七、三日月よりも星よりも

文字数 4,261文字

磯田と太字で書かれた渋い表札のある磯やん家の門を出て空を見上げると、すでに一番星が輝いていた。日の入りを迎えた空は、昼間の青と夜の黒が混じり合うサファイア色の闇の中、ひときわ輝く三日月が抜群に美しかった。
「三日月、きれいだな」
あまりの美しさに俺はつい声に出してしまった。隣でマサがおーと言いながら、
「ほんとだな。あの、折れちゃいそうに細いところも、また味があっていいな。俺は丸い月よりも三日月が好きだな。三日月ってさ、丸い月が欠けていってああやって細くなると分かってても、同じものなのに形が違うとあんなに綺麗に見えるのな」
「うんうん。そう思う。全体が見えるよりもきれいなのって、横顔がきれいな人みたいなもんかな?横顔美人?横顔イケメン?おれはどっちかっていうとそれだ!」
俺の言葉を笑いながら聞いていたツネは、
「ねえ、これからみんなでシンノスケの家行こう。シンノスケ、俺とマサがいるから、今日ならどんな本音言っても大丈夫だ!」
と言うと、ツネは自分の家の前をわざと走って駆け抜け、ネコ坂を登り始めた。
「俺は満月も三日月も好きだけど、見た景色には必ずそのときのシチュエーションがプラスされて記憶されるから、そのものの美しさよりもその場の雰囲気が印象に残るな。ま、少なからずみんなそうだろうけどさ」
「確かにそうだ。俺さ、ぶっちゃけ真島さんの隣で食べた体育祭の日の弁当が一番美味かったなぁ。ツネ、そういうことだろう?」
ツネの真面目な話の後でマサが言った言葉に俺は吹き出しそうになった。そして窓際の席で友だちと笑う真島さんのあの綺麗な横顔を思い出した。
 真島さんとは、二年まで同じクラスだった女の子だ。三年にあがる前にお父さんの転勤でイギリスに行ってしまったが、誰もが認める秀才である事に加えて、ツネまでもが真っ赤な顔して「あの子はきっと次世代の遥香ちゃんになる!」と断言していたほどの美人だった。真島さんの転校を知った男子たちの落胆ぶりといったら、真島さんのお別れの挨拶のタイミングで泣き出す奴がいたほどだった。
「真島さんか。懐かしいな。よく一緒にマサに数学教えたな」
マサは少し口を尖らせて
「そうだよ。ツネがいなきゃ真島さん独り占めだったのにさ」
俺は気の利かないマサに言った。
「マサ、それはお前が悪いわ。真島さんは多分ツネが好きだったんだよ。で、マサに数学教えてやる時間がツネと話せるチャンスだったんだと、俺は思うけどなぁ」
「えーマジ?そんなの聞いたことないし!嘘つけ!」
マサは暗闇でもわかるくらいぷうっと膨れた。
ツネは少し下を向いて呟いた。
「俺、その時は気が付かなかったけど最後に真島さんから手紙をもらって知ったよ。その手紙がひどく真島さんらしくて驚いた」
「マジか?マジか?なんだよ…真島さん…そんなー」
マサは途端に歩くスピードが遅くなった。
「真島さんらしいってどんな?」
俺は改めて、同じクラスにも関わらず殆ど話した事のない彼女の存在に気づいた。どちらかといえば話しやすいタイプだと思う俺が話した事がないのに、女子を寄せ付けない雰囲気を持つツネの方が彼女の事を知っていた事に驚いた。
「真島さんは、数学でも英語でも、まずこの問題は何を聞いているかを説明する。結論を先に述べてその後答えを導き出す。やり方よりもまず何が必要かを伝える。彼女からの手紙も似ていたよ。大好きだったんだよ。っていう結論が一番最初に書かれてて、でももう一緒にいられない。忘れないでというのは難しいけど、私は忘れない。そんな言葉が書かれていたよ。どんなところが好きとかいうという理由は書いてなくてさ。そんなところが俺はすごく彼女らしいと思った。すごくいいな、って思ったよ」
「え?俺それ初めて聞いた。そんな話初めて聞いた!」
マサは口をさらに尖らせて言った。
「それって、この間のおばあちゃんと信之介さんの話みたいだな。想いが亡くなることと想いを忘れられることは同じくらいつらいっていってたよな。忘れないうちに、ツネはその気持ちを真島さんに伝えられたの?」
俺は真島さんの気持ちとツネの気持ちが同じものだと思った。
「確かに、マサにもシンノスケにも言ってないな。言ってしまえば続きがあるのかと期待してしまうから。俺たちはまだ中学生で自分だけでは自分の生き方全てを決められないから、きっと続きはないんだ。正直寂しかったよ。とっても。でも真島さんの手紙にはそんなもどかしさはなかった。潔さだけがあった。それはとても真島さんらしい」
ツネは眩しそうに目を細めながら三日月を見ている。太陽のような圧倒的な光の渦はないけれど、暗い世界に輝く細長い弓はとても美しかった。そこだけ切り取りたいくらい綺麗な三日月だった。
 今日の三日月は真島さんの横顔のような美しさだな、そんな事考えてるのかな。今のツネの顔を写真にとって真島さんに送ってあげたい。きっとあの整った顔を真っ赤にして微笑んでくれるに違いない。俺はそんな事を思いながら坂の途中にあるネコの溜まり場の公園、通称ネコ公に入った。
 ネコ公には先客がいた。茶色と白のシマシマと、真っ白いきれいな猫だった。彼だか彼女だか分からない猫たちは、誰かが置いた缶詰の餌を静かに食べていた。俺たちは食事の時間を邪魔しないように足音をしのばせて奥に入っていった。
沢山の子どもたちが今日もこの公園で楽しく遊んだのだろう。ぶらんこの前にある砂場には、ヨーグルトカップを帽子のようにかぶせた砂の塊がどんぐりの目玉をつけてもらっていた。まるで砂に顔を出したもぐらのように見える。俺はそのもぐらを踏んづけないように砂場を横切ると、ジャングルジムの三段目まで一気によじ登った。
「俺さ、さっきの真島さんの話で思い出したんだけど、真島さん、最後学校に来た時、女子たちからペンダントを餞別に貰ってたんだけどさ。三日月と星がデザインされているやつだったんだよね」
ツネがぶらんこを漕ぎながら言う。
「誰が選んだのか知らないし、真島さんはそれをつけてとても嬉しそうだったから良いんだけど」
「うんうん」
マサが下を向きながら相槌をうつ。
「俺さ、惜しいな、って思ったんだよね。月と星って一緒にあると、とても素敵な感じするけどさ、俺は三日月だけの方が良かったんだよなぁ」
マサは座った鉄棒からひょいと降りてツネの隣のぶらんこに移動しながら、
「なんで?綺麗なものはいくつ並んでも綺麗じゃん?真島さんにぴったりだったんじゃない?」
俺もそう思った。月と星と真島さん、綺麗なものが三つも揃ってるなんてなかなかない。何より美しいものたちに囲まれて育ってきたであろうツネは、輝くもの全てを手に入れたいと思っているのだろうと、勝手に思っていた。
ツネはふふと微笑みながら
「いや、真島さんがどう思うかとかじゃないんだ。俺なら、もし俺が選ぶなら月か星か、どちらかだけのものを選ぶかな。どちらも綺麗だけど、美しいものは一つでいい。一つの綺麗なものさえあれば、他は多少汚れていても大丈夫だ」
「そんなもんかねぇ。俺なら綺麗なものは出来るだけ沢山欲しいけど」
マサはぶらんこを漕ぎながら言った。
ツネは自分のぶらんこを止めてマサの方を向いて言った。
「沢山あると、有り難く思えなくなるんだよ。ぼやける、っていうのかな。せっかく綺麗なものなのにニつもあるとあれ?どっちだっけ?みたいな。比較してこっちの方が綺麗だなって思うのはまあ、あり得るんだけどさ。
折角なら最初に綺麗って思ったものをずっと眺めていたいんだよな。それだけをね」
マサは、
「ペンダントなんか要らない。真島さんが輝いていれば!って感じか?」 
と、笑いながら聞いた。
ツネははははっと声を出して笑うと、
「さすがにそれは思わないけど、綺麗って、俺の中ではキラキラしたっていう意味じゃなくて。好きって意味と同意なんだよ多分。良いなと思うものは沢山あるけど、好きなものはそんなにいくつもないと思うんだよ俺。だから、真島さんには三日月一つで充分だと思うんだよ」
「それはつまり、ツネ、真島さんのこと好きだったってことだよね?」
俺はわざと空の三日月を見ながら言った。ツネは再びぶらんこを漕ぎながら
「さあねーどうだろうねー」
って大きな声で言った。
 ジャングルジムの上から見る街はキラキラしていてとても綺麗だった。そんな街を包み込むように黒い暗い海が広がる。今日はいないけれど、時々海に浮かぶ漁船の灯が見える事がある。あそこからは、こちらの事が見えていないのに、小さい頃は良く手を振ったなぁ。宝石箱をひっくり返すほど派手な夜景ではないけど、人が住んでいるボウッと明るい灯の集合体はとてもあったかい感じがした。
幸せな事に海辺のこの町に住んでいると、朝焼けで紅色に輝く海の風景も、満月の日にできる月の光の道だって飽きるほど見ることができる。
カレンダーなどで初日の出の写真を見ても、あれ?これうちのそばの海岸でみた方が綺麗じゃね?って思う事もよくある。延々電車を乗り継いで行かなきゃいけない渋谷や新宿に憧れる俺たちにはまだ分からないが、きっと何年か後にはこの景色が泣きたいほど懐かしくなるのかな。今は分からないけど、いつかきっとね。
俺たちは何をするでもなく公園で思い思いに過ごした。ツネはぶらんこをこぎ、マサは鉄棒の上によじ登りちょこんと腰をかけている。
何にも話さないけど、公園にいるのは三人とニ匹だけだけど、そんな空間を照らす三日月も含めて俺はとても好きだと思った。

「っくしょい!」
鉄棒の上から聞こえたクシャミに驚いて、ネコたちの食事タイムが終わった。
「そろそろ行くか」
ぶらんこから華麗に飛び降りたツネの言葉に、マサと俺は無言でうなずいた。
ネコ坂を再び登り始めた俺たちの正面には、変わらずに美しい三日月が輝いていた。
団地の入り口にある花壇にはピンク色の花たちが咲いていた。ボランティアの人たちが植えてくれているものだ。寒い中でも精一杯花びらを開いている姿に少し嬉しくなる。
「今日お前んちのお母さんいるのか?」
「もうすぐ七時だろ?多分母さんはいるけど、父さんはまだ帰ってるかわかんないな…」
俺たちは団地の階段を登っていった。
マサの家を通り過ぎ、俺の家の前に着いた時だった。
「遥香、どういうことなの?」
母さんの大きな声が聞こえた。


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