第9話 破門

文字数 4,129文字

「せっかくあの厄介なニセエンジュの木が焼けて少なくなったんだしこの機を逃さずにもう少し切って他の木を植えてしまったらどうなんだろう。神話の昔のような、木々の実がたわわに実る豊饒の土地に戻すために」
 焼け焦げてぼこぼこと地肌が見える扇状地と周囲の山々を見ながら麗射が首をかしげる。ニセエンジュは火に強いのか、あれだけの山火事にもかかわらずけっこうな割合で焼け残っていた。 
 炎によってニセエンジュの危機感が惹起されたのか、しばらくは谷風の時には遺体の回収や埋葬をする麗射達まで目が痛くなったほどである。
「は? 冗談ではありません。焼けた所にはまた山からニセエンジュを移植して来なくては」
 清那は目をぱちぱちさせながら、眉をひそめた。
「煉州軍も今はなぜ負けたかわからないでしょう。しかし生存者たちの話や言い伝えから早晩あのニセエンジュにたどり着くのは想像に難くありません。この場所は南部につながる要害です。この世に戦があるかぎり、ニセエンジュに守って貰わないといけないのです」
「豊饒の地は未だ遠く、か。さみしいことだな」
 麗射は肩をすくめた。
「それはそうと、夜になぜ風が止っていたんだ」
 麗射は竹筒から水を飲みながら首をかしげる。
「そういえば、お前と山中で止った晩も麓は凍えるほど寒くてそして無風だった。そうだ、あの時は奇妙なことに上の方が温かかった。普通山は上にに登れば登るほど寒いもんだろう。もしかして関係があるのか?」
 清那はにっこり微笑んだ。
「ええ、ご明察です。覚えていますか、一緒に山に登った朝、麓で見えた霧を」
「ああ、まるで空の上から蓋をしたように霞が一直線の境界をつくっていた――」
「逆転層、といいます。良く晴れた秋から冬の夕方から夜に起る現象です」
「そう言えば、秋の夕方に焚き火の煙があんなになったのを見たことがある。それにしたってなぜそんなことが……」
「冷たい空気や水は重くなって下にさがります。なんとなくわかりますか?」
「薪をくべて風呂を沸かしたときに手を付けて温かいからって入ったら下が冷たかった、それと同じだな」
「ええ」清那が嬉しそうに微笑む。この人には知識は無いかもしれないが、物事の実際に即して理解する力がある。
「仮説ですが、夜に山の斜面を冷え切った空気が滑り落ちてくるのです。そして扇状地の端っこのあの窪地になった地形にたまる。空気がなくなった所には上空から空気が降りてきて――」
 清那は自分の両手を重ねるとぐっと押す。
「空気が重なり合うことで上方があたたかくなるのです。そして上空にはあたたかい空気の層、そして地上は冷気の層ができて風がなくなります」
「その空気の間を突っ切れないで煙が横にたなびいたわけか」
 風がなくなり、動かない空気の中でニセエンジュの作り出す警戒を示す気体が充満した。
濃度が上がった気体は、夜の神がもたらす禍、となって炎と毒が煉州軍を襲ったのである。

 二神座の戦いでは、煉州軍1万8千人の人的損害に対し、叡州・波州連合軍は1人の死者も出さなかった。現実的な戦闘は行われなかったにも関わらず、この圧倒的な勝利は叡州南部の人々の士気をあげた。そして、知らせを受けた叡州の元首都である珠林に隣接する江間(こうかん)に置かれた煉州軍作戦本部には激震が走った。
 この敗北は叡州南部への侵攻が地形的に厳しいということを首脳陣に知らしめただけではなく、冬に向かうこの時期、一番期待していた叡州南部の食料が手に入らないことを意味していた。食料の欠乏は民の反乱を惹起することは想像に難くない。それは叡州の占領地ばかりではなく、軍やお膝元の煉州の民も例外ではなかった。しばらく斬常はまた叡州と煉州の統治に力を注がねばならない状況に陥っている。
 二神座の戦いでの敗戦は、煉州軍の他国への侵攻をしばらくの間思いとどまらせることになったのである。                                                

「それはそうと、よくまあ、君はこんなことを思いつくな」
 侵攻が止ったとの情報に、叡州、波州の合同軍もほっと安堵のため息をついている。
「故国と言っても、初めて来た場所だろう。なんでこんな作戦を立てられるんだ」
 清那の入れた半発酵茶を飲みながら麗射が首をかしげる。
「これを思いついたのは私ではありません」
 こともなげに言う清那に、麗射は思わずお茶をむせる。
「はあ? 君以外にこんな――」
「実は、この作戦は私の独自のものではありません。もともとは以前、我が祖父に師事していた波州海軍の軍人が考えたものなのです。そうそう、今回の火薬入りの弾丸はその乱鳳(らんほう)が海路で運んできてくれたものですよ」
 清那は、初めてあの男と会ったときのことを思いだしていた。
 ひょろりと背の高い波州なまりの強い海軍士官候補生が、清那の祖父の主催する戦術塾に参加したのは、塾が開かれてからすでに半年経った後であった。なんでも道に迷ったとのことであったが、時間厳守を旨とする清那の祖父は激怒しその男を追い払おうとした。しかしいくつかの質問の後、いかにもひょろ長いだけのでくの棒といったたたずまいの男の頭のキレが神域だということに気がつき、特例で参加を許したのである。
「乱鳳は、祖父が課題を出しても提出はいつも次の課題が出された後。その上、その金釘流の文字は読みにくいことこの上なし。祖父は表題を一瞥しただけで、いつも提出物の山に放り投げていました」
 清那は苦笑する。
「でも、私は覚えています」
 銀色の髪の青年は、遠い目を彼方にさまよわせた。
「捨てようとして、乱鳳の立案した戦術を読んだ祖父のこめかみが震えたことを」
 清那の目にはかすかな羨望の色が混じっていた。
「ある日祖父は弟子たちに叡州のどこでも良いから局地戦を想定して敵を倒す計画を立案してこいと課題を出しました。期限は一ヶ月。皆が慌てて教場を出て行った後、一人残った者がいました」
「乱鳳、か?」
「ええ。彼は教場の入り口に掲げられた古地図をじっと眺めていたのです。掲げられていてもこれまで誰も見ようとしなかった古地図を、何日も、何日も丹念に。そしておもむろに教場を出てから姿が見えなくなりました」
「彼が目を付けたのはここで、あの禍々しい地名に気がついた、ということか」
「ええ、ご丁寧に彼は二月もここに逗留し、毎日の山の温度を肌で確かめたり、古老の言い伝えを集めたり、ニセエンジュを採取してみたり。そしてあの逆転層とニセエンジュの仮説を立てたのです。彼は後日言っていました。過去の地名はその土地の禍の記憶を内包している、それを知ることは戦術を立てる上に重要な事だと」
「君のお祖父様は驚かれたろう」
「それが」清那は首をすくめる。「彼がひょっこり帰ってきたのは期限から1ヶ月も過ぎたある日。全員での作戦評価、討論はすでに終わって次の課題に入った頃でした。祖父は、乱鳳の提出した報告書を読み、二、三、の討論をした後」
 麗射がごくりと唾を飲み込む。
「一喝して破門を告げました。提出期限を守らないような人間には、教えることはない。と」
 正論だが、期待していた結末とは違った麗射は不満げに眉をひそめる。
「でも、古地図の地名から推理して導き出したすごい戦術じゃないか。現に、彼のおかげで俺たちは助かった」
 寂しげに清那がつぶやく。
「ええ、もちろん祖父はそれがわかっていました。実のところ、祖父は彼を恐れたのです。このまま祖父の知識をすべて彼に与えたら、戦争はしていないと言っても、彼は隣国である波州の人間です。いつか、彼が敵に回ることになった場合」清那は一瞬言葉を切る。
「大きな禍となるでしょう」
「ま、波州と叡州が同盟国で良かったよ。もし奴が敵に回られちゃあ、たまったもんじゃないからな」
 麗射は大きく伸びをして、久しぶりの大あくびをした。




★★★★★★★★★
 以下、主に参考にした資料など。
 事実とは、作中かなりこぎ着けたり、歪めたところもありますので、ヒントにした文献くらいに考えてください。以下敬称略。

○研究者に聞く!!環境儀 No.40国立環境研究所 (nies.go.jp)
 植物についての “VOC”(Volatile Organic Compounds)はここで初めて知りました。
「夏の日の田園地帯で見られるブルーヘイズ(青い靄)が植物の葉から放出されるVOC(主にテルペン類*)の反応によってできる微小粒子ではないか」(引用)の部分にびっくり。光の屈折かなんかの影響とか単なる比喩と思ってました。分け入つても分け入つても青い山……って本当に見えてたの!?
 植物からイソプレンが出るなんてびっくり。日中に多く産出されるようです。ニセエンジュ(新種の植物設定です)から発生する気体はイソプレンをヒントにしましたが、上記の理由で傷つけられたときに昼夜問わずに出す引火性のある新有毒物質と設定しました。

○植物からのイソプレンとモノテルペンの放出 植物環境研究室 (u-shizuoka-ken.ac.jp)
 植物の葉の温度があがるとイソプレンの放出が上がるようです。

○イソプレン - Wikipedia
「イソプレンは多くの種の木によって生産され、大気中に放出される(主な生産者はオーク、ポプラ、ユーカリ、一部のマメ科植物)」(引用)

○KASEAA 56(2) 95-103 (jst.go.jp)「植物が香り化合物を出す仕組み,吸う仕組み単純拡散では説明がつかない」(著者 松井健二)
 面白い論文でした。論文中の「香り化合物を吸う仕組み」のところで「ユーカリの木の近くで栽培したブドウ」の例が載っていてとても興味深かったです。

○山谷風の基礎 - 計算気象予報士の「知のテーパ」 (goo.ne.jp)
山谷風の基本がよくわかりました。

○対流圏における大気汚染物質、逆転層とは? (kusuri-new.link)
逆転層について学ばせていただきました。地形的逆転を参考にしました。

○pdf (jst.go.jp)八ヶ岳南麓における高標高気温逆転現象 (著者:田中博春)
今回想定した逆転層とは違いますが、斜面温暖帯など論文を読んでいていろいろ学ばせていただきました。


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