六、アップルパイアーミー

文字数 6,507文字

この間おばあちゃんの部屋に入った時と違うのは、テーブルが赤と緑のチェックの布をかけたコタツになっているところと、白い機械からもくもくと煙が上がっているところだった。
「あれ?この煙レモンの匂いがする!」
マサが煙に顔をかざしながら言う。
「ん?加湿器じゃないのか?」
ツネが言う。俺は、
「煙出てるから加湿器だろ。アロマディフューザーってやつだ。姉ちゃんたちの部屋にもあるぞ」
と、少し得意になって言った。するとツネは、
「あのさあ、アロマディフューザーは加湿効果は殆どないんだぞ。加湿器は加湿器、ディフューザーはディフューザーだ!」
と言った。
「え?じゃあこの風邪の季節におばあちゃんの部屋は加湿されてないのか?」
おばあちゃんはベッドのそばの茶色い機械をトントンと叩いて笑いながら言った。
「加湿器はここにあるよ。それは咲ちゃんがね、この間の私の誕生日にくれたのよ。鳥を連れてくるでしょ?どうしても臭いが気になるってね。」
レモンの香り漂うおばあちゃんの部屋で、俺たちはコタツを囲んだ。
「これは練習用に焼いたやつだから、ちょっと不恰好なんだけどね」
そう言いながらおばあちゃんはアップルパイを切り分けていく。
練習用と言うだけあって、パイの上についたアミアミ模様は少しずれていたし、テカテカがない部分もあった。
パリパリとパイを砕く音がして、部屋の中には一気にりんごの香りが広がる。コーヒーの強い香りにも負けない、甘酸っぱい匂いに口の中に入れた感覚が蘇る。最後にアップルパイを食べたのはいつだろうか。たしか三年前、姉ちゃんが初めてのお給料で買ってきてくれたやつだ。まるまる一つ分のりんごが入っているという、有名な商品だった。
家族五人で分けたアップルパイと甘い紅茶の香りは、姉ちゃんの満足そうな顔と嬉しそうな家族の笑顔を思い出させる。
感覚とはなんだってそうだが、既に経験した事があるものに出会うと、以前経験した時の記憶が蘇る。自分にとっての初めましてには新しい発見があり、未知の世界に踏み込んでいくドキドキは素晴らしいし素敵なことだが、一度経験した事に再会することの方が俺は好きだ。それは多分俺の中にある記憶の大体が幸せなものであるからであって、つまり俺は幸せだなぁと認識できるからに他ならない。もし、音楽や、食べ物の香りや味がとてつもなく悲しい記憶と結びついていたとしたら、その存在すら嫌になってしまうにちがいない。
今、俺のアルバムにアップルパイとレモンとコーヒーの香りがツネやマサの笑っている顔と共に追加された。悩みはあれど、幸せな記憶の一ページとして。
 八等分に切り分けたアップルパイを四枚のお皿に移すとおばあちゃんは、
「そうそう忘れてた!これからお楽しみがあるからね!」
というと部屋を出て行き、すぐにアイスの箱を手に戻ってきた。それは俺がよく食べる、百円くらいのアイスだ。おばあちゃんはスプーンでそのアイスを四等分にすると、アップルパイの横に添えた。百円のアイスなのに、アップルパイと一緒だとどこかのお店で出てきそうな高級品に化ける。アイスがすぐ溶けてしまうほどのあたたかいアップルパイは、バニラの香りを纏って艶やかに光っていた。
「まずは…」
コーヒーを一口すすって、おばあちゃんは真面目な顔で言った。
「ツネくんなら、お医者さんはとても素晴らしいお仕事だし、なりたくても簡単になれるものじゃないことは百も承知よね」
ツネはようやく落ち着いたのか、さっきのつり上がった目が元どおり、いつもの涼しい顔になっていた。
「はい。もちろん。父のことは尊敬していますし、なりたくてもなれないものだという事は分かっています。医者は人の役に立てる職業としてすごいものだという事も分かっています」
「俺ん家の…じいちゃんもツネの…父さんに大きい病院紹介してもらっ…たから今元気だぞ!ま…マジ感謝してるぞ!」
「おいマサ、おまえ食べながら喋る癖直せよ」
俺はパイのかけらを拾いながら言った。悪りぃ、と、マサは頭に手を置き、髪をかきあげながら笑った。
「じゃあ、ツネ君は他になりたいものがあるのかしら?」
おばあちゃんは勢いよく食べるマサを笑いながら見ていたが、ツネの方をみると真剣な顔をして言った。ツネは困った顔をして、何も言わずにおばあちゃんをみつめ返した。
おばあちゃんは、
「ごめんごめん。多分、多分よ。ツネくんはまだやりたいこと、なりたいものなんてはっきりと決まらないと思うのよ。まだ十五歳だもの。当然よ。今の時代は色々な選択肢があって、自由に選べるもの。お父さんやお母さんもそのことはよく分かってるわきっと。だからこそ、こっちにも進めるよと道を示してくれているんだと思うのね。」
ツネはコーヒーカップを両手で包み込みながら、一言一言噛みしめるように言った。
「両親の気持ちも分かります。僕がすごい恵まれているのも分かります。でも、何になりたいかとかはちゃんと自分で決めたいんです。誰かに言われたからなるのが嫌なんです。だってもし失敗したとき、その誰かのせいにしちゃう気がするから。勉強している時に、ああ大変だなって思う日が来た時、他の道もあったのに選べなかった事を父や母のせいにしたくない。うまく言えないけど、僕はそう思うんです」
「おまえ、すげぇな!」
俺はツネの言葉が終わると同時に、思わず叫んでいた。
「俺なんて、ダメなことはすぐ人のせいにするし、高校も吹奏楽やりたいってだけでその先のことなんかちっとも考えてないよ。お前ちゃんと考えてて偉いな。さすがだな。びっくりしたよマジで!」
俺の勢いにしばらく沈黙が続いた。
なにかまずいこと言ったかな…不安になるくらいの沈黙の後、おばあちゃんが声をころしながら笑い出し、続いてマサが、最後にツネまでもが声を上げてケラケラ笑い出した。
「ちょっと、おい、なんだよ。俺まじめに関心してんのにさ」
ツネは今日一番の笑顔で言った。
「シンノスケってさ、ほんと、いいやつだなー」
マサも、
「おまえさ、たしかにすごい良いやつだけどさ。ツネの悩み聞いてんだから少しは神妙にしろよ。まあ、シンノスケっぽいけど」
おばあちゃんは、
「ごめんごめん!笑うつもりはなかったんだけど…もう我慢できなくって。シンノスケくん、あなた素敵すぎるわ。好きだわ。その考え方」
俺は急に恥ずかしくなり、下を向いた。おばあちゃんはまたクスっと笑うと、俺の目を見て言った。
「シンノスケくんみたいな考え方の人ばかりだったら争い事なんてなくなるでしょうね」
俺は思ったままを言った。
「俺はさ、ツネにはなれないけど、ツネが考えてる事なら応援する。どんな決断でもそれが正しくなくてもいい。ツネならいい。…へんかな?」
おばあちゃんは今まで見た中で一番の笑顔で言った。
「私も、そう思う」
あやふやな自分の気持ち。まだ言葉にするにはまとまらないもどかしい気持ちを分かってくれる人がいる事が無性に嬉しかった。俺はやっぱり恥ずかしくて下を向いた。
「俺はさ…」
俺は空になったアップルパイのお皿を名残惜しそうに眺めながら思いきって言った。
「実は俺はさ、父さんとまだ、ちゃんと話せてないんだ。言うのが怖かったんだよね。そこで決定的な一言言われちゃえば終わりだし、俺、お願いだ頼むとか言われると断れないし。特に母さんからのは…」
「知ってる」
ツネは俺の言葉を遮って言った。
「シンノスケ、俺の悩みのが重いと思って、もうおじさんに話したって嘘ついたろ、こないだ。お前気づいてないかもしれないけど、嘘つくときはやたらおしゃべりになるんだ。昔からおまえのこと知ってんだぞ。そんくらい気づくよ」
俺は驚いた顔でツネを見た。
「そんで僕もお前と同じで、おまえが言いたくないならそれでいいし、言わなくてもおまえが考えた事に全部賛成だ」
マサが
「俺もだ」と小さな声で言うと下をむいた。きっと恥ずかしいのだろう。俺の方は見ようともしないマサの気持ちがありがたかった。おばあちゃんはコーヒーを一口すすると、そっと囁くように言った。
「ツネくんもマサくんもシンノスケくんも、良いね。そのままを信じてくれる仲間に出会えてよかったね」
しばらくみんな黙ってアップルパイを頬張った。
(おばあちゃんのお蔭だけどね)
俺は心のなかで呟いた。マサは二切れ目のアップルパイに手をつけていた。アイスの海に浮かんだアップルパイは、まるで南極の海に浮かぶ氷山のようだなと俺は思った。
「ヨカッタネヨカッタネ」
フォークのかちゃかちゃという音の間を縫って、タロの声が聞こえてきた。タロがあまりにも大人しかったから、今までそこにいた事を忘れていた。俺たちがゆっくり話すのを聞いていたみたいに。まるで人間みたいだな。
 と、突然ツネがみんなの顔を見て、口の前で人差し指を立てた。何があったのかと思っていると、ツネはゆっくり立ち上がると、ドアに手をかけながら大きな声で言った。
「やっぱりタロは空気読むよなー。すごいなー。それに比べてあんなに分かりやすく玄関開けておきながらそこでこっそり盗み聞きしてる磯やんはなんなんだろうなー!」
同時にドアをガチャっと開けると、大きな身体を出来るだけ小さく丸めようと苦戦している様子の磯やんが立っていた。
「ごめんごめんごめん!盗み聞きなんてするつもりは全くなかったんだ。ただ、シリアスすぎて入りにくい雰囲気だったから、話が終わるまで待っていたら、いい話になっちゃってさー、ますます入りにくくなっちゃったんだよー!」
磯やんは床に膝をつくと、胸の前に手を合わせて、
「ごめんなさいでした」
と、頭を下げた。
「ゴメンナサイデシター」
またまた変な節をつけて発したタロのお喋りで、おばあちゃんの部屋の空気が柔らかくなった気がした。マサが、
「おまえ寒いからドア閉めて早く来いよ」
と、磯やんの服の裾を引っ張った。
「廊下寒かった…」
磯やんはコタツに入ると、二切れ残っていたアップルパイを一切れ掴んで口に運んだ。
「あれ、樹はアップルパイ嫌いじゃなかったの?」
おばあちゃんが磯やんに聞いた。磯やんは口をもごもごさせながら、
「ひらひじゃねひよ」と言った。
「嫌いじゃないよ、って言ってるよ」
俺は磯やんの通訳をしてやった。
「あれ?だって去年はもうアップルパイ二度と見たくない!って言ってたけど…」
磯やんはしばらくもぐもぐしていたが、おばあちゃんのコーヒーを飲み干すと、大きく顔の前で手を振って答えた。
「違う違う。ばあちゃん去年何個アップルパイ作ったか覚えてる?二十個も焼いたんだぜ三日間で。それをちゃんと友だちとかに配ればいいのに美味しくなかったらどうしよう…とか言って、結局冷凍したりで毎朝毎晩アップルパイだったじゃん!」
「二十個?二十ホールってこと??」
マサがおばあちゃんの方を向くと、おばあちゃんは恥ずかしそうに答えた。
「そうなのよ。実はね、私覚えたてで楽しかったのと、お世話になってる人に配ろうと思って作ったの。最初いくつか失敗して、もっと上手くできる、もっと上手くできるって思ったら楽しくなってきて、それで気がついたら二十ホールも作っていたのよ」
おばあちゃんはベッド脇の引き出しから一冊手帳を取り出した。
「ちゃんと去年の手帳に書いてあるはずよ。渡したい人の名前。でも結局、二人くらいしか配れなかったわ。だから今年こそ配ろうと思って。昨日から配り始めたの。今年は十三枚焼いたわ」
「また十三も焼いたの?ちゃんと渡せた?」
磯やんがもう一つのパイに手を伸ばしながら聞いた。
「今年は大丈夫よ。ちゃんと渡せたし、ちょっと余った分も冷凍済みだから!」
そう言うとおばあちゃんは、コーヒーのお代わりを淹れに席を立った。
ツネは
「あースッキリした。思ってること全部言ってスッキリした!家じゃなかなか言えないんだよね」
大きく伸びをして後ろにゴロンと倒れた。俺はツネの顔を覗き込みながら言った。
「おまえ、おじさんになんて言うんだ?受験するかしないか、出願すぐだし早く言わなきゃいけないんじゃないか?それに国津じゃなくて小田川行きたいのはなんでだ?」
ツネは少し笑いながら、
「俺さ、みんなに相談する前は遠くの学校に行くなとか、父さんや母さんの言ってることは間違ってるみたいに言われちゃうのかなとか覚悟してた。でもみんなは違って、俺が決めればいい、って言ってくれた。それを聞いたら安心したよ。俺は俺の思うようにやればいいんだって。受ける受けない、行く行かないも含めて休み中によく考えてみるよ。あと俺が小田川に行きたい理由はね、小田川の陸上部の顧問が、中学の先輩だからなんだよ。その先輩が大学四年生の時部活に遊びに来てくれてさ、俺は一年でいろいろ教えてもらったんだよ。それでとってもお世話になったから年賀状やり取りしてたんだけど、去年の年賀状に書いてあったんだ。その先輩のとこで頑張りたいなと思ったんだ」
「へえ。そんなことあったんだ。俺なら、お前の成績があれば国津行くけどなあ。もったいない」
マサの言葉にツネは笑って答えた。
「どの高校に行っても、僕は僕だ。レベルとかどうでもいいんだよ。僕の過ごしたい環境で過ごすんだ。だってそうだろう?父さんも先生たちもうるさいんだよ。どこに行ったって変わらないのにさ」
「確かにそうだな。何にも変わんないよな。俺も塾で今もう少しで国津、っていわれて頑張っているけど、はっきり言って文化祭は小田川のが楽しかったぞ。頭いいからって全てが良いわけじゃあないよな。それにどの高校に行ったって、結局はその人の頑張り次第で将来は変わるからね」
マサが真面目な話をしているのを久々に聞いた。ツネは嬉しそうに、
「そうそう。あとさ、お前たちが言ってくれた、俺がいいならいいって言葉が、俺はとっても嬉しかったよ」
俺たちの気持ちが伝わってよかった。ツネの気持ちを強くできてよかった。
「それより!」
ツネは起き上がると、俺の方を見ながら
「シンノスケ、おまえはどーすんだよ?ちゃんと言えんのか?このままだとおまえのことだ、何も言えないまま高校行っても部活入れないんじゃないか?」
俺はマサ、ツネ、磯やんを順番に見ながら言った。
「俺は、高校出たら大学とか専門とか行くとは思うけれど、そのあと多分家を継ぐ。今も手伝い好きだしさ。もともと絶対継ぎたくない訳じゃないからね。むしろ作業は勉強より好きだよ。父さんにしか出来ない仕事だって遠くから来てくれるお客さんもいて、すごいな、俺もああいうふうになりたいなあって思うんだ。でも高校では絶対吹奏楽やりたいんだ。吹奏楽部に入りたいんだ。音楽が好きなんだ。だから今夜話してみようと思うよ。母さんは今日も体調悪そうだったし、まだ本調子じゃあないのは分かってる。だから母さんに言われると弱いんだよ。でもね、さっきのツネの話聞いてわかったよ。無理して手伝って、出来なかったことを母さんのせいにしちゃいけないよな」
俺はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、
「沢山喋ったけど、今度は嘘じゃないよ」
と付け足した。おばあちゃんが戻ってきた。後ろにポットを抱えた咲ちゃんもいた。
「もうすぐ夕飯タイムだけどみんな夕飯食べてく?今日天ぷらだからみんなの分もあるってお母さんが」
俺がどうしようかとツネたちの方を見ると、ツネが
「善は急げだ!」
と小さい声で言うと咲ちゃんに向かって、
「お誘いありがとう!俺たち今日は帰るよ。咲ちゃんありがとうね」
と言うと、いつも後輩たちをキャーキャー言わせているスマイルを作って笑った。咲ちゃんは顔を赤らめながら、
「いえ。また、ぜひ今度!」
というと恥ずかしそうに部屋を出て言った。
 俺たちはおばあちゃんにご馳走さまでしたと伝えると、あったかいコタツに後ろ髪を引かれながら磯やんの家を後にした。

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