2、ハニー・ビー・カフェ-2
文字数 1,888文字
退屈だと油断していたら、意外にいろんなことが起こるじゃないの。
貴広は洗ったふきんをカウンターの端にかけた。こうして置けば朝までに乾く。
パンパンと手を叩いて、店内を見渡す。
「これでよしっと」
閉店と同時にエアコンを切ったので、店内はじわじわと暑くなってきた。日は暮れたが、今が一番暑い時期。北海道の短い夏だ。
今日こそ遊びに出る。
うまいメシも食う。
貴広は二階で細身のパンツに履き替えた。仕事中は疲れないよう、ゆったりとしたものしか身に付けない。ベッドサイドから腕時計も取ってきた。
もうこの歳になると、誰かと出会いたいなんて気は失せてきた。
それよりも、自分が自分らしくいられる場所だ。
常連さんたちがよくしてくれる、この「喫茶トラジャ」も大事な自分の居場所になった。そのために、この街へ越してきたくらいだ。
だが、貴広にはもうひとつの顔がある。良平に見抜かれたマイノリティとしての素顔だ。
マジョリティが基本となっている一般社会とは別に、マイノリティがその部分を安心してさらけ出せる空間。そうした場所も、ひとつふたつ持っておきたい。そこでたまたま一緒になるひとびとは、自分と同じ。つまりそこでは貴広たちがマジョリティなのだ。
こんなことに多少神経質になるのは、多分、あと三、四年くらいなんだと貴広は思う。もう少し歳を取れば、誰かと出会うとかつき合うという可能性は完全に消え失せ、あとは長い長いおじいちゃんの人生が続くんだと。
だから、まあ、まだ人生を諦めきってもいない三十二歳の貴広は、たまにはそうした居場所に顔を出したい。居心地のいい店で「客」になりたい。
マホガニーをチョコレートのようにくり抜いた、年代物の入り口扉。そこへカギをかけ、貴広は夜の街へ繰りだした。
「――せっかく琴似駅は何の事件もなく通過できたのに」
「悪かったな。俺だってこんなジャマが入るとは、思わなかったよ」
札幌駅から二駅南下すると、北海道きっての歓楽街、すすきのが現れる。だが貴広はそちらへは向かわず、あえて少し北へ歩いた。何度か行ってまあ気に入った「店」があるからだ。
いろんな年代の客が入る、うるさすぎないラクな店だ。明らかに相手を探すギラついた客もいるが、貴広のようにただ静かに話したい客もいる。仕事が終わった夜の時間を寛ぎたい出張族も来る。
そんな、日常生活から切り離された寛ぎの空間で。
まさか。
「なんで君、こんな店に来ることがあるの。君みたいな学生は、大人しくガッコーとサークルとバイトをくるくるしてればいいじゃない」
「うるさいな。学生がみんなそういうお気楽な生活してられる訳じゃねえっつの」
まさかこの店で出くわすとは。伊藤良平。
「まあ、せっかくここで会ったのも何かの縁っしょ。一杯おごってくれない?」
カウンターの端に腰かけた貴広を追って、良平が隣の席に座った。
貴広は渋い顔をした。
「まさか君、この店に雇われてるんじゃないだろね」
そういう接客をする店では、なかった筈だが。
「そんな訳ないでしょ」
良平はキャラキャラと笑った。
「もう、面白いなあ、あんた」
注文したハイボールが出てきた。ふたりは「カンパイ」とグラスを鳴らした。
良平はグラスに口をつけ、中の液体を少しずつ唇に流し込んだ。炭酸の刺激に顔をしかめ、「ふっ」と息を漏らす。良平は貴広の視線に気づき、上目づかいに貴広を睨んだ。
「何だよぉ」
貴広は目をそらした。
「いや。君がそんなの飲んでると、ドキドキするよ。子供にイケナイものを飲ませてるような気がしてさ」
「また子供扱いかよ。腹立つな」
「だって君、童顔だよ? 身体付きだって華奢だしさ。『十七』って言っても全然通るよ」
「そうかよ」
良平はムスッとしてハイボールをあおった。貴広はその飲みっぷりにハラハラしてしまう。
良平はそんな貴広にニヤリと意地悪に笑った。
「じゃあ、ショタ客見つけて拾ってもらうかな。あんたみたいなさ」
「はああ?」
貴広はカウンターにグラスをドンと置いた。
「何で俺がショタなんだよ」
「あれ? 違うの?」
「当たり前だろ、そんな趣味ないよ」
もしあったら、今頃君、無事でなんていられてないよ。貴広はそのセリフを飲み込んだ。ここで言うと、シャレにならない。
「そうかなあ。俺、結構あんたのシュミじゃない?」
「え」
貴広はその場に固まった。
記憶の中の「あいつ」。彼の記憶は、目の前の良平くらいの歳で止まっている。いつまでも歳を取らない、若い青年の姿のままで。
似てはいない。
決して似てはいないが、妙にあの頃を思い出す。
良平を助けた、あの夜から――。
貴広は洗ったふきんをカウンターの端にかけた。こうして置けば朝までに乾く。
パンパンと手を叩いて、店内を見渡す。
「これでよしっと」
閉店と同時にエアコンを切ったので、店内はじわじわと暑くなってきた。日は暮れたが、今が一番暑い時期。北海道の短い夏だ。
今日こそ遊びに出る。
うまいメシも食う。
貴広は二階で細身のパンツに履き替えた。仕事中は疲れないよう、ゆったりとしたものしか身に付けない。ベッドサイドから腕時計も取ってきた。
もうこの歳になると、誰かと出会いたいなんて気は失せてきた。
それよりも、自分が自分らしくいられる場所だ。
常連さんたちがよくしてくれる、この「喫茶トラジャ」も大事な自分の居場所になった。そのために、この街へ越してきたくらいだ。
だが、貴広にはもうひとつの顔がある。良平に見抜かれたマイノリティとしての素顔だ。
マジョリティが基本となっている一般社会とは別に、マイノリティがその部分を安心してさらけ出せる空間。そうした場所も、ひとつふたつ持っておきたい。そこでたまたま一緒になるひとびとは、自分と同じ。つまりそこでは貴広たちがマジョリティなのだ。
こんなことに多少神経質になるのは、多分、あと三、四年くらいなんだと貴広は思う。もう少し歳を取れば、誰かと出会うとかつき合うという可能性は完全に消え失せ、あとは長い長いおじいちゃんの人生が続くんだと。
だから、まあ、まだ人生を諦めきってもいない三十二歳の貴広は、たまにはそうした居場所に顔を出したい。居心地のいい店で「客」になりたい。
マホガニーをチョコレートのようにくり抜いた、年代物の入り口扉。そこへカギをかけ、貴広は夜の街へ繰りだした。
「――せっかく琴似駅は何の事件もなく通過できたのに」
「悪かったな。俺だってこんなジャマが入るとは、思わなかったよ」
札幌駅から二駅南下すると、北海道きっての歓楽街、すすきのが現れる。だが貴広はそちらへは向かわず、あえて少し北へ歩いた。何度か行ってまあ気に入った「店」があるからだ。
いろんな年代の客が入る、うるさすぎないラクな店だ。明らかに相手を探すギラついた客もいるが、貴広のようにただ静かに話したい客もいる。仕事が終わった夜の時間を寛ぎたい出張族も来る。
そんな、日常生活から切り離された寛ぎの空間で。
まさか。
「なんで君、こんな店に来ることがあるの。君みたいな学生は、大人しくガッコーとサークルとバイトをくるくるしてればいいじゃない」
「うるさいな。学生がみんなそういうお気楽な生活してられる訳じゃねえっつの」
まさかこの店で出くわすとは。伊藤良平。
「まあ、せっかくここで会ったのも何かの縁っしょ。一杯おごってくれない?」
カウンターの端に腰かけた貴広を追って、良平が隣の席に座った。
貴広は渋い顔をした。
「まさか君、この店に雇われてるんじゃないだろね」
そういう接客をする店では、なかった筈だが。
「そんな訳ないでしょ」
良平はキャラキャラと笑った。
「もう、面白いなあ、あんた」
注文したハイボールが出てきた。ふたりは「カンパイ」とグラスを鳴らした。
良平はグラスに口をつけ、中の液体を少しずつ唇に流し込んだ。炭酸の刺激に顔をしかめ、「ふっ」と息を漏らす。良平は貴広の視線に気づき、上目づかいに貴広を睨んだ。
「何だよぉ」
貴広は目をそらした。
「いや。君がそんなの飲んでると、ドキドキするよ。子供にイケナイものを飲ませてるような気がしてさ」
「また子供扱いかよ。腹立つな」
「だって君、童顔だよ? 身体付きだって華奢だしさ。『十七』って言っても全然通るよ」
「そうかよ」
良平はムスッとしてハイボールをあおった。貴広はその飲みっぷりにハラハラしてしまう。
良平はそんな貴広にニヤリと意地悪に笑った。
「じゃあ、ショタ客見つけて拾ってもらうかな。あんたみたいなさ」
「はああ?」
貴広はカウンターにグラスをドンと置いた。
「何で俺がショタなんだよ」
「あれ? 違うの?」
「当たり前だろ、そんな趣味ないよ」
もしあったら、今頃君、無事でなんていられてないよ。貴広はそのセリフを飲み込んだ。ここで言うと、シャレにならない。
「そうかなあ。俺、結構あんたのシュミじゃない?」
「え」
貴広はその場に固まった。
記憶の中の「あいつ」。彼の記憶は、目の前の良平くらいの歳で止まっている。いつまでも歳を取らない、若い青年の姿のままで。
似てはいない。
決して似てはいないが、妙にあの頃を思い出す。
良平を助けた、あの夜から――。