第6話 地名

文字数 3,220文字

 朝の強い光が窓から射し、瞼を通して麗射の脳に起きろと呼びかける。
 目を覚ました麗射は仮眠の後のけだるい身体を引きずって水を求めて台所に行く。清那のこともあって、外には護衛の兵をおいているがこの官舎の中には身の回りの世話をやいてくれる従者を置いていない。将軍といえども、家の中では自分のことは自分で始末を付けなければならなかった。
 戸を開けると、そこには食卓の上に広げた地図を虫眼鏡でのぞき込む清那の姿があった。帰ったのは同じ時刻なのにすでに髪を結い上げ女人の着物を纏っている。
「おはようございます。眠れましたか」
 卓の上には牛乳で炊いた麦の粥が載せられていた。まるで起きる時間を見越したかのようにまだ湯気が立っている。
「今日は、あなた好みに甘みを強くしています」
「なんだか、いい香りだな」
 薄茶色の粥からはかすかに柑橘の香りが漂ってくる。
「橙のジャムを入れています、山登りの疲れが取れるように。本番は今からなんですから」
「ここで終わってくれれば、少し寒かったが面白い小登山だったんだがな」
「さきほど走耳から敵軍の数は二万五千、と報告がありました。南部を一気に取ってしまいたいのでしょう。まっすぐこちらに向かっているようです」
 清那の紫の瞳が剣呑な光を放っている。おそらく彼の頭の中では、敵軍をどのように迎えうつか様々な条件下での冷徹な試行が繰り返されているのであろう。一見、上品で大人しく見えるこの青年の心の中には、研ぎ澄まされた刀のような冷徹な知の戦士が潜んでいる事を麗射は知っていた。
「早く食べて、頭をはっきりさせて話を聞いてください」
 絶妙な柔らかさ、そして蜂蜜と砂糖の比率の妙、立ち上る芳香。麗射はそれらを一切味わうことなく、ガシャガシャとかき込む。麦粥は瞬く間に麗射の口の中に消えて行った。
二神座(ふたがみのざ)以外にも東と西に一つずつ南北をつなぐ隘路があります。そこは大軍が通るには狭く、寡兵でも対応できるでしょう。万が一大軍が私の裏をかいてそちらの隘路を目指した場合に供えて勇儀と幻風に千五百ずつ兵を持たして待ち伏せさせておきましょう。狭い隘路ならばこれだけの人員が居れば、敵の進路がはっきりしてから残りの手勢をまわしても遅くはないでしょう」
「ここをたった二千で守るのか、それも士気の下がった兵で」
「敵は私を警戒しています。もし私が軍師としてあなたの横に居るのであれば、軍勢は警戒して二神座を通る道を選ばないでしょう。士気がさがったとしても、あの噂を広げることで敵が油断するのであればそれに超したことはないのです、それに――」
 清那は窓の外から二神座を形成する山脈を眺める。
「戦うのは私たちではありません。夜の神なのですから」
「夜の神?」
「ええ、寝るのが大好きな神様で、夜に山を騒がせると不機嫌な禍の神になるのです」
 清那は手元の地図に目を落とす。ずいぶん古い手書きの地図で、清那がここに来てすぐに地元の古老から借りてきたものだ。
「この辺りの人々にはいろいろな伝説が伝わっています。私たちの祖先がまだ小さな集落に分かれて木の実や狩猟でその日暮らしをしていた頃、この土地にやってきた落人(らくじん)たちが壮麗な国を作った。彼らは私たちの祖先に農作や家畜を飼い日々の暮らしを安定させることを教えた、と」
「波州にだってあるぜ、砂漠を越えて天から落っこちた神がやってきた話とかな。でも、横暴な奴ですぐに海神と喧嘩になり、海向こうに追い払われてしまったらしいが」
「天から落ちた――と言えば、砂漠に伝わる龍の話を思い出しますね」
 ああ。浮かない顔で麗射がうなずいた。
「龍、か……」
 自分のことを「青龍」と呼ぶ少女がいたことを麗射は思い出した。ただ2回会っただけなのに、彼女は麗射の心を鷲づかみにしてしまった。引き離される前の、最後の狂おしいような口づけ。それは魂が絡まって求め合うような不思議な感覚だった。
 イラムのことを思い出していると察したのか、清那が話題を変える。
「ここは神々の古戦場とも言い伝えられています。禍をもたらす夜の神を連れてきたのは,いずこからかやってきた神々だと。その前は人々がこの扇状地に豊かな果樹園を作っていたのに、神々は戦場にするためにそれを追い出したとも言われています」
 清那は地図をのぞき込む。
 扇状地の二神座。そしてその扇状地の周囲には奇妙な名前が残っている。疎人山(そじんさん)落魂山(らっこんざん)。沼のある麓には苦踊(くよう)が原。火粉岳(ひのこだけ)
 いずれもあまり良い名前ではない。
「でも、夜の神はいつも現われるわけではありません。来たるべき戦いは、細心の注意で気象を読まなければならないでしょう。一つ機を間違えば、山向こうから来た大軍に一瞬のうちに蹂躙されてしまいます」
 清那は地図から目を外して、そびえる山々をにらみつけた。
 口には出さないが、兵力を分けたのにはもし本隊が消し飛んでも、他の2隊に優秀な将を付けて逃すことで、ある程度の兵力を温存するといった意味があった。
 平然としていても、五倍、いや十倍の兵力で向かって来る敵に対して勝機は限られている。しかし、自然の要害であるここから防御線を下げるわけには行かなかった。
 綱渡り、である。
 しかし、清那はこの作戦に妙な確信があった。それは――。


「清那の居ない麗射軍など、雑草を踏み潰すよりも簡単なことだ」
 手にした絵札を満足げに眺めて煉州軍南方派遣第一隊の大将、虎炎(こえん)が目を細める。
「敵軍は三方に分かれて我らを迎え撃つ体勢を整えているようです」
 報告に来た赤紫色の目をした若い兵士は、端正な顔立ちをしているが身体は万全ではないらしく肩で息をして軽く右足を引きずっていた。そんな部下をしばし卓の横に立たせたままで虎炎は、手札を見て首をかしげる。おもむろに一枚を引っ張り出すと、それを積み上がった場札に投げた。
「ふん、分かれようが、まとまっていようが、我が軍が正面突破して突き進めば、すぐさま烏合の衆よ。なあ、剴光(がいこう)
 虎炎の横に座った、つり目の男が首を突き出してうなずく。末端と将軍をつなぐ副官の役目などそっちのけで将軍にへつらうこの男は、影で『媚び狐(こびぎつね)』と呼ばれていた。
「先日、密偵に送っていた部下からの報告では、麗射が全軍の前に現われても兵士達からは鼓舞する声もなく、演説を始めてからも態度に締まりが無く聞いている風もなかったとのことでした。無理もありません、色ぼけ麗射として兵士達の心は完全に離れているらしいですから」
 上目遣いで大将を見ると、ひっひっひっ、と甲高い声で笑いながら札を出す。
「上がりだ」
 すかさず大将が自分の札を出し、場に出ていた貨幣をかき集めた。媚び狐がそっと隠した手札にはそれを出せば勝てる札が混じっていた。
「しかし――」報告者が口を開く。
「今日はお開きだ、明後日は山越えだ。全員よく寝ておけ。今回の敵は、敵軍ではなくて、扇状地に通じる高い山だからな」
 貨幣のみ袋に入れると何か言いかけた報告者を無視して虎炎は笑いながら立ち去ってゆく。その後ろ姿に、報告者はつぶやく。
「おかしくはないか。寡兵なのになぜ、全軍で迎えうたないのだ。別働隊にして背後を取る、ならわかる。しかし、援軍として働けないほど遠くに軍を分けても、負けることは火を見るより明らかだ」
 それに。
「麗射は、そんな男ではない。彼は学院生時代浮いた噂の一つも無い男だった。あまりにもできすぎている……」
 報告者、菫玲(ぎんれい)は唇を引き締めた。一年間正体を隠し学院に潜んでいたこともあり、麗射達の事はよく知っている。彼は学院戦で幻風と戦い深手を負ったがなんとか一命を取り留めた。だが、片肺は機能せず、脱出の際の怪我で足も不自由である。しかし、彼は幻風に対し復讐の意志は無い。戦とはそういうものだ、と思っている。
 彼は根っからの軍人である。上司から命令されれば人を殺すのも、欺すのも感情的な抵抗はない。その点において、彼は凄まじく忠実な人間であった。
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