第2話 扇状地

文字数 2,396文字

 翌朝、麗射を起こしたのは鼻腔をくすぐる甘い茶の香りだった。これは昨夜とは違うしっかりと発酵させた茶色の葉のお茶で、えぐみが少なく砂糖に良く合った。甘みを好まない清那も、このお茶を飲むときだけは少量の砂糖や干した果物を入れる。前線には優先的に慰問の嗜好品が届けられており、先日その一つとして平時でも貴重品の砂糖が手に入ってからは、清那は朝に紅色の発酵茶を入れることが多かった。
「なあ、昨日のことなんだが」
 紅色の茶を白い椀につぐ清那に、ボサボサ頭で床から出てきた麗射が話しかけた。一瞬、身を固くする清那だが、わざとすました顔で麗射を振り向く。
「怒っていませんよ、敵を欺くための作戦ですから」
「は? 俺はお前に昨日の軍議の内容まで話していたっけ。どうも煉州の大軍がこちらに向かっているようなんだ」
 昨日の狼藉の件などすでに頭にはないらしい。晒した媚態を忘れてくれた事にほっとすると同時に、それだけのことだったのかと清那の心に小さな亀裂が入る。
 同居人の微妙な表情など気にすることなく、ぼりぼりと顎を掻きながら、だらしなく着崩れた夜着を引きずるようにして麗射はテーブルのある場所にやってきた。当たり前の様に椀に入れられた茶を取ると、眉をひそめる清那の顔などどこ吹く風で茶色い砂糖の塊を匙にてんこ盛りにして投入する。
 これがあの将来を嘱望された芸術家の姿か。茶の繊細な味を楽しもうともしない余りにもがさつな所作に、清那はため息をつく。
 がしゃがしゃと匙でかき混ぜながら、麗射はぼそりとつぶやいた。
「渦に流されながら為す術もなく溶けていく砂糖を見ていると、なんだが気がついたらこんなところに来て戦っている自分に重ねてしまうな」
 こけた頬と、目の下の隈。痩せているのは学院での防衛戦も同じだったが、あの時の彼の瞳はもっと強い光を放っていた。今の彼の目はどんよりと濁っている。
「一つ一つ結晶は形が違うのに、溶けてみれば同じようにぐるぐると回っている」
 麗射は小さなため息をついた。
「すまないな、清那。巻き込んでしまって」
「ご心配なく、あなたに付いてきているのは、皆あなたと運命をともにしたかった者ばかりです」
 万事に執着の無いあの走耳が、頼まれもしないのに従軍している。美蓮も、そして勇儀も、雷蛇も――、そして彼を執拗におとしめようとしていたあの玲斗までもが。
「それよりも、大軍がこちらに向かっているとの情報は本当なのですか?」
「確証はないのだが、各地に忍ばせている内通者の報告をつなぎ合わせるとほぼ間違いはないだろう。下手をすると我が軍の五倍の勢力と戦わねばならないかもしれない」
 麗射が傍らの清那の方を向くと、すでに彼は地図を広げ紅茶が冷めるのもいとわずに一心に虫眼鏡で地図の小さい字を眺めている。
 叡州の残党と波州義勇軍は、銀嶺山脈から連なる山脈の南側である向山(こうざん)という平地に陣を敷いている。珠林(じゅりん)を攻め落とした煉州軍だが、叡州南部と中部を隔てる山脈と大河を越えての侵攻は難しく、叡州の中でも局地的な反攻が行われていることもあってここ一年ほどは南下してこなかった。だが、反攻勢力の押さえ込みにも成功しつつある今、戦力を整えいよいよ本格的に南部に攻め入ってこようとしているらしい。
 三州きっての高さを誇る銀嶺山脈から流れ出す水量は、他の二州に流れる河とは比べものにならないほど多い。乾燥しやすい暑い地域にあって、この圧倒的な水量は天からの賜物以外の何物でも無かった。網目のように河が走る南部は特に農業が盛んで、叡州の食料庫としての役割を果たしている。食べるものに不自由しない土壌は、そこにすむ人々の(かど)をとり、柔和で争いを好まないおだやかな風土を育んできた。
 麗射達が陣を敷いている南部の川縁に位置する向山の食料もまた潤沢で、兵士達の意気も高い。と、言ってもほんの数年前までは何不自由なく円熟した文化を花開かせていた土地柄である。人生を楽しむことを謳歌していた人々の中には、侵攻を受けているといった現実を未だ受け止めきれない者も多く、自暴自棄になったり正気を失う者も少なくなかった。南部から西部にかけての一帯から徴兵された兵の多いこの軍にあって、一旦戦端が開かれればどれだけの兵士達が命をかけて戦えるかは正直未知数である。
「私は珠林ばかりにいて、波州に近い南部の地形は詳しいというほどではありません。ですが、全く知見が無い訳でもないのです。この辺りには山脈や大河が多く、攻める道筋は限られています、例えば――」
 清那は二つの山に囲まれ、山の中腹から下方にかけて扇の様に広がった場所を指さした。
「今は涸れ河になっていますが、山と山に挟まれたこの扇状地は上流から流れて来た河が土砂を堆積することによってできたと言われています」
「河はどこに行ったんだ」
「河が持ってきた土砂は荒い(れき)が多いので、水は地下に潜ってしまったようです。何しろ水はけの良い土地なので」
 清那は椀に入った(すもも)を匙ですくい上げる。
「別な場所ですが、この李も扇状地でとれたものです。水はけは良いため水分が過剰にならず果実の甘みが増すのです」
 そのまま清那は李を口に入れると、本題に入る前に一口茶を飲んで喉を潤す。
「ここは山と山に囲まれて幾分狭い路になっていますが、浸食が強かったのかある程度の軍であれば戦力を削ぐこと無く通過することができ、扇状に開いた地形に大軍が展開しやすい場所です。多分敵もここに目を付けていることでしょう」
「まずいな。隘路で待ち伏せという訳にはいかないわけか」
 敵の戦力をこの山と山に挟まれた路で削いでも、圧倒的な兵力差の前には時間稼ぎにしかならないだろう。
「でも、これを見てください」
 虫眼鏡で拡大された地図には小さく「二神座(ふたがみのざ)」と書かれてあった。


「青銀の風」「紺碧の波」に載せた地図と比べ叡州南部の地形が詳しくなっています。
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