの餃子も絶品だった。特にス井―トポーヅの餃子は好みで、他の店の餃子と比べることなどできないくらい好物だった。あの腰のある餃子の皮に包まれた肉餡に、余計なラー油や酢を付けず、生醤油だけをさらっと塗って頬張ると、何とも言えない喜びが湧いてくる。茶で一旦口の中の味を流し、また頬張る。白飯を食い、また頬張ると本当に至福の時が訪れる。キッチン南海のカツカレーも本当に捨て難い。黒い欧風カレーにからっと軽めのカツ。そこに山盛りのキャベツの千切りを乗せていただく。これはもう同時に頬張る以外に無い。きっとオザキも知っている店ではあるが、街の中華屋に入ることができない彼女はまだ一度も食べたことが無いかもしれない。一緒にス井―トポーヅに行き、焼き餃子と水餃子を一つづつ頼んで、瓶ビールを分け合って飲むことを想像した。けれども、なかなか誘う勇気が出なかった。あまりにも近所過ぎて、わざわざメールや電話で誘うのもおかしい。そうかと言って、教室で誘うのも気が引ける。帰りは大抵女性の生徒さんたちに囲まれて教室をでる。女性だけでお茶をして帰る習慣になっているようだった。
 十二月。教室では、『Sunflower』の生徒たちでクリスマス会をやろうという話が持ち上がっていた。土曜日の午後に集まり、教室が終わった後どこかの店に繰り出そうという話だった。
「ハマダさん、どこかよいお店をご存じないですか?」
 コイケサエコという、以前ハマダが教室に入る前に応対してくれた女子大生が尋ねてきた。
「和、洋、中、又は居酒屋、どんな店がよいですか? 幾つか心当たりはありますよ」
「よかった、ではぜひ幹事を引き受けてもらえませんか?」
「いいですけど、人数と予算を教えていただけますか?」
「ええと、女子が二十名、男子がハマダさんを入れて二名です。予算は五千円くらいでお願いします」
「え? 男二人なの? 参ったな」
「別にいいじゃないですか。ハマダさんと平日のクラスのツチヤさんですけど、ハマダさん、女子に人気あるんですよ」
 可愛らしい笑顔で微笑んだ。
「本当ですか? 私はもう、おじさんですから。本気にしちゃいますよ」
 サエコが笑った。
「ハマダさんって、優しそうだけど、人生経験豊富って感じ。みんな素敵ねって言ってます」
 サエコにからかわれているのかもしれないと思ったが、娘程歳の離れた女の子と、たわいも無い話をすることが、案外楽しく感じられていた。
「おだてたって何も出ませんよ。幹事の件は了解。予約は僕に任せて下さい。この時期だから難しいかもしれないけど、土曜日ならどこか押さえられると思うから」
 サエコは手を叩いて喜び、ハマダの肩から腕に触れた。
「お願いします!」
今日はいつものポニーテールではなく長い髪を下ろしていた。去って行くサエコの黒髪が実に美しく、思わず見惚れてしまった。
 クリスマスが近づいた土曜日の午後、教室が終わる少し前あたりから、平日クラスの生徒たちが集まり始め、各々にクリスマスにちなんだランプや小物、窓ガラス用のパネル作品を鑑賞した。この日、ハマダもようやく秋から作り始めたステンドグラスのランプスタンドが完成したところだった。ハマダはクリスマスの一次会を、靖国通り沿いのビアホール『ランチョン』で予約を取っていた。新世界菜館か揚子江飯店の個室も考えたが、年配のご婦人方に、気取ってない、少しワイルドなビアホールでの一次会をと思って、遊び心を込めてしまった。案の定、評判は上々で、男性陣二人以外は、ステンドグラスの話で大盛り上がりだった。ハマダとツチヤさんは二人でコソコソとチョリソーなどをつまみながら、ドイツビールを楽しんでいたが、女性陣は豪快で、名物のオムライスやビーフパイ、チーズの盛り合わせなど好きなものを注文しながら、皆よくビールやワインを飲んでいた。会も終盤に差しかかった頃、コイケサエコがハマダの隣に座った。
「さすがハマダさんですね、歴史が感じられるような良いお店、皆さんとても喜んでますよ。有難うございました。こんなに気軽に美味しいものが食べられるお店が近くにあったなんて、私知りませんでした。よく来られるんですか?」
「たまに、来るよ」
 周りの声に掻き消されて聞き難かったのか、サエコが顔を近づけてきた。髪からリンスの清潔な香りがした。
「コイケさんは大学生なの?」
「ええ、共立です」
「じゃあ、近くだね。友達とランチでもしたらいいのに」
「女子の仲間とはすぐにファミレスや喫茶店に行っちゃうし、一人ではなかなか入れませんよ」
「そんなもんかね、コイケさん幾つ?」
「二十歳です」
「そうかあ、これからだね」
「ハマダさんはお幾つなんですか? 三十二くらい?」
「嬉しいなあ、そんなに若く見える? 四十だよ、四十。コイケさんからしたら、パパと同じくらいなんじゃないかな?」
 サエコがにっこりとした。
「父もそのくらいです」
「サエちゃん? って呼んでも平気かな? サエちゃんさあ、サエちゃんから見て四十の男性って、やっぱりオジサンなわけ? お兄さんとかじゃなくて」
 ハマダも酔っていたが、サエコもかなり飲んでいるようだった。
「オ・ジ・サ・ンですね」
サエコが笑って答えた。
「三十代で、すでにオジサンです」
 ハマダはふざけて、うなだれてみせた。
「でも、ハマダさんは違います。お兄ちゃんにしておきますから」
 目を細めてマダの表情を覗き込んだ。そんなやり取りをしているうちに一次会はお開きとなった。ハマダが代表して会計を済ませ、皆の帰りを見送ると、隣にオザキが立っていた。
「今日は、有難うございました。皆とても楽しそうでした」
「盛り上がってよかったですね」
 オザキが頷いた。
「教室にはもう慣れましたか?」
「そうですね、もう慣れました。先生と今日、色々とお話できるかと楽しみにしていたんですけど、あまり話せませんでしたね」
 オザキが少し考えてから、
「皆も帰りましたし、二人で飲みなおしましょうか」
 ハマダがオザキの目を見た。
「だいぶ酔ってますか? さぼうるで酔い覚ましにコーヒーでも飲んで帰りましょう」
 時計は夜の九時をまわっていた。
 『さぼうる』に移動し、二人でまたビールを飲んだ。ユリには遅くなるとだけ伝えていたが、明日は日曜日だし、少しくらい遅くても構わないだろうと思った。それに、真っ暗な自宅に帰るより、オザキとこうして話している方が幸せだった。
「オザキ先生、今日はずい分と飲んでますが、大丈夫ですか?」
 首筋から仄かな香水のにおいがした。
「先生、はよして下さい。それからオザキさん、というのもちょっと・・・・・・」
「じゃあ、何て?」
 少し間をおいた。
「レイコでいいです」
 酔っているのだろうと思った。
「そろそろ帰りましょうかね。これ以上酔ったら、心配で一人で帰せなくなるから」
 会計を済ませ、足元がふらつくオザキに手を貸した。
「東西線まで送りますよ。自分も九段下から帰りますから」
 オザキは何か考え事でもしているかのように押し黙っていた。何か楽しい話をしようとしたが、キッカケが掴めなかった。
 東西線九段下駅のホームへと続く階段を二人で降りた。オザキはしっかりとハマダの腕に掴まり、ハマダもオザキの腰の辺りを支えていた。体が密着し、香水の香りが脳を刺激した。香水の香りが服に移ることをすでに心配していない自分がいた。髪の匂いを嗅ぎながら、このオザキという美しいが不器用な女性を心の底から愛しく思った。別々の改札を通らねばならない。せめて改札を通るまで見送ろうとした時、オザキがハマダを見上げた。
「これから・・・・・・私の部屋に来ませんか?」
 恥ずかしそうに俯いた。思わず背に手をまわし抱き寄せた。気がつくと、二人で電車に乗っていた。
 東陽町に着き、コンビニエンスストアで飲み物と歯ブラシや必要なものを籠に入れ、一緒に避妊用のコンドームも買った。会計の時に、オザキがそれを見つめていたが何も言わなかった。駅から永代通りを少しだけ木場方面に歩き、木場公園に向かう道への途中のマンションにオザキは住んでいた。部屋は一人暮らしの女性らしいオートロックのワンルームマンションで、白を基調としたシンプルな飾気の無い部屋だった。
「恥ずかしいので、あまり見ないで下さいね」
「綺麗にしているじゃないですか。僕の部屋とは大違いだ」
 ハマダのコートをハンガーにかけた。
「今、グラスを用意しますから、座って待っていて下さい。少し寒いですか?」
 コートを脱いだオザキの膝がスカートから見え隠れして、目のやり場に困った。黒いブーツを脱いだストッキングを履いた脚は艶かしく、薄手のニットに浮かぶ胸、黒く艶やかな髪から女性の色香が漂う。笑顔が本当に魅力的な女だ。体全体で包み込んでしまいたくなる。若い頃だったら、少し強引にでも抱き寄せて、その場でキスをしていたかもしれないが、さすがにそれはできなかった。
「飲んでいるから、大丈夫ですよ。それより・・・・・・」
 とハマダは言いかけてやめた。もうここまで来て、引き返すか否かを相手に委ねてはいけないと思った。オザキは決意して自宅に誘ったに違いない。そんな彼女を失望させるわけにはいかない。ハマダとて、いつかこうなるだろうことは想像できたはずだ。それをわかっていて教室にも通うことにしたのだから。
 オザキがグラスとコンビニエンスストアで買ったカクテルを持って来た。グラスに注いで、二人で乾杯した。
「さっきは驚きました。いきなり名前で呼んでくれなんて」
「ごめんなさい、私もどうしてよいかわからなくて・・・・・・嫌でしたら、前のままでも構いません」
「いいえ、これからは教室では『先生』と呼ばせていただきますが、プライベートでは『レイコさん』と呼びます。ですから、プライベートでは僕のことも名前で呼んでくださいね」
 レイコは『ユウイチさん』と声に出して呼び、顔を紅らめた。
「今日のクリスマス会。本当に楽しかったですね」
 レイコは頷いたが、静かに微笑んだだけだった。
「私、今日、本当はこんな大胆なことするつもりではなかったんです。だけど、クリスマス会であなたがコイケさんと楽しそうに話しているのを見て、心が落ち着かなくなって、あなたを誰かに取られてしまうんじゃないかって急に不安になって」
 俯いたの見て、心の底から愛おしくなり、肩を抱き寄せた。
「そんな心配することないのに」
「情けないわよね、こういうのを嫉妬というんでしょう。まだ付き合っているわけでもないのに、私ったら。でも、ユウイチさんとはもう長く付き合っているかのような錯覚に陥ることがあるの。私たち前世では一緒だったんじゃないかって思える時があって、あなたのことばかり考えてた。初めて会った時からずっと」
 レイコの髪にキスをした。
「僕もそうだよ。ずっと君のことばかり考えてた。寝ても覚めても君のことばかりが思い出されて、僕はもう自分に嘘を突き通せないところまで来ていたんだ」
「嬉しいわ」
 目を閉じたレイコに再びキスをした。初めは軽く唇に触れるだけ。そして徐々に唇を割って、深く交わった。
 時計の針は深夜十二時をまわっていた。自然な流れでユニットバスのシャワーを借りた。その間にレイコは部屋の明かりを落とし、ハマダの着替えを用意し、入れ替わりで自らもシャワーを浴びた。水しぶきの音を聞きながらベッドに横になった。
 しばらくして、バスタオルを身にまとって浴室から出てきた。
「少し待ってて」
 洗面所に戻り、下着を身に着け、ネグリジェ姿で出てきた。立ち上がり、抱き寄せた。化粧を落とした顔もまた、愛おしかった。
「あまり見ないで・・・・・・」
「大丈夫、綺麗だよ」
 ベッドに招き入れた。レイコの額からゆっくりと唇を這わせ髪の香りを嗅ぎ、瞼と鼻にそっと触れるようなキスをした。レイコの裸体は暗がりの中で微かに震え、その胸の鼓動が伝わった。レイコはずっと目を閉じていた。やがて肌の温もりに満足したように、すっと眠りに落ちた。愛らしい彼女の寝顔を見ていると、ずっと抱きしめていたくなる。こんな気持ちになるのは初めてかもしれない。その反面、罪なことをしてしまったのではないかという思いもある。しかし、この愛らしいオザキレイコという女性の存在が今のハマダの全てであり、もはや心から消すことなど不可能だった。もう引き返せない。もう前に進む以外に道は無い。
 朝、カーテンの隙間から洩れる光で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったようだ。隣にレイコの姿は無かった。しかし、キッチンに立って朝食の支度をしているのがわかった。湯を沸かす音がしていた。ハマダが目を覚ましたことに気付くと、
「まだ寝てて下さい」
 明るく少し甲高い声がした。起き上がり、洗面所で身支度を済ませ、彼女が用意してくれた朝食を食べた。あまり帰宅が遅くなってはと思ったが、結局、昼近くまで居てしまった。東陽町の駅まで送ってくれた。もう、会話も必要無かった。何か見えない、繋がった糸のようなものがあり、話さなくても安心していられた。改札口で振り返ると、小さく手を振っていた。
 調布へ戻る帰りの電車の中で、携帯電話を開くと、ユリからの着信が残っていた。すぐに電話を入れるべきか迷ったが、きっと今頃は眠っているだろう。面倒な言い訳をして、電話口で言い合いになるのが嫌だった。メールだけ送った。
「昨夜は酔い潰れて、ツチヤさんの家に泊めてもらったので大丈夫。ユウイチ」
 案の定、返信は無かった。
 自宅に戻ったのは、午後二時を過ぎていた。玄関扉を開けると、珍しくユリが起きて待っていた。
「遅かったわね、心配したわよ。泊まるなら泊まるで連絡くらい入れてよね」
「ごめん、昨日は飲み過ぎた」
「珍しいわね、あなたが酔って外泊するなんて」
 ハマダの無事を見届けると、鏡を見ながら化粧をし始めた。
「悪いんだけど、私、今日もこれから出かけるから、一人で夕飯食べてちょうだい」
「ああ、わかったよ、行っておいで」
 いつも不快な顔するハマダが、自分も外泊してきたという負い目からか、声をかけてくれたことに少し驚いた。いつもなら聞こえない振りをして書斎に引き篭もってしまうというのに。ハマダは外出するのを見届けてから昨日の服を洗濯籠に入れ、熱いシャワーを浴びた。真新しい服に着替え、ベッドで横になった。そして数時間眠った。
 夜八時くらいに目を覚ますと、外はすでに闇が降りていて、書斎のパソコンのモニターランプと携帯メールの着信を知らせる青いランプが点滅していた。携帯電話を確認すると、メールはレイコからだった。
「昨日は本当に有難うございました。もうすぐお正月ですから、私は明日、実家のある久留米に帰省してきます。また来年、最初の土曜日に教室でお待ちしております。オザキレイコ」
 すぐに返信した。
「返信遅れてごめん。うっかり眠ってしまいました。昨夜はまるで夢のようでした。気をつけて久留米に帰省してきて下さい。来年、また会えるのを心待ちにしています。正月休みが恨めしいと思ったのは、恐らく生まれて初めてじゃないかな? ユウイチ」
「P.S あなたからのメールは読んだら消去しなければなりませんが、どうかご容赦下さい」
 メールを携帯電話から消去し、大きな溜息をついた。さっきまで一緒にいたはずなのに、もう心が彼女に会いたがっていた。
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