4、新米マスターの非日常-2

文字数 1,246文字

 貴広は自分のために、サーバーに残ったコーヒーをアルミのマグに注いだ。すみれさんは話を止めない。実家は千葉のどこなのか、高校は? 大学は? 貴広が答えにくい感じにならないよう、自分のこと(大学はどこで、住んでいたのはどの辺で)を少しずつ織り交ぜながら。
「それじゃあ、マスターは、このお店を継いでまだ三ヶ月なんですね」
「はい、まだまだ新米でして。手抜かりも多いかと思いますが、多めに見てやってください」
 貴広は頭を掻いた。すみれさんは目を輝かせた。
「そんな。手抜かりなんて。よくやってらっしゃいますよ、マスターは。ねえみなさん」
 すみれさんは居並ぶ常連に同意を求めた。
「ええ、もちろん、本当によくやっていらっしゃいますです」
 ごいんきょが如才なく相槌を打った。
「おじいさまが亡くなって、突然こちらへ移ってこられたってことは。それまで付き合ってらした方とかいらっしゃらなかったんですか? ご結婚、されてませんよね」
 すみれさんはチラリと貴広の手許に目をやった。左の薬指に指輪はない。
「いやあ……まあ……そんなにモテる方じゃありませんし」
 貴広は語尾を濁した。
「いや……いろいろあったのがうかがえる色男ぶり……聞くと『イラッ』とするので、その辺で」
 闇属性の栗田さんが助け船を出してくれた。
 この店でそうしたプライベートに口を挟むのは御法度だ。
「……あら……そうですよね。わたしったら、ごめんなさい……」
 歯切れ悪くすみれさんが貴広への尋問を断念した。 
 会社からスマホで呼ばれ栗田さんが渋々帰っていき、ごいんきょも珍しく昼前に立ち上がった。フリー客が数組出たり入ったりする中、ランチ時の寸前にすみれさんが立ち上がった。
「ありがとうございました」
 礼儀正しく頭を下げる貴広に、すみれさんは立ち去りがたい風情でこう言った。
「さっきはいろいろごめんなさい。気を悪くなさらないでね」
「いえ、お客さまと世間話ができるのは楽しいことです。こちらこそ、お気になさらずまたいらしてください」
 貴広は柔らかい物腰で、だがキッパリとそう言った。
 すみれさんが出ていったあと、仕事の資料から目を上げて菅原さんが貴広に言った。
「ちょっとぉマスター、気をつけてね」
「は? 何がです?」
 貴広はすみれさんの使った食器を片付け、テーブルを拭いた。
「何かちょっと、粘着っぽいわよ、あのコのあの食い下がりよう」
「そうですか?」
 貴広はカウンターへ戻り、食器を洗う。
 確かにちょっと、食いつきがよすぎだったような。
「ここのお店は、誰のことも本人が言わない限り詮索しないってのが、いいところなんだから。それは、お客さん同士のことだけじゃなく、運営側にも適用されるんだから」
 菅原さんはトントンと資料をまとめた。
「この空気感が、居心地いいのよね。だから、わたしたちはそれを守りたいの」
 釣銭を渡す貴広の手を菅原さんはギュッと握った。
「マスター、くれぐれも気をつけて」
「ありがとう……ございます」
 菅原さんは手をひらひら振って出ていった。
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