6、甘い、甘いチーズケーキ-3

文字数 1,745文字

「……それで?」
 パタパタとお客さまが退けて、常連さんたちも気を利かして帰っていった。話を聞くならこのタイミングだと、貴広は水を向けた。
「この髪の毛は、あなたが持ちこんだものなんですか?」
 すみれさんはこくりとうなずいた。
「どうして、そんなことを?」
 貴広は静かにそう尋ねた。
 責めていると取られないよう、出しうる限りの穏やかな声で。
 良平は面白くなさそうに唇を曲げている。
 貴広は目線の高さを合わせるため、すみれさんの向かいに座っていた。威圧感を与えないよう、ゆったりとボックス席のソファにかける。
「……評判を、落としてやろうと思いました」
「…………なぜ?」
(ええー? このひとに恨まれるようなこと、何かしたー?)
 貴広は心底驚いた。
 すみれさんはうなだれ、呟くように言った。燃えるような赤い髪が顔にかかる。
「ここが『ハニー・ビー・カフェ』になれば、『ラ・シュヴゥ』の待ち時間、お客さんがそこで過ごせるって聞いて。だったら、このお店がもっと経営に困ったら、早く引き払ってどこか行くんじゃないかって。そしたら」
 そういうことか。
 動機は理解できた。
「そしたら、河野先生は喜ぶだろう……ですね」
 すみれさんはうなずいた。
「あんた、その河野ってヤツの愛人か?」
 憤る良平を、ボックス席から貴広は目で抑えた。すみれさんは慌てて首を振った。
「いいえ。いいえ、違います。そんなんじゃ」
 すみれさんの目からひと筋涙が頬を伝った。
「そんなんじゃ、ないんです」
 良平はカウンターの中で、面白くなさそうに腕を組んだ。
「何だよ。それじゃ、一方的に岡惚れしてるオッサンのために、あんたが勝手に暴走してクレームを仕込んだってことかよ」
 バカじゃないの。良平は肩をすくめてそう言い放った。すみれさんの咽からウッと泣き声が漏れた。

「あんた、甘すぎるよ」
 貴広はすみれさんをタダで帰した。詫びも要らない、もちろん今日の代金も要らない。そして気が向いたらまた来てくれて構わない。今日のことはお互いにキレイに忘れて、なかったことにしよう。貴広がそう提案すると、すみれさんは何度も繰りかえし礼を言って帰っていった。
 良平は大いに不満らしい。
「あんなことされて、黙って忘れてやるなんて。飲食店だぞ。他のどんな商売よりも、評判ありきじゃないか」
 貴広はつい嬉しくて、ニコニコと頬が緩んでしまう。
「そうだよ良、よく知ってるね」
「『そうだよ』じゃねえわ!」
 良平はスタッフ用のアルミカップに注いだコーヒーをグビッと飲んだ。
「しかもあの犯行動機聞いたかよ。勝手に横恋慕したオッサンのためにだぞ? ああいうのは、許してやると、またどこかで似たようなことすんだよ。また被害に遭うぞ? いいのか?」
「良は優しいね」
 貴広がニコニコ顔を崩さないので、良平もさすがに毒気を抜かれ押し黙った。
「だってさ、良は許されたじゃないか」
「貴広さん?」
「良はあんなに危険な目に遭ったのに、ごいんきょのおかげで、こうして何ごともなく安全でいられる。まあ、実際のところは分からないけど」
 良平はアルミカップを握り締めた。
「でも、多分、良平はもう大丈夫。ならすみれさんだって、やっちゃったことは消せなくても、だからって不幸にならなくてもいいじゃない?」
 しでかしたことは消せなくても、不幸にはならなくていい。
 良平はぐすりと鼻を鳴らした。貴広は言った。
「俺、今サイコーに幸せ。だから、みんな幸せになったらいいって、そう思うんだよ」
 貴広の胸は晴れ晴れとして、これから来る秋の空のように爽やかだ。
「あはは……人間って、変わるもんだねえ。……良平?」
 アルミカップを流しに置き、良平は貴広の背に抱きついた。
 貴広はドキドキして戸口の方に目をやった。誰か入ってきたらどうしよう。
「良平君? おい良。離せよ。誰か来たら」
「あんた、甘すぎるよ」
 良平の涙に濡れた声が、貴広の耳たぶをくすぐった。良平は額を貴広の肩に乗せる。
「あんたがそんなんだから、俺……」
「良?」
「俺、あんたのことが好きなのかな」
 貴広は振り返る。良平の涙に濡れた赤い瞳をのぞき込む。泣き顔を見られて、良平は恥ずかしそうに目を伏せる。
 そして――。
 貴広は良平の両手を軽く握り、その頬にチュッとキスをした。
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