十六

文字数 1,779文字

 帰国して、レイコとは何事も無く空港の外で手を振って別れたつもりだったが、その夜にレイコに出したメールが返って来なかった。ハマダはレイコが疲れて寝てしまったのだろうと、深く考えていなかった。しばらく互いに仕事も忙しく、連絡を取り合わずにいたが、迎えた土曜日の午後のステンドグラス教室に、ハマダは照れながら顔を出したのに対し、レイコの表情は硬く冴えなかった。体調でも崩しているのではないかと心配したが、どうやらそうではないらしい。レイコのよそよそしい態度はしばらく続いた。ハマダには一つ気になることがあった。
 モンマルトルのサクレ・クール寺院でレイコが言った言葉が気になっていた。彼女は確かに、「恋も、結婚も、そんなのどうでもよくなってきた」と言った。モンマルトルの露店でハマダが学生時代の話をした時、レイコの中で何かが変化したのではないか? ハマダとソノカワユミコが恋愛関係にあったことに傷ついたのだろうか? それとも、クマノという友人を裏切ったハマダに失望したのだろうか? ハマダとレイコは短い期間で早く熱を持ち過ぎた。短期間で互いのことを話し過ぎたのかもしれない。秘密にしておくべきことも、波長が合うが故に、互いに多くを曝け出し過ぎて、少し疲れてしまったのかもしれない。冷却期間が必要だと感じていた。フランス旅行で燃え尽きてしまう関係にはなりたくなかった。
 レイコは迷っていた。ハマダが学生時代のことや、ソノカワユミコとのことを包み隠さず話してくれたことは嬉しかったが、元々淡白な自分には、結婚も恋愛も向いていないのではないかと感じてしまった瞬間があって、ハマダがユリと別れて自分の元に来てくれたとしても、それに応える自信が無かった。ソノカワユミコとの事件は、ハマダとの距離を遠くさせたことは否定できない。身近な存在だったハマダが、どこか遠くへ行ってしまったような気がした。そして何より、ユリのことを考えると、今ここで、自分が身を引くことが一番よいのではないかと考えた。自分がされて嫌なことを自分がしている。ハマダのことは好きであるけれども、その前に人としての自分の姿を考えた。レイコもまた、ハマダとの冷却期間が必要だと思った。
 レイコと連絡をとらない日が続いていたある日、たまたまハマダが仕事で新宿に立ち寄った帰り、ステンドグラス教室で時々一緒になるコイケサエコを見かけた。サエコとはいつぞやの飲み会の席で話して以来、中々話す機会も無かったが、明るく可愛らしい姿は間違いなく彼女だと思った。声をかけようと思ったが、万が一、人違いだったら恥ずかしいし、サエコにしたって、ハマダのような年配の男に声を掛けられたら、嫌な気持ちになるかもしれない。そのまま気付かぬ振りをして、通り過ぎようと思った。すると、サエコの方が気がついて声を掛けてきた。
「ハマダさん?」
「ああ、サエちゃん?」
 少しわざとらしかったかなと思ったが、サエコは音楽を聴くためのイヤホンを片方耳から外した。
「こんなところで何してるんですかぁ?」
 ハマダは慌ててネクタイを指差した。
「仕事、仕事」
「サエちゃんこそ、新宿で何してんの? さては、彼氏と待ち合わせかな?」
 サエコは手を振りながら、目を細めた。
「ヨドバシカメラでお買い物です。それに私、彼氏いません」
 サエコは長い髪を後ろで束ね、少し大きめのマスカラを付けた目を大きく開いて、ハマダを見ていた。若々しい、爽やかな香りがした。短いスカートから太腿が露に見え、張りのある、透き通った肌が印象的だった。ハマダは年甲斐も無く赤面してしまった。その心の乱れをごまかそうとして、他に話題を探したが見つからなかった。
「まだ仕事が残っているから、これで失礼するね」
「お仕事大変ですね、頑張って下さい」
 ハマダはその場をすぐに立ち去ったが、掌に汗をかいていた。顔は熱を帯びていた。まさか、父と娘ほどの年齢差のある女の子に対して、これほど自分がうろたえるとは思ってもみなかった。以前、ステンドグラス教室のクリスマス会の時に、積極的に話しかけてきてくれたのを思い出した。あの時は全く気にも留めていなかったが、今、こうして偶然街中で会って、父性をくすぐるような気持ちに戸惑っていた。ハマダは首を大きく横に振った。
「有り得ない・・・・・・悪い冗談はよしてくれよ」
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