ニ、おばあちゃんの秘密

文字数 6,376文字

ピンポーン
海岸沿いの国道から一本裏道に入った磯田家の玄関には、横にひらべったい青い壺があり、中を覗くと赤い可愛らしい金魚が三匹ほど住んでいた。さっきのチャイムの音に動じたのか、はたまたジャンプしながら階段を登ってきたマサの足音に驚いたのか、パシャッと水音を立てて右往左往している。
「こんにちはー」
チャイムを鳴らしてからしばらく返答がなかったので、留守かと思いながらも信之介は、もう一度チャイムを押そうとした。すると家の中から、
「ハイ―イソダデスーイソダデスー」
と、聞き覚えのある声が聞こえた。この声はあの時の九官鳥、タロの声だ。
「あ、タロ。元気そうでよかったな」
マサがつぶやくと、信之介もツネもうんうんと頷いた。
しばらくして家の中からトントントンと階段を降りる音が聞こえてきた。足音の主は電話をしていたようで、
「ゆりちゃんまたあとでね」
という声が聞こえ、そのあとインターフォンから
「はい。どちらさまですか?」
女の人の声がした。明らかに磯やんではない。あの声は磯やんの妹の咲ちゃんの声だった。
「こんばんはー。寺内と国分と早川でーす。咲ちゃん、磯やんいる?」
インターフォンの向こうで咲ちゃんが、
「きゃっ」
とか
「マサ君?ツネ様?」
とか叫んでいた。信之介君?って声が聞こえなかったのはきっと気のせいだろう。ガチャっとドアが開いて、見慣れたジャージ姿の咲ちゃんが現れた。いつもはポニーテールにしている髪をおろし、ピンク色のリボンがついたカチューシャを付けていた。
「お兄ちゃんなら、まだ部活だよ。」
咲ちゃんは信之介の方を向いていった。そしてツネとマサに目を向けると、あからさまに目をキラキラさせて、
「こんにちは!」
といった。学年が一つしか違わない咲ちゃんは、小学生のころからよく公園で遅くまで鬼ごっこや自転車乗りをして遊んだ仲だ。信之介たちが高学年になり外で遊ばなくなってからは登下校時見かけると手を振ったりする程度になり、同じ部活になってからは先輩後輩の関係になってなんだかよそよそしくなった。とはいえ、それは学校の中でのこと。家などで会うときには、昔のままの咲ちゃんだ。でも昔のままなのは信之介に対してだけ。咲ちゃんも女の子だ。マサとツネにはあからさまに態度を変える。マサツネコンビは後輩たちからも絶大な人気があり、どうやら咲ちゃんもファンの一人らしい。
マサがいった。
「ほらぁ。あいつエースなんだから俺たちみたいに暇じゃないんだよ。もう少ししてから出直そうぜ」
「えー帰っちゃうんですかー?」
俺には使われなかった敬語と女子得意の上目遣いで咲ちゃんはマサに言った。
その時、
「ドナター??」
また、タロの声が聞こえた。続けて、
「どなたー??」
これまた聞きなれた、落ち着いた女性の声がした。磯やんのおばあちゃんの声だ。
「こんにちはー。寺内と国分と早川です。樹くんに用事できましたー」
信之介はおばあちゃんの声が聞こえた方向に向かって大きい声で伝えた。ツネが咲ちゃんに、
「おばあちゃん、元気になった?」
と聞いた。咲ちゃんはマサに向けていた時よりもさらに目を輝かせて、
「ツ、ツネ様!ありがとうございます!は、はい。その節はありがとうございます。もうすっかり元気ですっ!!」
と、ツネの手を握らんとばかりに近づいて答えた。そこへ追い討ちをかけるように、
「ツネサマーカッコイー!!」
という、タロの声が聞こえる。
咲ちゃんは赤くなった顔を見られまいと下を向きながら無言でドアを開け、
「とにかくあがって待ってて」
と、小さな声で言った。
(ちぇーなんだよ。咲ちゃんもツネ様って呼んでるよ)
信之介は心の中でため息をついた。ツネに様が付くなら、信之介なんか吹奏楽部の部長様と呼ばれなきゃおかしい。
「咲ちゃんこの間は、タオルありがとうね。大切に使っているよ」
ツネが靴を脱いだあと微笑みながら言った。咲ちゃんは、
「は、はい!使って頂けて嬉しいです!」
と、満面の笑みで答えた。タオルってなんだよ?そんなのもらった事ないよ。同じ部活なのに。
 信之介がふてくされた顔をしながら磯やんの家の玄関で靴を脱ごうとしゃがみ込んだ時、ようやく待ち人が現れた。あちーあちーと近所の新聞屋で配っているうちわでぱたぱたとあおぎながら磯やんが帰ってきた。
「十月にもなるのにうちわ持ってるのはおまえくらいだよ」
マサがあきれ顔で磯やんに顔を近づけると、
「磯やんちょっと汗臭いって。ツネとは大違いだな。ツネはどんなときでもちょっと良い匂いがするんだぞ。咲ちゃんがツネ様呼びするのも分かるわ」
と、今度はツネに顔を近づけて匂いを嗅ぐふりをした。咲ちゃんもマサに便乗してクンクンやっている。信之介もこっそりツネに顔を近づけるとなるほどマサが言う通り、いいにおいがする。ツネは自分の鼻を制服のシャツに近づけて匂いを嗅いだ。
「ああ、これ、家のアロマキャンドルの匂いだ。父さんが好きな匂いなんだよ。海を思い出す匂いだって」
かっこいい、、、と咲ちゃんがつぶやくのを信之介は聞き逃さなかった。そうかモテる奴はこういう匂いなんだな。よし、後でツネに聞いてアロマなんちゃらを買ってやる!信之介がそんな事を考えていると、汗臭いと言われたことなど全く気にしていない様子の磯やんは、
「おー!みんな待たせて悪かったな。こないだの試合の反省会があってさー、なかなか終わんなくてさー。待たせて悪い!ささ、上がれよ!」
と、ニコニコしながら言った。
「え?お兄ちゃん約束してたの?」
咲ちゃんは驚いて磯やんシャツを引っ張り、小声で言った。
「ねえ、あのお兄ちゃんの部屋に行くの?ほんとに?約束してるなら部屋もうちょい片付けた方がいいんじゃない?」
磯やんはやっぱりニコニコしながら、なにがぁ?みたいな顔をして答えた。
「昨日ちょっとコロコロでさーってやっといたぜ。平気平気!今日はこれから中間テストの勉強することになってんだよ。母ちゃんには言ってあるから」
そういうと磯やんは靴を脱ぐと自分の青いスリッパを履き、二階へと続く階段を二、三段のぼったところから俺たちを手招きした。信之介たちは、
「おじゃましまーす」
と言いながら磯やんの家にあがった。磯やんの家は新品の畳の匂いがした。


 磯やんの家で夕飯を食べることになった信之介とマサとツネは、おばさんが揚げてくれた大量の一口カツをほおばる磯やんの食欲に負けじと次から次へと食べた。おばあちゃんがつけた大根のぬか漬け、甘辛く煮た里芋。どれもとても美味しかったが、中でも磯田家特製イカの塩辛入りポテトサラダは絶品だった。マヨネーズの酸味と塩辛のしょっぱさ、じゃがいもの甘みが重なり最高だった。大変豪華な夕食を、仕事を終えた磯やんのおじさんもおばあちゃんも一緒にみんなで食べた。勉強会に呼ばれたと思ってばかりいた信之介たちだが、磯田家ではおばあちゃんを助けてくれたお礼をしようという事になっていたらしい。たしかに、お礼でお招きいただいていたら気を遣っていたかもしれない。
おじさんもおばさんもおばあちゃんも、信之介たちの部活の話や学校の話をとても興味深そうに聞いてくれた。警察から感謝状をもらった時の写真が学校だけでなく、商店街にも張り出されていてイケメン三人衆と噂されているという嬉しい話もきかせてくれた。(学校で配られた広報の号外を見ながらクラスメイトが『二人はイケてるのにね…』と話していたのを信之介は聞き逃さなかったが、まあいい)困っている人を助ける。当たり前のことをしただけなのに、こんなに感謝されるなんてなんだか気恥ずかしくてくすぐったく思えた。
「樹はいつも家では、うーん、とかおー、としか言わないし、部活から帰ってきたらすぐ寝ちゃうし学校のこと何も言わないんだよ。だからみんなから学校の話を聞けるのはとても貴重だし、とても嬉しいんだよ。教えてくれてありがとうね」
おばさんは磯やんの方を軽くにらみながら言った。
「あれだけ部活やってたら眠くなるって!早弁して時々先生に怒られるけど、誰にでも優しいから磯やんはクラスでも人気者だよな、な!」
信之介は磯やんを擁護するため、マサとツネの方を見ながら言った。マサは一口カツをほおばりながら頷き、ツネはポテトサラダを取ってくれた咲ちゃんに『アリガトウ』と口を動かしながらほほ笑んでいる。
「咲ちゃん、俺にもポテサラ取ってよ」
そう言って差し出したお皿に咲ちゃんは手を合わせて、
「信之介くんごめん!今ので最後だー」
「残念だったな信之介。分けてやりたいけど、俺も食べ終わっちゃうわ!」
わざと大きな口を開けてポテトサラダを食べていたずらっぽく言うツネがおかしくて、信之介は吹き出してしまった。そういえばあんな顔見るの小学校以来だ。信之介の笑い声につられて咲ちゃんが笑い、マサが笑い、終いにはおじさんもおばさんもおばあちゃんまでもがけらけらと大笑いを始めた。笑い声に包まれた食卓は新しい畳の匂いに幸せな記憶を付け加えてみんなの心にインプットされた。
 夕食後、これまた大量の巨峰とシャインマスカットを食べながら、磯やんのおじさんとおばさんは改まった顔で信之介たちに言った。
「何度も言うよ。この間はうちのおばあちゃんを助けてくれて本当に感謝しています。信之介くん、正美くん、常くん、ありがとうございました。どうかこれからもずっと樹と仲良くしてやってください!」
おじさんは
「はやくみんなと一緒に飲みたいぞ」
と言いながら嬉しそうにビールを飲んだ。おばさんが、
「今日はその一本でおしまいにしてくださいね。みんなにはお茶いれるわ」
と言いながら、空になったフルーツのお皿をもって立ち上がった。咲ちゃんも小皿を重ねるとおばさんのあとに続いて台所に向かって歩いていった。その時、おばあちゃんが俺の隣にやってきて、小さな声で言った。
「信之介くんの漢字はどうやって書くの?」
「ああ、僕の漢字は、お寺の寺に、内野手の内、信じる、紀貫之の之に、紹介するの介で、寺内信之介です」
気のせいか、おばあちゃんの頬が赤くなった気がした。
「そうなの。素敵な名前ね。あら、もうこんな時間!そろそろ寝るね。お休みなさい!」
おばあちゃんはよいしょと立ち上がると、みんなに、
「おやすみ」
と言いながら自分の部屋に帰って行った。
時刻は午後十時を過ぎていた。
「おっ!もうこんな時間だ!そろそろ帰らなきゃ!」
マサの声で会はお開きとなった。それぞれがおじさんおばさんにお礼を言って磯やんの家を出た。おじさんお手製の塩辛をお土産にともらって、お腹も心も満腹の実に楽しい夜だった。玄関を出てると外はもう真っ暗闇で、街灯の明かりと、雲に隠れた三日月が時々顔を出していた。
そろそろ身体が晩秋の冷たい風に慣れてきたころだろうか。ツネが、
「あ!悪い俺忘れ物した!」
と大声で言った。続いてマサも、
「俺もだ!」
「二人して何忘れたんだ?」
信之介はツネに聞いた。
「さっきもらった塩辛だよ。信之介が持っているの見て思い出した!俺たち、磯やんの家を出る前に手を洗わせてもらったんだけど、その時洗面所の台の上に忘れてきた。せっかくもらったものなのに忘れるなんて、大事にしてないと思われる」
「まだ戻れるよ。取りに戻ろう」
信之介たちはダッシュで磯やんの家に戻った。インターフォンの前に立ち、チャイムを押そうとしたその時だった。ドアの内側から、おばあちゃんの声が聞こえてきた。ドア越しの声なのでとても小さな声だったが、静かな住宅街の中で耳を澄ましていれば聞こえてしまう声だった。
「しんのすけさん、しんのすけさん。やっと会えたわね。タロちゃんのおかげね。ありがとうね」
おばあちゃんはどうやら九官鳥のタロに、ひたすら信之介の名前をつぶやいているらしかった。何でおばあちゃんが信之介に会えたことをやっとといったのか?そもそも孫の同級生をさん付けするのか、まったく理由が分からなかった。マサが、
「しんのすけさんって、、シンノスケの事?」
と、信之介の肩をたたいて言った。信之介がさっぱり理由が分からないといったふうに振った手が、ツネの肩に当たった。ツネは不意打ちを食らってよろけた。その拍子に磯やん家のドアにこつんと体が当たる。…その時だ。
「アヤコサーン!」
家の中でタロが大きな声で鳴いた。そのすぐあとにガチャっとドアが開いて、バツの悪そうな顔のおばあちゃんが出てきた。
「お、俺たちちょっと忘れ物をしてしまって、、」
なんとも居心地の悪い空気が信之介たちを包んだ。
「そうだったのね。どうぞどうぞ、取っていらっしゃい」
おばあちゃんは、茶色い封筒のようなものをカーディガンのポケットにしまって信之介たちを招き入れた。マサとツネは、
「すみません」
と小さくつぶやきながら洗面所へと急いでいった。おばあちゃんはまるで何事もなかったかのように、信之介に向かって、
「遅いから気をつけて帰ってね」
と言うと、玄関から一番近い自分の部屋に入ろうとした時だ。さっきポケットにしまったはずの封筒がぽとんとおちた。おばあちゃんは気づかずにドアを閉めてしまった。
「あ!」
信之介はとっさに靴を脱いで封筒を拾った。そして目を疑った。
その封筒には、とっても綺麗な字で、
表に
[綾子さんへ]
裏に
[寺内 信之介]

と書いてあった。驚いて立ちすくむ信之介に、封筒を落とした事にようやく気が付いたおばあちゃんが部屋から出てくると、呟くように小さな声で言った。
「ばれちゃったか…」
「お、おばあちゃん、これ、どうしたの??信之介から手紙?信之介、こんな字がうまかったっけ??」
いつの間にか隣にいたマサがおばあちゃんに聞いた。
おばあちゃんは恥ずかしそうに、
「誰にも内緒だよ。おじいちゃんにも話した事ないんだから」
と言うと、おばあちゃんは口元に人差し指を立て、自分の部屋に手招きした。おばあちゃんの部屋は磯やんのリビングとはまた違った、レモンのいい匂いがした。おばあちゃんはタンスの上の小さな仏壇にあるおじいちゃんの写真をパタンと伏せると、話し始めた。
「これはね、私が初めてもらったラブレターなのよ」
おばあちゃんはその手紙を信之介に渡した。
「いいよいいよ。それおばあちゃん宛のラブレターなんでしょう?なら、俺読まないよ。いいよ」
信之介は慌てておばあちゃんに手紙を返した。
 再び気まずい沈黙が訪れた。
そこへノックの音がした。
「おばあちゃん、シンノスケくんたちまだいるの?」
咲ちゃんの声だ。ツネが慌てて答える。
「咲ちゃん、俺たち忘れ物しちゃって。もう帰るよ。遅くまでごめんね」
咲ちゃんはドアを開けると、信之介とおばあちゃんが持っている封筒をみて、
「ラブレター、って、聞こえたけど…」
と、不思議そうに、でも興味深そうに聞いた。
事態はさらに気まずい方向に進んでいることは明らかだった。
と、その時だ。例のあの甲高いタロの声がどんよりした沈黙を破った。
覚えたての言葉だからだろう。へんな節がついて、奇妙な歌みたいに聞こえた。
「シンノスケサーン!シンノスケサーン!ヤットー!アエター!」
咲ちゃんがぷっと笑った。
続いてマサ、ツネもククッと笑った。
おばあちゃんも信之介も、つられて笑ってしまった。
ゲラゲラ、ヒーヒー言いながら笑い続けた。終いには何がおかしかったのか忘れちゃうくらいに。
落ち着いてきたころ、おばあちゃんが言った。
「ラブレターの話はまた今度話すわね。必ず。約束するよ。また遊びにきてね。絶対よ。さ、今日は遅いから。気をつけて帰ってね」
そしてもう一度人差し指を口もとに手を持っていって、
「絶対に、お父さんとお母さんには内緒だよ」
と言った。
 信之介たちは大きく頷くと、外に出て今度こそ家路を急いだ。
いつのまにか雲は消え、すこしふっくらした三日月が三人を照らしていた。






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