十三

文字数 3,605文字

 滞在三日目。昨日の美術館巡りで疲れたのか、二人は昼過ぎまで部屋のベッドの上で過ごした。今日はどこにも行かず、ただ二人でこうしていたい気持ちだったが、パリに来てからというもの朝はパンとカフェオレ、昼もクラブサンドとコーヒー、夜も肉とパンなどを食べて過ごしたためか、レイコが、
「お米が食べたい」
 ハマダも実は同じ気持ちだった。
「今日の夜は、外で和食を食べに行こう」
「賛成!」
 レイコがベッドの上で飛び跳ねたものだから、ハマダは危うくベッドから落ちそうになった。
「じゃあ、今日は、半日潰してしまったし、これからショッピングでもして、帰りに日本食レストランに行くことにしよう。ところでレイコは日本食の何が食べたい?」
「そうね、はちまきの天ぷらか、なかやの鰻重よね」
「ばかだねえ、全部、神保町じゃないか」
「そういうユウイチさんは?」
 ハマダが腕を組んだ。
「そうだね、ス井―トポーヅの餃子かエチオピアのチキンカリーが食べたい」
「それ、日本食じゃないから!」
 レイコが声を上げて笑った。
「私たち、一生神保町から離れられないわね」
 ゆっくりと時間が過ぎていた。慌ててどこかに行くこともないし、誰かが来ることもない。ハマダはレイコがパンティー一枚でうろうろするのをぼうっと眺め、お尻を突き出しながら、持ってきた旅行鞄から服を選ぶのを見ていた。レイコは全く化粧をしていなかったが、三十四歳とは思えない、張りのある肌をしていた。それに比べてハマダは四十に声がかかるようになってから、急にお腹の周りに脂肪が付き始めた。かろうじて身長が高かったため、それほど目立ちはしなかったが、明らかに中年太りだった。ハマダはここでもレイコに申し訳ない気持ちになった。ボクサータイプの黒いブリーフしか身に着けていない体をベッドに横たえ、まだ若々しさを保っているレイコを見て急に性欲が湧いてきた。けれども、そこは大人の我慢をして、気を逸らそうとしていたが、レイコの方がそれに気付いて優しく手で慰めてくれた。
「しょうがない人ね」
 レイコの瞳は穏やかだった。下着に手をかけると、
「汚れるから、ダメ」
 伸ばした手を叩いた。
「はい、終わり」
 ハマダの性器を丁寧にティッシュペーパーで拭った。
「男の人って、皆、こうなのかしら?」
「全員がそうとは限らないけど」
「ふうん」
「俺、ユリとは全く夫婦生活が無かったんだ、信じられる?」
 レイコが口を尖らせた。
「さあ、早く買い物に行きましょうよ。とっとと服を着ちゃいなさいな」
「ちょっと待って、すぐに洗ってくる」
 ハマダがバスルームに向かった。
「子供みたいな四十歳ね」
レイコは好きな人とのセックスは嫌ではなかったが、自身としては性欲をあまり感じる方ではなく、どちらかと言うと性にも奥手で、男性任せなところがあった。セックスは無ければ無いで、それで良いし、好きな人に求められたら、断るつもりも無かった。ハマダに対する気持ちは、もちろん男性として好きなのだけれど、それとは別の、もう一つの感情が自分にあることにレイコは気付いていた。ハマダを見ていると、何となく母性がくすぐられた。年上の男性なのだけれど、時々抱きしめてあげたいと思うことがある。言うことを聞いてあげたくもなるし、許してあげたくもなる。レイコは頼りがいのある男性がタイプだと自分で思っていたが、ハマダと付き合い始めてから自分がわからなくなった。でも、今はハマダと一緒にいることが楽しくて、胸が弾んで、彼に全てを捧げたくなる。これが恋なのかなと意識するが、自分もすでに三十の半ばで、恋だの何だのと言っている場合ではないこともわかっている。この恋が『不倫』でなかったならば、自分はハマダと結婚しただろうか? ハマダが実家の父に会いに来ることを想像して、顔が熱くなった。本当にそんな日が来るのだろうか。ユリに対しては、済まないとは思うが、極力考えないことにした。レイコはユリの顔をまだ知らない。一生知らないで済めばよいが、いつかは知らなければならない日が来ることをぼんやりと考えてみる。でも今は、とにかくハマダと一緒にいたかった。
ハマダがバスルームから出てくるなり、
「ブランド物は好き?」
 バスタオルを肩にかけた。
「女の子で嫌いな人は少ないわ、私も例外じゃないけど」
「パリ旅行の記念に、気に入ったブランドバッグ買ってあげるよ」
「本当? いいの?」
「いいよ」
 レイコはこういうハマダも好きだった。ハマダが食事をご馳走してくれたり、旅費を出してくれたりすることを見栄っ張りだと思ったことは一度も無い。下心があるわけでもなく、自慢気なわけでもない。最初は自分を誇示しようとしているのかと思った時もあったが、付き合っていくうちに、ハマダの気持ちにはそういうものは無く、ただ単に、美味しいものを食べさせたい、旅費の負担をかけたくない、そういう純粋なところから発せられていることに気付き始め、益々ハマダのことが好きになった。そういう気持ちが伝わるので、レイコも厚意を無駄にしたくないと考え、申し出を素直に受け入れることにした。ハマダもそれを喜んだ。
「ようし、ブランドショップ巡りだ」
 二人はホテルから比較的近いモンテーニュ大通りに立ち並ぶブランドショップに出かけた。レイコは一軒一軒、丁寧に見てまわり、ハマダの負担になり過ぎず、けれども多少の負担になった方が喜ぶことも知っていたので、その頃合のものを探した。そして、プラダで小さなバッグを買った。感じのよい日本人の店員に、『奥様』と言われたことに気を良くして、喜々としている姿がとても愛らしかった。レイコはそれを大事そうに抱えて店から出てくると、何度も礼を言った。ハマダはハマダで今の自分が、レイコにしてあげられることは、これぐらいしかないだろうと思っていた。夕食まで時間があったので、二人はプランタンまで歩いて、デパートの中で軽くお茶をしたり、小物を見たりして楽しんだ。
「教室のみんなにお土産は?」
「空港でパリのチョコレートかな?」
 いたずらっ子のように舌を出した。
「奥さんに何か買わなくていいの?」
 ハマダが苦笑した。
「買うよ、買いますよ」
 プランタンでディオールの香水を買った。一通り買い物を終え、二人はオペラガルニエ周辺の日本食レストランを探した。漢字で『鰻』の文字が目に入った。
「鰻にしようか」
「賛成!」
「この辺はルーブルに近いから、日本人観光客が多いんだろうな、結構本格的な日本料理の店が多いね」
 二人が店に入ると、日本語で「いらっしゃいませ」と言われて、互いに顔を見合わせた。席に案内され、ハマダはビールを、レイコは白ワインをオーダーした。
「まさか、パリで鰻を食べることになるとはね」
「そうね、でももうパンとコーヒーは飽きたわ。本場のフレンチもいいけど、私は何と言っても、タレのしみた鰻重。実は昨日、鰻重の夢見たのよ」
 ハマダが笑った。
「夢にまで見たの?」
「そう、夢にまで鰻重が出てきたのよ、私ったら」
 レイコが手で顔を覆った。ハマダがメニューをめくった。
「おっと、当店の鰻はフランス産の鰻って書いてるよ」
「あら本当、フランスでも鰻が獲れるのかしらね」
「鰻は鰻でも、水や土地が変わると、身の硬さや臭みなどが変わるんじゃないかな?実に興味深いな」
 二人は鰻重を注文した。鰻を炭火で焼く香ばしいにおいを嗅ぎながら、二人はほんの少しだけ日本酒を飲んだ。
 鰻重が運ばれて来た。二人で同時に食べた。
「美味い!日本の味だ」
 意気がぴったりと合っていた。鰻と飯を頬張りながら、時々肝吸いをすすり、蕪の御新香をぽりっとかじった。二人は目を見合わせ、自分たちの相性の良さに安堵していた。ほろ酔い気分で店を出て、すでに暗くなった辺りを見回すと、飲食店の明かりが煌々として、パリの街並みに温もりを与えていた。
「レイコ、ゴッホの晩年の作品で『夜のカフェテラス』って知ってるだろう。今、それを思い出したよ」
「知ってるわ、好きな作品の一つだけど、カフェの明かりとは対照的に、内面の寂しさと、言い表せない『希望』のようなものが込められているような作品よね」
「そうだね、あの作品って内面の寂しさばかりがクローズアップされるけど、実は僕も君と一緒で、逆のことを考えていたんだよ」
「これは僕の仮説で、何かの解説を読んだことは一切無いんだけど、ゴッホの絵は実は躁鬱の『躁』状態の時に描かれるんじゃないかと思ってね、躁と鬱の間で揺れる、そのアンビバレントなものがゴッホの本質なんじゃないかって」
「わかるような気がする」
 帰り際、日本食街の外れで、赤い提灯と暖簾の店を見つけて近づいてみると、『ラーメン』というカタカナ文字。
「ラーメン屋まである」
「うどん屋も居酒屋もある」
 二人は手を叩いて喜んだ。
「明日の夜と明後日の夜は決まりだね」
 そう言って笑い合った。
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