三、2つのユーウツ

文字数 9,183文字

 磯やんの家を出てから、一気に足取りが重くなった。
(嫌だなぁ。家、帰りたくないなぁ)
そう思いながら信之介は、マサとツネの後をついて歩いた。今までトンカツと塩辛の香りにつつまれて幸せな気分だったのに、身についた香りの花びらが一枚一枚剥がれていくように感じた。
 ツネの家の出窓が見えてきた。出窓のカーテン越しにキノコ型のランプが置いてある。その窓から、琥珀色のやさしい灯りがもれている。小学生の時、洋館の雰囲気にも合っていて良い感じのランプだねって言ったら、あれはガレのアンティークで二十万くらいじゃない?とサラッと言われ、ギョッとしたのを覚えている。
「じゃあ、また明日な」
ツネの家の前につくと、ギギギと自動で門が開いた。
「おぅ。またな」
ツネが門をくぐるとまた、ギギギと門が閉まった。

 信之介とマサは再び歩き出した。
二人が住む団地は海岸沿いから少し坂を登った場所にある。急な坂道をくねくねと十分ほど登り続けなければいけないのが部活で疲れた足には辛いところだが、市バスも頻繁に運行しているため、不便さはあまり感じない。横を通るパスを横目に、信之介とマサはゆっくりと坂を登り始めた。
途中、木々が開けた辺りには小さな公園があり、そこには夕方になるとノラ猫がどこからともなくたくさん集まってくる。近くの魚屋がここでよく餌をやるのが原因らしい。だからか小田川第三公園という立派な正式名称があるのにこの公園は「ネコ公」、坂道は「ネコ坂」と呼ばれている。
今夜もネコ公では街灯の光を反射してギロギロと光るネコの目がいくつもみえた。ネコ公を横切り一段ときつくなった坂を登り切るとようやく、年季の入った古い建物が十棟ほど立ち並ぶ『小田川生き生き団地』が見えてくる。入居者以外通り抜け禁止の立て札が申し訳程度に立ってはいるが、この団地の裏にある紀伊神社の参道へと続くこの抜け道を使わない地元民はいない。この団地の一番奥の棟の三階にマサの、五階に俺の家がある。

「ただいま」
信之介は小さな声で言った。父さんや母さんはもう寝てるかもしれないな。そう思って靴を脱いでいると、母さんの声がした。
「今帰ってきました。はい。どうも遅くまでありがとうございます。今度ぜひうちにも。はい。では失礼いたします」
磯やんの家に電話をかけてくれていた。
「母さんただいま」
母さんは微笑みながら、
「信之介おかえり。階段登ってくる足音聞こえたから、磯田さんに御礼しといたからね」
既に寝間着を着ていた母さんは、おやすみ、というと部屋に行こうとして、あっ、と言いながら信之介の方を向いた。
「そうだ、日曜にお父さんがお店手伝って欲しいって。忙しいだろうけどお願いできる?」
「ああ、わかった」
答えてから部屋に向かおうとすると母さんが、
「そうそう。今日、遥香帰ってきているよ」
「へえ、めずらしいね」
最近正月にも滅多に帰省しない一番上の姉、遥香が帰ってきている。隣の部屋からは明かりが漏れ、下の姉の優香と喋っているのだろう。時折笑い声が聞こえる。
「一つ仕事が終えて、お休みが取れたんだそうよ。週末までいるみたい。明日ランチしようって誘ってくれたの」
「へぇよかったじゃん。美味しいもの食べておいでよ」
信之介はそういうと自分の部屋に入った。
信之介には父、母と二人の姉がいる。一番上の姉、遥香は二十五歳。国立大学を卒業したのち、大手企業に就職し今は東京で一人暮らしをしている。
もう一人は優香。高校二年生。この地域でトップクラスの進学校、国津高校の吹奏楽部に所属しコントラバスを弾いている。二人とも中学の時から優等生だったし、遥香はジャーナリストになるという、優香は音楽の先生になるという夢があった。かなり早くから目標を持って頑張っている姉たちとは違って、今のところ信之介になりたいものはない。毎日食べる朝ご飯がパンか、ご飯か、給食にデザートはついているか、とか。
おやつはアイスかポテチか、あそこの自販機で缶コーヒーを買って牛乳足して飲むと量が倍になってお得なんだよな、とか。
夕飯は肉か、はたまた魚か、麺でもいいなぁ、とか。

そういったどうでもいい事を考えているだけでも時間はどんどん過ぎる。信之介にとって未來とは明日の事で、将来なんて果てしない彼方の話である。
 これはうっすら感じている事なのだが、信之介には生まれた時から決められた道があるような気がしている。それは祖父の代から続く、車の修理工場の跡を継ぐことだ。直接父さんから言われた事はないけれど、車のタイヤ交換や点検など、週末になると店を手伝わされる頻度が増えた。部活がある週末は学校から直接店に行くこともあるくらいだ。
 店を手伝うこと自体、信之介はそんなに嫌いではない。勉強や塾よりも部品を組み込んでいく作業や、お客さんとやり取りしながらタイヤ交換する作業はとても楽しかった。何より、仕事をしている父さんがとてもかっこ良くてその姿を見ていられる事が嬉しかったのだ。
常連さんはよく、
「寺内さんのとこは信之介がいるから安心だね」
とか、
「父さんによく習っときなよ」
とか言う。そんな時父さんは決まって、
「こいつはまだまだですよー」
って笑いながら答える。その笑顔が家でテレビを見ながら笑う笑顔と違うことはさすがに信之介も気づいていた。が、その笑顔を思い出すとチクリと胸が痛む。やりたい事ってなんだろう。そう考える時間が信之介はあまり好きではない。
そもそも毎日考えることと言えば、好きなテレビ番組の曜日と、部活の顧問がいるかいないか、日直か、小テストはあるかくらいなことで、それ以外は割とどうでもいい。あえて信之介が今好きなことといえば、音楽である。中学一年のとき、新入生歓迎会で聞いたアルトサックスの格好良さに釘付けになり、迷わず吹奏楽部に入った。母さんに頼み込んで一番安い楽器を買ってもらい、安いから吹けないんだと馬鹿にされないように毎日放課後、海岸で暗くなるまで練習した。そうやって自分なりに一生懸命やるうちに吹奏楽をずっと続けたいという思いが強くなり、うっすらとだが、高校は吹奏楽の強豪校に行きたいなと思っている。けれど熱意は伝えたい人物にはなかなか伝わらない。母さんは時々見にきてはくれるが、父さんは仕事ばかりで一度も演奏会を見にきてくれた事がない。見にきた母さんが言う事は決まっていて、
「部長だからみんなの面倒みてあげてね!」
しかない。主旋律を吹く曲が多いアルトサックスは、今年のコンクールでもソロ演奏があったんだぞ!いっつもおんなじ感想ばっかりじゃなくて、たまには他の事言ってほめてくれよ。信之介はいつも思ってしまう。
廊下の鳩時計が11回鳴いた。
明日塾の宿題があるけれど今日は寝てやる!
信之介はなけなしの小遣いで買ったヘッドフォンを付けて布団に入った。
 
 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。ヘッドフォンは知らないうちに外れてしまっていてベットの隅に追いやられていた。
隣のリビングから味噌汁の匂いと、母さんと父さんの話し声が聞こえる。
「来週信之介の面談だよな?」
「そうよ。私行くつもりだけど」
「そろそろ進路指導入るだろ?俺行ってこようか?」
父さんが中学の三者面談にくる。そう思うとみぞおちのあたりがキュッとなった。信之介の進路なんて、どうでもいいと思ってるんじゃないだろうか。父さん、どうなのさ。本人には投げかけられない質問を壁に向かって小声で呟きながら、信之介は再びヘッドフォンをつけると布団を被った。寝付くまで聴いていたお笑いコンビの騒々しい深夜ラジオはとっくに終わっていて、朝にふさわしい落ち着いた声の女性が、今日は秋から冬に向かう季節にしては暖かいと話していた。

 父さんが出かけたのを確認してから、信之介はようやく部屋を出て顔を適当にバジャバシャあらうとゴシゴシとタオルで拭き、そのタオルを首にかけたまま台所に行った。台所にはラップされたボールのような丸いおにぎりが一つと、冷めた味噌汁が置いてある。
「これ食べていいのー?」
洗面所から聞こえるドライヤーの音に負けないように声を張ると、
「いーよー」
と、姉の遥香の声が聞こえた。
大口でかぶりついた真っ黒い海苔で覆われた丸いおにぎりには、たらことマヨネーズが入っていた。母さんじゃあ絶対に作らない具材だな。そんなこと考えながら口の中のご飯を味噌汁で流し込むと、信之介は身支度を整えて玄関で靴を履いた。ドアが開く時のガシャっという音の後、洗面所から出勤準備をしている母さんのいってらっしゃーいと言う声が聞こえた。今日は完璧に遅刻だ。団地の下に集団登校の小学生たちがいないということは、始業時間に間に合わない可能性があるという事だ。急いだってしょうがないからゆっくりいくか!ネコ坂に屯しているノラ猫たちに挨拶しながらゆっくり下って、ツネの家のキノコ型のランプを確認して、磯やんの家のタロの声を聞きながら、信之介はのんびりと学校に向かった。
 
 教室に入ると一時間目は自習だった。助かった!隣の席の三崎明日香が、
「寺ちゃんおはよ!今日はラッキーだね。これ課題だよ」
「ありがとう」
受け取ったプリントをみると、丸っこい字で
 [昼休みに体育館裏で待ってる]
と書いてあった。
「三崎さ、これ…」
三崎は顔の前で手を大きくヒラヒラさせ、
「あぁ〜それあたしじゃないよ。あたしはマサくん派だから」
と言って窓際の席を指差した。磯やんがニヤニヤしているではないか!なんだよ。三崎結構可愛いからちょっとドキッとしたじゃんか。三崎、お前はマサ派か!
信之介は昼休みまでをふて寝して過ごそうと決めた。
 寝ていたからか、四時間目の英語がテストで慌ただしく終わったからか、昼休みは思ったより早くやって来た。ボーっと過ごしただけなのにお腹はギュルギュルと音をたてている。給食をかっこむと、信之介は体育館裏に急いだ。
「よぉ信之介、めずらしく遅刻か?」
ツネが背を壁につけながら片手を上げた。
体育館と校庭をつなぐスロープのようになっているこの場所は雨除けの屋根が長めに出っぱっており、雨の日に陸上部が筋トレをしたりする場所として活用されている。今日みたいに暖かい日は昼休みに日向ぼっこしながらお喋りするにはもってこいのスペースである。
「信之介、俺今朝お前の家行ったんだぞ!おばちゃんに、お前まだ寝ているから先に行ってって言われてさ。お前も磯やんに呼び出されたの?」
 おばあちゃんを助けた一件があってから、信之介たち三人は何かにつけて行動を共にする仲になった。待ち合わせしているわけでもないのに気がついたら自然と一緒になった。今までずっと一緒にいた部活の連中よりも、小さい頃から知っているこいつらといる方が気が楽だと分かった。なにか面白いこと言わなくちゃ、しゃべらなくちゃって思わなくてもいい、ただいるだけでいい。そんな感じがしてとても居心地が良いのだ。
「お前ん家いいよなぁ。うるさくなくて」
後ろから声がしてビクっとすると磯やんがいた。
「なんだよ磯やん。あんなふざけた呼び出し方しやがって!」
信之介は磯やんが持ってた牛乳パックを奪い取るとストローをさしてぎゅっと飲んでやった。磯やんは
「あっ!もー!」
と悔しそうな顔で言いながら、茶色い封筒を胸ポケットから出した。
「今朝、ばあちゃんからこれをお前らに渡すように言われたんだが…これは何だ?ばあちゃんが絶対に見るなって言うからまだ見てないが、なんだか教えてくれよー頼むから!」
磯やんは封筒を手に挟んで顔の前で拝むそぶりをして言った。
信之介は封筒を掴むと、ツネに渡しながら言った。
「俺らとおばあちゃんの秘密だ!磯やん、いくらお前の頼みでもおばあちゃんがいいって言うまでは教えねえよ」
「頼むよぅ〜」
と言いながらも、磯やんは部活の昼練に行き、残った三人は体育館裏の階段に腰掛けた。
おばあちゃんからの手紙は、お茶会への招待状だった。とても美しい字で、
[寺内様、国分様、早川様
次の日曜日 午前十時より
私の相談に乗っていただきたく
お願いいたします
美味しいお茶とお菓子をご用意して
お待ちしております
ご無理なさいませんように]
と書いてあった。
美しい文字の下には可愛らしいどんぐりを抱えたリスの絵が描かれている。
「おばあちゃん、絵がうまいな」
ツネが感心したようにいった。
確かに。すごくうまい。単純な感想だが、リスは今にも動き出しそうだった。
それより。
今週の日曜か…。
信之介はため息をついた。昨日の夜、母さんに言われていたことを思い出した。父さんの手伝いがあったんだった…一気に景色が暗くなったような気がした。
「残念!おれ、日曜は行けないや。用事があってさ。みんな、おばあちゃんに謝っておいてくれ!」
信之介はなるたけ明るく言った。マサが、
「あれ?塾あったっけ?休みじゃなかったかな?」
と聞いてきた。
「いや、ちょっと用事があってさ」
「なんだよ。信之介も俺と同じ暇人かと思ったのに」
「部活か?」
立て続けに飛んでくる質問の矢に、信之介は空気が重たくなるのを感じた。その空気を救ってくれたのは咲ちゃんだった。
「みんなー。これ、おばあちゃんから」
咲ちゃんが持って来てくれたのは、茹でた栗だった。半分に切って一つ一つラップにくるまれている。磯やんの従兄弟から毎年送られてくる栗だそうだ。
「スプーンも持ってきたから、すぐ食べられるよ!」
咲ちゃんは信之介たちに半分に割れた栗と、スプーンを一つずつ配った。
「おー!嬉しい俺大好物」
マサが真っ先に一口食べた。
「上手い!」
信之介も一口すくって食べてみた。とってもなめらかな舌触りで甘くて美味しい栗だった。咲ちゃんは、
「この栗も、なにかお菓子にしようかしらとか、おばあちゃん色々考えていたよ。みんな日曜日は来られる?」

「咲ちゃんありがとう。信之介は用事があるかもしれないけど、楽しみにしてるよ。咲ちゃんも日曜はいるの?」
ツネの言葉に咲ちゃんはとたんに顔を赤くして、
「は、はい。いようかな〜!」
マサがつまらなそうに信之介を見た。マサはそのあと何か言いかけたが、休み時間の終わりを告げるチャイムがそれを阻止した。
 放課後、三人はいつもの海岸で集まろうと約束して教室に戻った。
信之介が家に帰ると、
「おかえり」
「おー!おっかえりー」
母さんと姉ちゃんの声がした。あれ?今日は姉ちゃんたちランチのあと映画見に行くって言ってなかったっけ?信之介がリビングに行くと母さんと姉ちゃんが向かい合って座っていた。
「映画行かなかったの?」
信之介は母さんに聞いた。
「今日ちょっと体調が悪くて仕事お休みしたの。だからランチも映画もキャンセル。だいぶ良くなってきたからもう平気だよ」
母さんは夏休みに自転車で怪我をして手を骨折し、ちょっとした手術をした。手術自体は成功したが今でも少し痛い日があるという。以前は父さんの会社の経理を担当してたがその怪我以来、時々手伝う程度になっていた。姉ちゃんはピースしながら、
「大丈夫大丈夫!夕飯私がつくるから」
「母さん無理しないでね。姉ちゃんなんでもいいから火傷するなよ。美味しくなくても良いからさ。俺、塾終わるの九時だから、そのころまでにはご飯作っといてねー」
姉ちゃんは
「信之介、一言多いわ!」
というと、冷蔵庫を確認に立ち上がった。母さんは
「ありがとうね。気をつけて行ってらっしゃい」
と手を振った。
信之介は塾のカバンに楽譜を入れると玄関を出た。いつもの海岸、海に沈める予定のテトラポットが置かれている場所にはもうツネが来ていた。ツネは英単語帳を持ってはいるが、持っているだけで覚えている様子はない。
ただじっと、海を眺めている。
「ツネ、どうした?」
ツネはその声に初めて信之介に気づいたようで、ああ、と笑った。
「最近単語覚えらんなくてさ、寝不足かな」
 (顔に出ないと思ってんのかなこいつは)
信之介は思った。青ざめた顔、ぼうっと先を見つめる目。明らかに何か悩んでいる時の顔だ。でも、なんかあった?って聞いても素直に話すやつじゃあないことは分かっていた。
「ふうん。俺もかあちゃんがいてサックス持ってこられなかったから、今日は単語覚えるよ。塾行くのにサックスは不自然だよね」
信之介はツネの悩み事を聞き出す前に自分の悩みを話し始めた。
「ツネ。俺さ、日曜また父さんの仕事手伝いに行くんだけど、行きたいような、行きたくないようななんだよ」
ツネが単語帳から顔を上げた。
「そうなの?お店の手伝い好きなんじゃなかったっけ」
「いやあ、嫌いじゃないけどね。最近毎週なんだもん」
信之介は愚痴をはいた。
「父さんさ、ずるいんだよ。怪我した母さんにいつも頼んで俺にいうじゃん?断れるわけないじゃん。そりゃ、車を直したりするのは楽しいよ。勉強よりよっぽど楽しい。でもそれはもっと先でも出来るじゃん。なんていうかな…その…今しかできないことをやりたいんだよね!」
話しているうちに熱くなり、テトラポットのコンクリートをバンバン手のひらで叩いていた。気づいたら手の平が真っ赤だった。ツネの悩みを聞くつもりが、自分の気持ちを吐き出す事で一所懸命になってしまった事に信之介は少し申し訳なさを感じていた。テトラポットの上に立ち上がると、声をワントーン上げて言った。
「ツネ、最近クラスでは大丈夫か?」
「まあ、いろんな奴がいるよな」
突然振られたにしては冷静に、ツネは答えた。
生徒会長もしている。頼り甲斐があり女子からの人気もある。そんな完璧なツネを、妬むやつがある一定数いることは知っていた。
「一年の時になんやかんや言ってきたやつはもう平気だろ?」
信之介は努めて明るい口調で言った。
「西条、って分かるか?」
ツネはポツリと言った。
「あ、ああ、確かマサと同じクラスだよな」
「あいつ、俺の中学受験の話知ってんだよね」
やっぱり。まだあの事で色々言う奴いるんだ。
信之介はため息をついた。

あれは小学生の頃のこと。
ツネは、

ツネはあえて面白おかしく伝えようとしてるな。空気が重くならないように。一見どんなことにも冷静で冷たい奴だと思われがちだが、俺は知ってる。ツネは本当はとても熱いやつだって事を。俺はわざと大きなため息つきながら、
「そりゃツネの成績がありゃ、どこでもご自由にだろうよ。俺にちょっと分けてくれよ」
分けたぐらいで入れたら分けてやるよ。ツネは笑いながら言った。
「うちの父は、東光大附属に行って欲しいらしいんだよね」
俺は驚いてツネをみた。
「は?東光大ってすげえ遠くね?なに?新幹線で通うわけ?」
「いやいや違うよ」
ツネは笑いながら言った。
「始発に乗ったところで間に合う場所じゃないよ。名古屋なんて毎日旅行だろ?通勤している人ならいるかもしれないが、高校生でそんな生活はできないよさすがに」
俺はなおさら訳が分からなくなった。
「通えないなら受けられないじゃん!」
俺はツネを見て言った。ツネはそうだよなあとつぶやいた後、
「ホントだよな。なんだかバカげているけど、父さんはもし合格したら、母さんと一緒に名古屋に住めというんだ」
俺は大きく首を振った。
「おい、それ絶対ダメだろ!お前、ここから居なくなったら会えないじゃん。俺、高校生になったらバンド組みたいって思っててさ、密かに、お前が医者になったら顔隠してもいいから休診日にライブやったり出来ると思ってたのに、行っちゃったら、そもそも練習とかできないじゃん。バンド組めないじゃん」
「バンドかよ?確かにうちの父さんのドラムセットがあるけどさ。それも楽しそうだな」
笑うツネに俺は畳みかけるように一気に言った。
「な?いいアイデアだろ?ツネの家にドラムあったし、マサのおじさんのところにベースもあっただろ?俺小学生の時から思ってたんだよ。俺は姉ちゃんのギターあるしさ、高校行ったらここでバンドの練習しようぜ!」
小学校の卒業式の時、謝恩会でツネのおじさんとマサのおじさん、あと数人のおじさんたちが集まって『親父バンド』という余興をやってくれた。それがなんとも言えずかっこよくて、俺も大きくなったらやってみたいと思っていたのだ。いつか誰かとやってみたい。その気持ちを最近マサとツネと過ごすようになって思い出した。高校生になったら、時間を見つけてこいつらとバンドを組みたい。勢いで口にした一言が輝きだした瞬間だった。感情を表に出さないツネにしては珍しく、大きなで言った。
「バンドやりてえなあ。ドラムやってみてえなあ。あーあ。俺は俺のなりたいものになりたいんだよ。誰かのならせたいものじゃなく、自分の意思で大人になりたいんだよ。それなのにあの人は、勝手に志望校決めて俺の将来を決めようとしているんだよ。誰の人生だよまったく!」
ツネの声が少し泣いているように聞こえた。膝の上で丸められたツネの手の甲が真っ赤だった。ツネの顔を見たかったが、もしツネが本当に泣いていたら、きっと俺には見られたくないだろうな。そう思ったらツネの拳が少しでも緩んで力が抜けてくれるのを待った。
「おーい!」
その時、聞きなれた声が後ろから飛んできた。あれはマサの声だ。マサはこんなシリアスなシーンが繰り広げられているとは全く思っていないだろう(当たり前か)教室では見せない笑顔でご機嫌に堤防の上から手を振っている。すぐそばの階段を降りれば合流できるのにどうしたんだ?
「マサ遅いぞ!」
いつもの様子に戻ったツネは、先ほどまで丸められていたこぶしを大きく開いて堤防の方に手を振りながら叫んだ。するとマサの横から、だれかの腕が振られている。よく見るとそこには、小さな小さな、磯やんのおばあちゃんがいた。
「おーい!磯やん家に行くぞぅ!栗ご飯が待ってるぞぉー!」
俺とツネは顔を見合わせて思わず吹き出した。
階段を登ると、そこにニコニコ笑顔のおばあちゃんとマサがいた。
マサはおばあちゃんと手を繋いでいた。
「さっき公園で会ったんだ。おばあちゃん、うちらの団地に栗ご飯持ってきてくれたんだけど、途中で疲れちゃって公園で休んでたんだって!三人で集まる事話したら、栗ご飯もあるからうちにおいで、ってお呼ばれしたってわけ!」
ツネはおばあちゃんが持っていた小さな巾着を
「持ちますよ」
って言いながらそっと触った。
「あら、ありがとう」
おばあちゃんまで顔を赤らめている。どんだけ紳士なんだよお前!
「シンノスケくんも栗は好きかしら?」
おばあちゃんは俺の方を向いて笑った。磯やんのおばあちゃんは若い時、きっととっても魅力的だったに違いない。おばあちゃんの笑顔には人を和ませる力がある。とても素敵だな。俺は心からそう思った。
「シンノスケ、行くぞー!」
マサはおばあちゃんの手をツネに託すと、俺の背中をポンと叩き、ピースサインをした。

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