3、彷徨-2
文字数 2,178文字
このコはダメになる。
どうする。
追い払うか。
一緒に水浸しになるか。
短い数秒で、貴広の脳内をよぎったのはそのふたつだった。
どちらを選んでも、二度と後から取り返しはつかない。
あの朝――。
何もないまま、セミダブルのベッドで朝を迎えたあの朝、良平が出て行って。
そのまま二度と会うことはないと思っていた。
道を歩く貴広の前を、思わせぶりに通り過ぎていっただけの、可愛い猫。
気まぐれに撫でてやってもよかったが、エサをくれてやるだけで逃がしてしまった。野良猫を飼い慣らす覚悟は定まってなくて。
「俺がさ」
良平の声は小さくて、かすれていて、頼りなかった。
「えり好みするからいけないんだよな。『誰だっていい』、そう決めてるはずなのに」
貴広は無言でうなずき、続きを待った。
「だってさあ、イヤなものはイヤじゃん? コイツだけはイヤだって。どいつもこいつも、どうしてこんなに俺のタイプじゃないんだろうって」
「確かにそれじゃあ売春 はムリだな」
「だぁから。ウリじゃないって。……でも、そうか。そりゃウリだよな」
何かもっとウツクシい表現あったような気がするけどと、良平は呟いた。
要領を得ない話だし、本筋とは思えない。が、貴広は待つ。今日はとことんつき合う。
全部、吐かせる。
「俺さ、高二んとき、補導されたことあるんだ。街で」
街というのはつまりそういう街区、すすきの方面のことだろう。そちらにもそのテの店が数軒あるのは貴広も把握している。
「ヤバいブツをやり取りしてる店らしくって、警察が入ったんだよね。俺はそっちには関係なかったけど、未成年だってバレて、オヤが呼ばれて」
良平はそこで息をついた。貴広はコーヒーポットを火にかけた。
「それからだよ。家に居づらくなったのはさ」
補導された現場がゲイの集まる店だったことから、自分の志向も芋づる式に親に知られたという。
「ひとの顔見りゃため息ばっかつきやがって。だから大学入ったら家を出たかったんだけど、金出してくれないっつーからさ。まあ、そうだよな。こんな出来損ない家から出したら、何しだすか分からない。俺がオヤでもそう思うわ。へへっ」
そうして良平は笑う。睫毛が揺れる。
貴広は静かにそれを聞きながら、コーヒーを入れた。古くなりそうなトラジャをストレートで。
入ったコーヒーを、貴広はボックス席まで持っていった。ソーサーを置いたとき、カチャリと僅かにスプーンが鳴った。
「俺、ちょっと仲良くしてるコがいてさ」
貴広は自分の分をアルミのマグに入れていた。良平と差し向かいでソファに座り、トラジャをひと口味わった。苦味と酸味のバランスがちょうどよく、貴広の好みの味だった。
「俺がオヤとそんなになって、そっからそのコのところに入り浸ってた。小学校から一緒だったんだけど、話が合うっつーか……まあ、スキだったっつーか。そいつも、俺がいつそいつん家行っても、イヤな顔ひとつしなくて」
貴広は黙ってうなずいた。良平が言葉を切ると、エアコンの作動音が響く。外の街路をカップルの笑い声が通り過ぎた。
「だからって別に何がある訳じゃないけど。ま、まだガキだったしな」
今でも充分子供に見えるが。
「『オヤとケンカでもしてるのか』ってそいつに訊かれて、俺、喋っちゃったんだ。補導されたこと。店のことは伏せてたから、そいつには『ああ、良ちゃん童顔だから、すすきの歩いてるだけで高校生なのバレそう』って笑われた」
そこで良平はチラと笑った。良平のこんな笑顔は、貴広の胸を痛くする。心臓の辺りが苦しくなる。
「んで、俺たちいつも一緒にいたんだけど。高校卒業してからは、そういう訳にもいかなくなって。俺は大学、あいつは専門学校。生活時間もズレちゃって」
良平は首を振った。
「……違うな。ズレたのは俺だ」
良平は皿ごとコーヒーを取り上げて、カップの中をのぞいた。占い師が水晶玉をのぞくように。水面に、過去の自分の姿が映ってでもいるのか。
「俺さ。何度あいつの部屋に泊まっても、それ以上何もできなかったんだ。多分あいつは拒まなかったろうに」
貴広は自分のカップをギュッと握った。
「……コワいよな実際。こいつも俺に気があると思っても、カン違いだったらどうしようって。そいつとは小中高と一緒だったから、何かあれば地元の連中の耳に入る。ヘタなことできねえよな」
「そうだねえ。……分かるよ」
貴広はやっとの思いで相づちを打った。咽の奥がヒリつく。
「でもさ。ホントにそのコのことがスキだったら、ガマンなんてできないんじゃないかとも思った。人間、そんなに辛抱強くないんじゃないかって。結局――」
俺はそいつのことだって、そこまでスキじゃないんだよ……。
良平は絞り出すようにそう言って、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
貴広は何と言ってよいか分からなかった。良平の話は至るところに棘があって、貴広の胸をギザギザに抉る。
「ところがさ……」
良平は顔をくしゃりと歪ませ、黙り込んだ。
本筋に、入ろうとしているのだろうか。
貴広は急かすこともせず、待った。
カラ……ンとドアの鐘が鳴った。頼んだパエリアがやってきた。
「おお、豪勢じゃん」
良平ははしゃいだような声を上げた。無理にハイトーンを出そうとして。
貴広は目を細めた。
「上、上がろうか。続きはメシ食いながらゆっくりな」
どうする。
追い払うか。
一緒に水浸しになるか。
短い数秒で、貴広の脳内をよぎったのはそのふたつだった。
どちらを選んでも、二度と後から取り返しはつかない。
あの朝――。
何もないまま、セミダブルのベッドで朝を迎えたあの朝、良平が出て行って。
そのまま二度と会うことはないと思っていた。
道を歩く貴広の前を、思わせぶりに通り過ぎていっただけの、可愛い猫。
気まぐれに撫でてやってもよかったが、エサをくれてやるだけで逃がしてしまった。野良猫を飼い慣らす覚悟は定まってなくて。
「俺がさ」
良平の声は小さくて、かすれていて、頼りなかった。
「えり好みするからいけないんだよな。『誰だっていい』、そう決めてるはずなのに」
貴広は無言でうなずき、続きを待った。
「だってさあ、イヤなものはイヤじゃん? コイツだけはイヤだって。どいつもこいつも、どうしてこんなに俺のタイプじゃないんだろうって」
「確かにそれじゃあ
「だぁから。ウリじゃないって。……でも、そうか。そりゃウリだよな」
何かもっとウツクシい表現あったような気がするけどと、良平は呟いた。
要領を得ない話だし、本筋とは思えない。が、貴広は待つ。今日はとことんつき合う。
全部、吐かせる。
「俺さ、高二んとき、補導されたことあるんだ。街で」
街というのはつまりそういう街区、すすきの方面のことだろう。そちらにもそのテの店が数軒あるのは貴広も把握している。
「ヤバいブツをやり取りしてる店らしくって、警察が入ったんだよね。俺はそっちには関係なかったけど、未成年だってバレて、オヤが呼ばれて」
良平はそこで息をついた。貴広はコーヒーポットを火にかけた。
「それからだよ。家に居づらくなったのはさ」
補導された現場がゲイの集まる店だったことから、自分の志向も芋づる式に親に知られたという。
「ひとの顔見りゃため息ばっかつきやがって。だから大学入ったら家を出たかったんだけど、金出してくれないっつーからさ。まあ、そうだよな。こんな出来損ない家から出したら、何しだすか分からない。俺がオヤでもそう思うわ。へへっ」
そうして良平は笑う。睫毛が揺れる。
貴広は静かにそれを聞きながら、コーヒーを入れた。古くなりそうなトラジャをストレートで。
入ったコーヒーを、貴広はボックス席まで持っていった。ソーサーを置いたとき、カチャリと僅かにスプーンが鳴った。
「俺、ちょっと仲良くしてるコがいてさ」
貴広は自分の分をアルミのマグに入れていた。良平と差し向かいでソファに座り、トラジャをひと口味わった。苦味と酸味のバランスがちょうどよく、貴広の好みの味だった。
「俺がオヤとそんなになって、そっからそのコのところに入り浸ってた。小学校から一緒だったんだけど、話が合うっつーか……まあ、スキだったっつーか。そいつも、俺がいつそいつん家行っても、イヤな顔ひとつしなくて」
貴広は黙ってうなずいた。良平が言葉を切ると、エアコンの作動音が響く。外の街路をカップルの笑い声が通り過ぎた。
「だからって別に何がある訳じゃないけど。ま、まだガキだったしな」
今でも充分子供に見えるが。
「『オヤとケンカでもしてるのか』ってそいつに訊かれて、俺、喋っちゃったんだ。補導されたこと。店のことは伏せてたから、そいつには『ああ、良ちゃん童顔だから、すすきの歩いてるだけで高校生なのバレそう』って笑われた」
そこで良平はチラと笑った。良平のこんな笑顔は、貴広の胸を痛くする。心臓の辺りが苦しくなる。
「んで、俺たちいつも一緒にいたんだけど。高校卒業してからは、そういう訳にもいかなくなって。俺は大学、あいつは専門学校。生活時間もズレちゃって」
良平は首を振った。
「……違うな。ズレたのは俺だ」
良平は皿ごとコーヒーを取り上げて、カップの中をのぞいた。占い師が水晶玉をのぞくように。水面に、過去の自分の姿が映ってでもいるのか。
「俺さ。何度あいつの部屋に泊まっても、それ以上何もできなかったんだ。多分あいつは拒まなかったろうに」
貴広は自分のカップをギュッと握った。
「……コワいよな実際。こいつも俺に気があると思っても、カン違いだったらどうしようって。そいつとは小中高と一緒だったから、何かあれば地元の連中の耳に入る。ヘタなことできねえよな」
「そうだねえ。……分かるよ」
貴広はやっとの思いで相づちを打った。咽の奥がヒリつく。
「でもさ。ホントにそのコのことがスキだったら、ガマンなんてできないんじゃないかとも思った。人間、そんなに辛抱強くないんじゃないかって。結局――」
俺はそいつのことだって、そこまでスキじゃないんだよ……。
良平は絞り出すようにそう言って、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
貴広は何と言ってよいか分からなかった。良平の話は至るところに棘があって、貴広の胸をギザギザに抉る。
「ところがさ……」
良平は顔をくしゃりと歪ませ、黙り込んだ。
本筋に、入ろうとしているのだろうか。
貴広は急かすこともせず、待った。
カラ……ンとドアの鐘が鳴った。頼んだパエリアがやってきた。
「おお、豪勢じゃん」
良平ははしゃいだような声を上げた。無理にハイトーンを出そうとして。
貴広は目を細めた。
「上、上がろうか。続きはメシ食いながらゆっくりな」