第8話 二神座の戦い(下)

文字数 3,324文字

「清那様、波州からの荷が届きました」
 伝令が駆け寄ってくる。
「間に合いましたか」清那がうなずいた。「火薬の入った弾丸を運ぶという危険な任務ですから請け負っていただけるとは思っていませんでしたが。これがあれば、心強い」
 伝令から受け取った搬送受領書に署名をした清那は、運搬した船の船長の名前を見ると微笑んだ。
「思ったより侵攻が早かったのに、予測していたのでしょうか。ギリギリの所を間に合わせてくるのは、流石ですね」
 波州には援軍も要請していたが、波州としては義理を立てる程度の意味しか無い派兵である。厄介払いしたい麗射達の一団以外には出す気は毛頭無いらしかった。だが、あの皇帝が武器を送ってくれるだけでもよしとしなければなるまい。
 荷物を通すために邪魔な木や綱を切るのに手間取ったのか、煉州軍が麓に付いたのは夕方だった。薄暮の中、眼下ではニセエンジュが伐採されて、みるみるうちに陣地ができていく。水の豊富なこの場所に煉州軍は足場を造り、明日は一気にこの低山を越えて攻め込んでくる魂胆だろう。
「頼む、夜の神、昼の神」
 清那は祈るようにつぶやいた。


 ひるんだのか、姿を現わさない敵を前に、煉州軍はおおいに気勢を上げていた。ただ、いかんせん大軍である、末端の兵の多くは夜遅くまで木を切って思い思いの寝床を作っていた。不思議なことに、深い山に囲まれているにもかかわらず、ここでは鳥の声も聞こえず、獣の姿も無かった。
「前祝いだ」
 虎炎の指示で樽酒が開けられる。この指揮官は山越えが無事にすんだ時点で、この戦いの最大の難所はすんだと考えていた。叡州の寄せ集め軍は縄を張り巡らして足止めをするぐらいしか手がなかった様だ。ここで一晩英気を養ってから、次の戦闘に向かおうと考えている。
「日が落ちると冷えてきましたな」
 剴光が両手を交叉させて肩をさすりながらやってきた。
「焚き火を増やしたいのですが、このエンジュらしき木の煙は青いマメのような匂いが強くて閉口します」
「しかたあるまい、これもまた野趣よ。嫌なら焚き火を消してテントの中でしっかり着込んで寝ろ」
 乾燥肉をかじりながら、もう一方の手で杯を握って虎炎は酒をあおった。
「酒は温まるぞ、明日になればあの低い丘を越えて一気に集落まで陥れる。そうすれば、酒も食い物も充分に補充できるはずだ。もちろん、女もな」
 そういうと、虎炎は咳き込んだ。先ほどからなんだが喉がいがらっぽい。
「代わる代わる皆身体を休めろ。敵が動き出したら、すぐ反撃できるように二千人程度は臨戦態勢をとらせておけ」
「はっ」副官は各部署に手配するべくテントを出て行った。
 天上には幾千万の星がきらめいている。明日の勝利を祝うかのようだ、と剴光はニヤリと微笑んだ。
 夜も更けて。
 焚き火のパチパチとはぜる音が次第に強くなってきた。テントの外に寝ている兵士達が、次第に苦しげに咳をしはじめ、次々に目を覚まし始める。同時に木々の下から鋭い叫び声が響き、各所から炎が上がり始めた
 何が起ったかと跳ね起きて目を見開いた兵士達は、目に激痛を感じて慌てて閉じる。彼らの目からあふれた涙がぼとぼとと地上をぬらした。
「何が起っている、火を付けろ」
 命を受けて火打ち石を擦った兵士の服に火が引火する。いや、そればかりではない。毛皮を着込んだ者達はいきなり発火して火だるまになった。何が起っているのかわからずに人々は走り回るが、喉に空気を吸い込むたびに、胸全体を突き刺すように激しい痛みが広がる。
 明らかに、空気が重たい。
 瞬く間に火に包まれた軍勢。火が木に燃え移るとさらに兵士達の呼吸が苦しくなった。
 目の前の惨状に、虎炎と剴光は立ちすくむ。
「何が起ったのだ」
 そこは、地獄だった。人々は業火に巻かれながら、立ち上がれもせずに這い回る。沼に飛び込む者もいるが、水面から顔を出して息を何回か大きく吸い込むと悶絶して沈んでいった。
 テントの外に出た二人も、程なく人々の呼吸苦を実感した。目も開けられず、息もできない。大将と副官も膝を突いて、倒れ伏した。しかし、すでに駆け寄る者もいない。
「か、風よ、吹け」
 頬を大地に付け、うめくように虎炎がつぶやく。地面すれすれにはまだわずかに清浄な空気が残っていた。
 しかし、願いもむなしく風はぴたりと止っている。日中のような風が吹けばこの胸を刺す空気も追い払われるのだろうが、大気は重くじっと彼らの上にのしかかっていた。
 焚き火の煙がまっすぐに立ち上る。
 しかし、その煙は上空のある地点に到達すると、真横にたなびいてそれ以上は上っていかなかった。それはまるで中空に見えない天井ができたかのような光景であった。


「始まりましたね。夜の神が目覚めたようです」
「ほ、本当におられるのか、神が……」
 扇状地の端で次々に炎が広がっていく様子に麗射は息をのむ。
「さあ、おいでになるのかもしれませんが、この現象はニセエンジュたちの会話によるものだと推測されています」
「かい、わ?」呆然としながら麗射が聞き返す。
「植物は、先日お話ししたように気体を出したり、吸い込んだりして会話するのではないかと言われています。このニセエンジュは普段よく見かけるエンジュとは違い、その排出量が抜きん出ているのでしょう。古地図の地名にも残っていますが、この気体のせいで、扇状地にあった集落の者が病にかかったり、周囲の山が焼けてしまったという言い伝えがあります。また、動物たちが居着かないのはこのニセエンジュの出す気体のせいだと言われています」
「しかし、私たちは一夜を過ごしたがどうもなかった――」
「木を傷つけないように注意していましたからね。木を傷つけると、禍の神がやってくると言われていますから、きっと危機を仲間に知らせるニセエンジュからの気体が多量に排出されるのでしょう。そして、その気体には毒性や、火が付きやすい特性があると思われます」
 毛皮製品は時々こすれると火花が飛ぶことがある。麗射は清那が頑なに毛糸や毛皮の服を着ることを禁止していたのを思い出した。
「だが、煉州軍もあれだけの軍勢が通ってくるときにけっこうニセエンジュを伐採していたが、特に何もおこらなかった」
「日中は山に向かってけっこう強い風が吹きます。そのせいで気体が薄められたのでしょう」
 清那は火の海となりつつある麓を見る。
「届いた大砲で火と暗闇の境界に砲弾をまんべんなく降らしてください、と美蓮に伝えてください」
「はっ」
 伝令がすでに準備を終えている美蓮の砲撃隊に向かって走る。
 程なく砲弾が降りだし、さらに火勢が強くなった。だが、その炎は明らかに砲弾だけが起こした炎ではなかった。
 満足げに清那がうなずく。
「これは爆薬の入った砲弾ですが、さすが美蓮の実家、蓮工房の製品です。確実性がありますね」
 本当は戦が嫌いな美蓮の複雑な表情を思い浮かべて、麗射はうつむいた。


 日が昇り今度は山のほうに風が吹き始める。
 扇状地にはまだ激しい火が燃えさかっていた。まるで炎は煉州軍を掃討するかのように、扇状地から周囲の山々、扇端に燃え上がっていく。
「ちぇっ、炎に手柄を持って行かれちまったぜ」
 低山の頂上から敵の陣地が焼けるのを見守っているだけの雷蛇は、両手を頭の後ろで組んで悪態をつく。
「日が昇ったというのに、夜の神はまだ居座っているのか?」
「いいえ」
 玲斗の問いに答えたのは、背後から低山を登ってきた清那だった。彼も一晩中眠らずに火災の状況を見ていたのか、目の下に隈を作っている。
「これは昼の神のお仕事です。植物は日に当たると呼吸を楽にしてくれる気体を吐くのです。そしてその気体はものが燃えるのを助ける働きがある。実際に私たちが山を登ったときにとても息が楽でした。このニセエンジュはかなりその気体を沢山吐くようです。そして今度は谷から上に吹き上げる風がさらに火を広げてくれています」
 清那は一瞬言葉を切った後につぶやいた。
「生き残りは三分の一もいないでしょう、おそらく元気な者は数えるほどしか」
 清那の顔には笑みはない。おそらく今から麓に行って直面するのは、苦悶の形相で息絶えている幾千もの骸に他ならないからである。
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