7、そして今年の夏は過ぎゆく-1
文字数 1,433文字
「ハニー・ビー・カフェ」の営業マンふたりをボックス席に座らせ、貴広は深く頭を下げた。
「長々と引っ張り、申し訳ありませんでした」
営業マンは、「いえ……そちらがそうお決めになったことでしたら……」と残念そうに帰っていった。
ごいんきょが「ついに決めておしまいになられたんですねえ」とカウンターに戻った貴広に言った。
「え? ……ああ」
貴広は笑みを浮かべた。
「僕は最初から、ここを売る気なんかありませんでしたよ」
「はあ?」
横で栗田さん(闇)が目を剥いた。
「ではマスター、その気もないのに、無駄にここまで三週間も返事を引き延ばしたと。……なんと、嫌がらせにしてもタチの悪い」
「いやいや、栗田さん。俺ばっかり悪者にしようとしないで」
貴広は苦笑した。
「お隣の『みにー』さんがね、お客さんたちからアンケート集めるの待ってたんですよ」
「は⁉」
ごいんきょと栗田さんが同時に口をぱっくり開ける。
「いえね。『みにーコスメ』さんが、『本当にあの営業マンたちが言うように、郊外に越した方が商売有利なのか、調べてみる』って」
今来てるお客さんたちが、「何で来ているか(交通手段)」「普段の買いものには何を使うか(同じく交通手段)」「駐車場が店にあると来やすいか」、生の声を集めたいということだった。
「『みにー』さんも、常連さんたちは徒歩で来られてる近所の方が圧倒的に多かったみたいですよ。ついでに、地図に同心円を書き込んで、『どこまでだったら通ってきてくれるか』も聞いたらしいんですけど、どこもパッとしなかったって」
貴広はカチャカチャと洗いものを片付けながら説明を続けた。
「宮ノ森や山の手だったら行きやすいって声もあったそうですが」
「あの辺なら、HBCから多少の初期費用は出ても、月々のテナント料がハンパない……そもそも空き物件がそうそう出ないのではないかな……」
「ええ、『みにー』さんもそうおっしゃってましたね」
「新しい街に移られれば、その地でまた新しいお客さま方と出会われるのでございましょうが、そのためにこれまで苦楽をともにして来られたお客さまと、お別れしてしまうのは、本末転倒なことでございましょうからねえ」
「ええ」
貴広はタオルで手の水気を拭った。屈んでいると腰が疲れる。ぐーんと上体を伸ばして体勢を整える。
「あら? では、マスター?」
「はい? なんです、ごいんきょ」
「ではですよ。もし『みにー』さんのアンケートが、『引っ越しGo!』って方向になってしまったら、いかがなさるお積もりでらしたんです?」
「ああ」
貴広はふふっと笑った。
「なりませんよ」
「は?」
「僕、何度かお隣におうかがいしましたが、いらしてるのは五十代以降の方が八十%。ご店主さんも五十代で、スタッフさんは四十代から六十代。念のため、ご店主さんのお子さんたちは三十歳前後でみなさん東京でお勤めだそうです」
ごいんきょは「はあはあ」とうなずいた。
エリート会社員の栗田さんも、貴広の言わんとすることを理解したようだ。
「なるほど……さすがマスター……元商社。さては大変におモテになったんでしょうなあ……だから女心がよく分かると……うんうん」
「いや、そこ、女心とか関係ないですから!」
人間、ある程度の歳になると、そうそう変化は好まないものだ。
それに――。
せっかく良平が大学に通いやすくなったのだ。あの子が卒業するまでは、ここから動かずにいてやりたい。
(自転車、買ってやろう)
貴広はこっそりとひとりで、笑った。
「長々と引っ張り、申し訳ありませんでした」
営業マンは、「いえ……そちらがそうお決めになったことでしたら……」と残念そうに帰っていった。
ごいんきょが「ついに決めておしまいになられたんですねえ」とカウンターに戻った貴広に言った。
「え? ……ああ」
貴広は笑みを浮かべた。
「僕は最初から、ここを売る気なんかありませんでしたよ」
「はあ?」
横で栗田さん(闇)が目を剥いた。
「ではマスター、その気もないのに、無駄にここまで三週間も返事を引き延ばしたと。……なんと、嫌がらせにしてもタチの悪い」
「いやいや、栗田さん。俺ばっかり悪者にしようとしないで」
貴広は苦笑した。
「お隣の『みにー』さんがね、お客さんたちからアンケート集めるの待ってたんですよ」
「は⁉」
ごいんきょと栗田さんが同時に口をぱっくり開ける。
「いえね。『みにーコスメ』さんが、『本当にあの営業マンたちが言うように、郊外に越した方が商売有利なのか、調べてみる』って」
今来てるお客さんたちが、「何で来ているか(交通手段)」「普段の買いものには何を使うか(同じく交通手段)」「駐車場が店にあると来やすいか」、生の声を集めたいということだった。
「『みにー』さんも、常連さんたちは徒歩で来られてる近所の方が圧倒的に多かったみたいですよ。ついでに、地図に同心円を書き込んで、『どこまでだったら通ってきてくれるか』も聞いたらしいんですけど、どこもパッとしなかったって」
貴広はカチャカチャと洗いものを片付けながら説明を続けた。
「宮ノ森や山の手だったら行きやすいって声もあったそうですが」
「あの辺なら、HBCから多少の初期費用は出ても、月々のテナント料がハンパない……そもそも空き物件がそうそう出ないのではないかな……」
「ええ、『みにー』さんもそうおっしゃってましたね」
「新しい街に移られれば、その地でまた新しいお客さま方と出会われるのでございましょうが、そのためにこれまで苦楽をともにして来られたお客さまと、お別れしてしまうのは、本末転倒なことでございましょうからねえ」
「ええ」
貴広はタオルで手の水気を拭った。屈んでいると腰が疲れる。ぐーんと上体を伸ばして体勢を整える。
「あら? では、マスター?」
「はい? なんです、ごいんきょ」
「ではですよ。もし『みにー』さんのアンケートが、『引っ越しGo!』って方向になってしまったら、いかがなさるお積もりでらしたんです?」
「ああ」
貴広はふふっと笑った。
「なりませんよ」
「は?」
「僕、何度かお隣におうかがいしましたが、いらしてるのは五十代以降の方が八十%。ご店主さんも五十代で、スタッフさんは四十代から六十代。念のため、ご店主さんのお子さんたちは三十歳前後でみなさん東京でお勤めだそうです」
ごいんきょは「はあはあ」とうなずいた。
エリート会社員の栗田さんも、貴広の言わんとすることを理解したようだ。
「なるほど……さすがマスター……元商社。さては大変におモテになったんでしょうなあ……だから女心がよく分かると……うんうん」
「いや、そこ、女心とか関係ないですから!」
人間、ある程度の歳になると、そうそう変化は好まないものだ。
それに――。
せっかく良平が大学に通いやすくなったのだ。あの子が卒業するまでは、ここから動かずにいてやりたい。
(自転車、買ってやろう)
貴広はこっそりとひとりで、笑った。