第1話 罠

文字数 3,519文字

 清那(せいな)の白い指が細長い筒状の器を持つ。炉の薄い光が白磁の表面に施された繊細な絵付けを照らし、彼の瞳の中で煌めいた。そっと杯を洗いざらしの布が敷かれた小さな木の台に置き、その横の土色の急須に茶葉を入れる。茶葉の色は緑がかった茶色。叡州(えいしゅう)独特の半分だけ発酵させたお茶で、針のように均一に捻られた茶葉の形は、作り手の丹念な仕事ぶりを思い起こさせた。
 長い袖口に火が付かぬように気をつけながら、湯気を噴き出す鉄瓶を炉から取り上げると、茶葉の入った急須に湯を注ぐ。急須の取っ手を握るとそっと振り、湯を捨てるとそれだけで透き通った甘い香りが部屋中に立ちこめた。今度は湯をなみなみと注ぐと、蓋をして、上からそっと厚手の布をかける。
 部屋に立ちこめたさわやかな香気。しかし、この茶は煎れかたによって様々な姿を見せることを清那は知っていた。砂時計を逆さまにして、蓋をして茶が抽出されるのを待つ。少し長めの抽出は、このお茶を軽やかな足取りの少女から、意味ありげに扇を揺らす妖艶な美女に変えるだろう。
 砂時計がすべて落ちたのを確認して彼は細い筒型の杯にお茶を注ぐ。お茶を小さな湯飲みに入れ替えると、まだ湯気の立つ筒型の杯を鼻に寄せて匂いを楽しむ。まるで天女が横笛を吹きながら舞っているようだ。
 彼は小さな杯に入ったお茶を口に含むと目をつぶる。芳醇で爽やかな後味が、一日を終えようとする彼の気持ちを、そっと(ほど)いていく。
「信じられませんね、この繊細なお茶に砂糖を山盛り入れる人がいるなんて」
 清那は苦笑する。黒髪の青年はいつもこれに砂糖や、手に入ったときには蜂蜜をしこたま入れている。
「いやあ、この頭の芯を突き上げるような甘さがたまらないんだよな」
 麗射(れいしゃ)は顔を引きつらせる清那を意にも介さず、遠慮無く砂糖を入れた極甘のお茶を飲んだ。なんでも砂漠を放浪して「波間の真珠」にたどり着いた時に飲んだ甘いお茶が忘れられないとのことで、清那が推測するに、死線をさまよった後で舌に焼き付いたその甘さが、生きながらえることができた喜びと共に記憶に刻まれたのだろう。
 今日は軍議で遅くなると言っていた。相談は明日するから先に寝ていてくれと。
 お茶を一杯飲み終えると彼は一息ついて、白いゆったりとした上下一続きの女物の夜着に着替える。両襟をきっちりと合わせて白い紐で腰を結ぶ。装飾のひとつもない素朴な着物だが、清那が着ると凜とした白百合の花を思わせる姿となった。
 宮女風に一部を結い上げた髪を下ろすと、竪琴に張られた糸のような銀の髪が解放されてはらりと肩にかかり、炉の火を受けて宝石のように輝く。部屋の隅には小さい寝台が二つ並んでおり、これだけで広くはない部屋の半分を占めていた。それでも波州から叡州へ派遣された援軍の中にあって、小さいながらも家があるというのは破格の扱いであった。


 美術工芸院のあったオアシス「波間の真珠」が煉州(れんしゅう)軍に占拠されてから、一年が経とうとしている。
 オアシスで素人の寄せ集めでありながら煉州軍に大きな打撃を与えて逃げ延びた麗射達の一団は、煉州軍を侵略者として見ている波州(はしゅう)の人々から喝采で迎え入れられた。
 おりしも民衆が覇気の無い波州の皇帝に対し懐疑の視線を向けているところに、波州出の若者が凱旋してきたとあってその人気は日に日に高まった。波州皇帝も、人民からの支持を受ける彼をそのまま路頭に迷わせておくわけにもいかず、呼び出して将軍職を押しつけるとそのまま半ば強引に叡州(えいしゅう)から依頼された援軍として派遣したのである。これで今まで渋って棚上げしていた叡州への義理も果たせるし、政体を脅かしかねない英雄の厄介払いもできるという、皇帝側としては一石二鳥の方策であった。
 今、清那は身を隠している。
 煉州からは彼に対して執拗に刺客が送られてきた。刺客は幻風(げんふう)走耳(そうじ)がことごとく撃退したが、清那を恐れている斬常(ざんじょう)の執念か、それは止むことが無かった。それだけではない、末席ではあるが皇族の彼を祭り上げて民心を結束させようとする叡州の一派が、清那を無理矢理叡州に連れ戻そうと画策していることも伝わってきた。
 このままでは危ないとのことで清那は別行動で叡州に向かったという噂を流し、自身は麗射の室のふりをして身を隠す事になった。執拗に続いていた刺客の来襲も、彼らの軍が戦場に入り身元の確認が厳しくなったことで、叡州に来てからは暗殺未遂は起っていない。
 軍議で出された案件を麗射が持ち帰り、清那が考えて答えを出す。
「いや、俺は一晩寝ると名案が浮かぶ睡眠将軍と言われてるらしい」
 美術工芸院以来の同室での暮らしだが、麗射は相変わらずで清那が気を遣う必要がない代わりに、麗射が清那の気持ちを汲むという事もなかった。だが清那もこのさっぱりとした関係を心地よく感じている。
 もちろん胸に秘めた思いは変わらない、いやそれどころが日に日に熱くなっていく。
 だが、単純明快な彼に心の機微を察しろというのは無理な話で、清那はそばに居て彼を独占する時間があるだけで充分幸せだと感じる――感じようとしていた。


 床に入ろうとした時、ガタリと音がして聞き慣れた無遠慮な足音が響く。
「麗射、お帰りなさい」
 清那の顔が輝く。高地に位置するこの陣では寒暖の差が激しく、特に夜の寒さが際立つ。幸い先ほど入れたお茶はまだ温かい。きっと彼を温めてくれるだろう。
「お茶を煎れてある。軍議はどうでし――」
 それは思いも寄らない事態だった。
 いきなり黒髪の青年が清那の片手を掴んで引き寄せる。冷え切った身体の冷気が清那の動きを止めた。
「ど、どうし――」
 そのあとの言葉は塞がれた唇で堰き止められた。腰を抱かれたまま寝台に投げ出されると、そのままのしかかられて息をすることも許されぬくらい何度も唇が奪われる。不安げに見上げる清那の前には、黒い前髪を乱しじっと自分を見つめる麗射の黒曜石の瞳があった。その顔は険しく、じっと清那をにらみつけている。
 清那は言葉を失った。
 麗射は荒々しく肩まで夜着を引き下げ、抵抗を封じるように両手で腕を鷲づかみにした。そのまま彼の冷たい唇はそっと清那の滑らかな白い首筋を這い始めた。唇の冷たさと、舌の温かさ。天井を向いた清那の紫の目が大きく見開かれる。耳に聞こえる麗射の荒い息遣い、頬には収まりの付かない黒髪が顔の動きに伴ってガサガサと触れる。
 なぜ。酒を飲んでいる訳ではない。だが混乱した頭からはすでに思考力が失われていた。
 耳にまで及んだ執拗な愛撫に硬直していた清那の全身から徐々に力が抜け、かすかな喘ぎが漏れ始めた。
「お前の唇は甘い香りがする」
 麗射は愛おしいとばかりに清那の頬を両手で包み、そっと長い口づけが交される。
 だが次の瞬間、清那に覆い被さったままで麗射が叫んだ。
「いつまで、人の(しとね)を盗み見ているつもりだ」
 天井で何かがコトリと動く音がした。
「行ったようだぜ」しばらくして入ってきたのは走耳だった。「おっと、失礼」
 清那を組み敷いている麗射を見て、走耳は肩をすくめて立ちすくむ。
「待てよ、誤解するな。お互い熱演だったが、あくまで清那を守るための――」
 走耳の微妙な視線が二人を交互に見る。
 清那は身体を起こすこともできず、大きな息をしながら小刻みに震えていた。
「す、すまない。家に入る前にたまたま走耳が家の中を探りに来た密偵を見つけて、罠にかけたんだ。こんな濃密な姿を見せれば奴もまさか清那だとは思わないだろう。察しのいいお前だから、すぐに調子を合わせてくれると思って……」
 焦点の合ってない潤んだ紫の瞳は未だ薄汚れた天井をさまよっている。
「さ、俺はさっさと失礼する。麗射から大喝をくらっちゃ鼓膜が破れてしまいそうだからな」
 いたたまれなくなったのか、走耳はさっさと小屋を抜け出した。
 戸が閉まるのを見て、麗射は困ったように辺りを見回し、冷たくなったお茶を見つけると一気にごくごくと飲み干す。
「すまなかった、でも、お前の演技が達者だから俺もついその気になって……お、甘かったのはこのお茶の匂いか」
 清那は麗射に背を向けて言葉を発しない。
「許してくれよ、悪かったよ」
 清那の唇はまだ震えている。首筋には麗射の感触がまだざわざわと残っている。
 麗射がそっと手を伸ばすと、清那は逃げるように掛け布団の中に潜ってしまった。
「悪かったよ、本当に悪かった……」
 寝台の横に座り込んだ麗射は、ため息をついて黒髪をかき上げた。
 清那は頭まで掻け布団を引っ張り上げ、胎児のように丸くなる。頭の中では、先ほどの麗射の所業が反芻されている。
 彼は幸せに酔った自分の呆けた顔を、決して見られたくなかった。 
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