第7話 二神座の戦い(上)

文字数 2,959文字

 半月と予測していたが、敵軍の侵攻は予測より早かった。昨日密偵から煉州軍が二神座の先にそびえる山地の間の道を行軍し始めたと情報が告げられている。
 朝から麓に広がる低山の山頂から、玲斗と雷蛇は遠くにそびえる青くけぶる山々を見ていた。空には雲一つ無い。昨日、西の空を見た清那が予言したとおりの快晴であった。
「もうそろそろおいでの頃だな」
 雷蛇はその驚異的な視力で扇状地の頂点を見ている。もちろん茂ったニセエンジュのため地上を行く軍隊は見えないが、大軍が通れば草木に不自然な揺れが現われることだろう。
「しかし、お前も物好きな奴だ。私は家族の(かたき)や、武人としての生き様を貫くためにここに居るが、お前など何も守るものが無かろう。私たちに任せてここから去ってもいいんだぞ」
 玲斗の言葉に雷蛇が鼻を鳴らす。
「戦闘になったら腰抜けへっぴり腰のお前さんに任せていたら、勝てる戦も勝てねえからな」
「今までは筆をもって絵を極めていたが、ここ一年は剣の修行にいそしんでいる。我が父剴斗(がいと)も認めた私の腕前を見るがいい」
 認めた、と言っても今際(いまわ)の際の一言であるが、玲斗はその一言を後生大事に胸にしまっていた。しかし、玲斗の剣の腕を知っている部下達はそっと顔を見合わせる。
「俺たちで、煉州の大軍を押し返してみせようぜ」
 雷蛇は呵々大笑した。だが、彼らの後ろに控える軍勢は数百人足らずだ。
 人のいい麗射が前線の戦闘を無理強いはしないと宣言したところ、皆尻込みして結局志願したのはこの二人だけであった。幸い彼らが連れているのは以前からの強い絆で結ばれた部下達とその知己で、近隣からほぼ無理矢理集められた兵士達とは士気が違っている。
 その前を通り過ぎたのは、黒い麻の頭巾を深く被った小柄な二人組であった。一人は鉈を、もう一人は細い麻紐の束を持っていた。
「おおい、ノズエ、コウブ」雷蛇が手を振って声をかける。
 めんどくさそうにチラリと山の上を見上げると、二人はのろのろと近づいてきた。波州で奇併(きへい)縁筆(えんぴつ)は麗射軍を離れたが、尖った耳と大きな黒目を持つこの異形の二人組はなんとなく軍に付いてきたのである。しかし、闇の中を見通す彼らの目は、まぶしい日の光には適応していなかった。ほぼ昼夜逆転の生活をしており、彼らが麗射軍の人々の目に触れることは通常無い。
「ハヤク、ヨウケン、イエ」独特の発音でノズエが言う。一刻も早く闇の中に戻りたいのか、不満がありありとにじみ出ている。
「いや、挨拶だよ、挨拶」困った表情で雷蛇が首をかしげた。「ちぇっ、これだから常識のない奴ってえのは困るよな」
「お前が言える台詞かよ」小声で玲斗が言うが、幸い雷蛇には聞こえていなかったようだ。
「夜のうちに木の間に綱を張ってきたのか? ご苦労様だな、食え」
 雷蛇は太い革帯の横に結びつけたずだ袋に手を突っ込むと、大きな手一杯にあめ玉を握って取りだし、二人にわたした。
「イタダク」二人はあいている手であめを受け、頭の上に掲げると礼をして去って行く。
「あいつら、手が擦り傷だらけだったな」玲斗が後ろ姿を見ながら首をかしげた。彼らの背中には山の中で付いたと思われるニセエンジュのマメや、枝が沢山引っかかっていた。


「麗射達は扇状地の向こうの低山を越えた辺りに陣を構えているようですな」
 遠眼鏡で麗射軍のと思しき薄い煙が立ち上るのを見て、剴光はほくそ笑んだ。軍勢を山越えさせるのには時間を費やしたが、幸い山と山の間の道は狭くはなく、軍勢は難なく通過していた。
 眼下に扇頂を見下ろし、虎炎が剴光を振り返る。扇状地は垂れ下がった枝を大きく四方に伸ばした木で埋め尽くされていた。
「枝垂れエンジュの木か? まるで森のようだ。そのなかに敵の軍勢が潜んでいる、という事はないのか」
「奴らはせいぜい二千人。すべてが潜んでいてもこちらの十分の一でしかありません。枝葉が広いということは下の空間は開いていると言うこと、造作も無く押し切れましょう」
 副官は顔の前でひらひらと手を振った。
「今日は山越えで軍勢も疲れているだろう。応援が来たとしてもせいぜい五千だ。ゆっくり麓の沼の辺りに陣を設営して、今夜は鋭気を養ってから明日一気に攻め込むとするか」
「流石のご慧眼、感服いたします」
 剴光が頭を下げたその時、戸を叩く音と共に、透き通った赤紫色の瞳の青年が入ってきた。
「報告いたします。偵察隊を出しましたが、森の中に忍んだ遊撃隊はおりません。しかし、麓に近づくと木と木の間に縦横無尽に綱が張り巡らされており、それを切断しながら進むのは手間が掛かりそうです。偵察隊がいくつか縄を切っていますが、木を傷つけてしまった時に軽い喉の痛みや目の痛みを訴える者がおりました」
 菫玲が報告する。
「ウルシでも切ったんじゃないか」
 剴光が肩をすくめる。
「ウルシは皮膚がかぶれますが、そうではなくて、喉が――」
「うるさいな、この息切れの役立たず。お前はいちいち目障りだ」
 剴光は菫玲の、人を馬鹿にしたような冷ややかな目つきが嫌いだった。いや、そう感じるのは剴光が一方的に妙な引け目を感じていたからかもしれない。この青年は自分とは違い、いつも忖度のない核心を突いた報告を上げていた。
「さっさと行け」
 青年はわずかに片眉をあげた後に一礼して去って行った。


「進軍してきます」
 走耳が前線に来ている清那と麗射に告げる。主力軍が動き出したのを見て清那は全身灰色の兵士の服装に着替え、目立たないようにマントに付いた大きな頭巾で頭を覆って麗射の横に立つ。
 脅す目的だろうか、軍勢は銅鑼や太鼓で大音量を立てながら扇状地を下ってくる。
 しかし、大所帯である。ニセエンジュの垂れた枝に行く手を遮られるのか、進軍速度は遅かった。
 清那は空を見上げる。快晴。
 ニセエンジュの森を蹂躙した煉州軍はつつがなく麓に到達した。二万五千の兵達が扇状地のあちこちで木が切り倒して陣地を作っていく。
「兄貴よお、本当に来るのかい夜の神ってのはよお」
 眼前に見える敵軍の多さにさすがの雷蛇も武者震いが止らなかった。


「ええい、進みが遅いぞ。邪魔な枝は取り払え」
 部隊長たちの檄で、先頭を立つ兵達は、大鉈を振るって邪魔な枝を切り落とす。目の前に垂れ下がった枝からは針が出ており、揺れると兵士の目を突いた。そのため、少しでも危なそうな枝は情け容赦なく切り落とされた。
 午後になって、麓から山の上に風が吹きつける。木と木の間を風が吹き抜けていき風通しがよいためか喉の痛みを訴える者は少数であった。それも、強い風が吹くとすぐに軽くなっている。
「あの報告者め、大仰に言っていたがたいしたことは無いらしいな」
 虎炎は扇頂から進軍していく自軍を満足げに見ている。敵は怖じ気づいたのか今のところ抵抗はなく、進み放題といった様子であった。
「あの者は、元々霧亜殿の軍からこちらに出向していた者です。仕事はできますが、変にこちらの情報を伝えられて手柄をかすめ取られてもつまらないので、元の所に追い返してやりましたよ」
 常に冷静なあの透き通った赤紫色を思い出して、剴光は唾を吐いた。あの態度を見ていると、まるで自分が軽蔑されているような感覚に陥る。確固たる行動様式を持つ菫玲の心に、そんな煩わしい感情が入る隙はないのであるが。

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