第1話 布団・鉛筆・眼鏡

文字数 1,173文字

 ノジ桟橋を離れてもう五日になる。陸地はおろか島影一つ、筏の一隻すら見当たらない。灰色の海がどこまでも続いている。まるで世界で一人きりになったみたいだ。
 太陽の光は弱々しいが、夜中に冷えた体には十分ありがたい。指先がほぐれていく。
 これよりさらに北を目指すなら、あの薄い布団一枚ではとてもやっていけない。どこかで寒冷地用の寝袋を手に入れないと凍死してしまう。できれば靴下と帽子も欲しい。
 金はあるのだ。ノジの競鵜で大穴を当てた。賭け事は身を亡ぼすというがたまには身を助けることもある。そして、もう二度とやらなければいい。
 遮光牛の革の財布に、百ゲバ円紙幣が八枚。今までの人生でこれほどの現金を持ったことはない。南アダモ諸島あたりならこれだけで一年暮らせるだろう。
 しかしそんな大金を持っていても、使えなければ持ち腐れである。新聞紙を服の中に入れると温かくなるが、紙幣では何にもならない。
 ともあれメシを食おう……と、網の支度をしていたその時、
「おっ」
 思わず声が出た。水平線の彼方に小型船。双眼鏡で見ると、行商船を意味する十文銭の旗を掲げている。
 おれは急激に嬉しくなって、まだだいぶ離れているところから、
「おーい」
 と声を上げ、大きく手を振った。
 応答はなかったが、まっすぐこちらへ近づいてくる。警戒されてはいないと見ていいだろう。
 すぐ近くまで来ると、船室から痩せた白髪のじいさんが顔を出した。
「何か欲しいもんはあるかい」
「何がある?」
「何でもあるさ。言ってみな」
「寒冷地用の寝袋は?」
「あるよ」
 助かった!
「そいつをくれ。いくらだ?」
「そっちは何がある?」
「うん?」
「代わりに何をくれるんだ?」
「金がある。いくらでも出す。百ゲバ円でどうだ?」
「金なんかいらんよ。ましてゲバ円なんて紙クズさ」
「……何だって?」
「あんた、何も知らないのか? ホウリャン政府が倒れたのさ。クソン一帯がパニックに陥ってる。気の毒だが、もうゲバ円に価値はない」
 この大金が、紙クズ。
「ウソだろ?」
「わしもウソだと思いたいさ。とにかく、現金はダメだ。物々交換しか受け付けん」
「そう言われても、金しかないんだ」
「あるだろう、何かしら」
「いや、本当に何も……」
「あんたが今かけてる眼鏡、度は入ってんのかい?」
「いや、ただのサングラスだ」
「じゃあそいつと、何か書くものはないかね? ちょうど万年筆をなくしちまってな」
「使いかけの鉛筆なら」
「ああ、それでいいよ」
 眼鏡と鉛筆で、寝袋を買う。普通ならとんでもなく得な買い物だが、いや、本当にそうだろうか? もう金額では価値が計れない。
 サングラスを手放すと、海原の眩しさが目を刺した。
 そして鉛筆も手放すので、日記はここで終了である。

 (了)
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