文字数 1,651文字

 クマノとユミコは時々教室の隅で立ち話をしていた。二人が並んでいると、不釣合いな印象は否めなかった。ユミコは明るく洒落ていたが、クマノの方は疲れ切った顔に垢で汚れた前日と同じシャツを着ていた。登校前に汗をかく仕事をしていることはすぐにわかった。誰も何も言わなかったし、ユミコがそれを庇い、他の女子に何も言わせなかった。初めてユミコを紹介された時も、彼女がクマノの友人であるということだけで軽い衝撃を受けた。クマノは言葉がぎこちない。そっぽを向いて、一言二言話してくれただけだった。
「クマノ君は、昔からそうなのよ」
 旧知の仲を公言し彼を庇うのを見て、内心、嫉妬した。ユミコは同い年であったが、一年浪人しているとはいえ、すでに高校生の青臭さは無かった。垢抜けていて、それでいて清楚さは失っていない。もし、この教室に大勢の男子生徒がいたなら、彼女を放っておかない男が何人もいただろう。それが、男子が少ないというだけで、話し相手がユウイチやクマノだけだなんて、とても申し訳ない気持ちだった。
 クマノがどんなアルバイトをしていたか、話してくれたことは無い。何度か聞いてみたことはあったが、「別にいいだろ」と言って恥ずかしそうにするので、それ以上聞くことができなかった。いつだったか大きなスポーツバッグの中に、紺色の警備員が着ている制服と、ヘルメットが見えたことがあった。すぐに、道路工事で炎天下の中、立ちっ放しで車を誘導する中年男性の姿を想像した。色黒で、皺が深く、しみができて斑な顔に、土埃が汗でこびり付いている。そんな印象だった。現にシャツはいつも土埃と垢で汚れていた。洗濯をする余裕も無いほど忙しいのか、風呂に入る経済的余裕が無いのかわからない。身長が低い分体はがっしりとして見えたが、時々椅子に腰掛けて、じっと休んでいる様子が目についた。毎年春に行われる市内の公園での写生会にも、仕事を理由に参加しなかった。ユウイチとユミコは参加したが、昼間の彼女を見るのはこれが初めてだった。クマノのことはすっかり忘れて、彼女に夢中になっていた。こんな行事でもない限り、夜間に蛍光灯の下でしか彼女を見る事ができなかった。とても新鮮で、いつもはそんなことを考えたことも無かったが、短いスカートから覗く白く透き通るような脚を見た時、思わず彼女の裸体を想像した。思い思いの場所にイーゼルを構える時、彼女を見ていたくて少し距離を置いて構え、遠目に彼女を眺めていた。ユミコがそれに気づいた。
「ハマダ君、どう、いい絵描けた?」
 何の気無しに話しかけてくるが、ユウイチにとっては、目のやり場にも困った。目を合わせることがでず、描きかけの絵を裏返して隠した。それはまるで自分の心を裏返しているようだった。ユミコをずっと眺めていて、筆が進んでいないとは言えなかった。
「いや、全く描けてない、まだ白紙。何描いていいか決まらなくて」
「なら、そんなに離れてないで私の隣においでよ。あそこなら海が見えるから」
 空の向こうを指差した。風に乗って香水の香りが届いた。胸が熱くなるのを覚えた。
 夕方、学院に戻るとクマノが教室で待っていた。二人を見つけ駆け寄った。
「今日、どうだった?」
「天気も良かったし、楽しかったよ」
 ユミコに聞こえるような声で言った。
「楽しかったね、ハマダ君」
クマノは一瞬表情を曇らせたが、すぐに白い歯を覗かせた。
「ああ、俺も行きたかったなぁ」
「お前、ハマダに気があるんじゃない?」
ユウイチは赤面し、ユミコは大笑いしてクマノの背中を平手で叩いた。
「ハマダ君に謝りなさいよ、このバカ!」
 ユミコがユウイチをちらと見た。
 写生会の絵はすぐに講師によって評された。
「君のはどれだい?」
 クマノが聞いた。ユウイチは恥ずかしそうに、教室の端に掛けられた、殆んど着色されていない絵を指差した。クマノはしばらく笑いを堪えていたが、やがて納得したように何度か頷いた。帰り際、並んで歩くクマノの横顔が少し青白いような気がした。一つ二つ咳も出ていた。
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