家たち

文字数 1,965文字

 海釣りに出かけることにした。
 たいした経験も無いのに誘われてその気になったのは、行き先がよく知っている場所だったからだ。
 三陸の半島部にある小さな港町だ。母方の祖父母の家があり、子供の頃は春夏冬、長い休みの大半をそこで過ごしていた。
 父の転勤で引っ越しが多かった私にとって、そこは確実にある故郷と言えた。
 ところが、あの大震災だ。祖父母はなんとか助かったものの、家は町もろとも海にのみこまれた。祖父母は内陸部に移り住み、墓も移した今となっては、こんな機会でもなければまず行くことはない。
 と言うわけで会社の同僚数人と車に乗り、半島への道を辿った。カーブの多い山道からは、木立を透かして入り組んだ岬や島影が見えた。
 まだ春のはじめ、木々は冬枯れていたが、海はのどかに凪いでいた。昔通りの美しい光景だ。
 県道の幾つめかの峠を越えると、小さな湾が見下ろせた。町並みは漁港を抱くように広がっていて、桟橋の近くに祖父母の家はあった。
 いまはただ、どこになにがあったのかもさだかではない、がらんとした更地になっている。町跡に公園を造るという計画は、手つかずのままらしかった。
 釣り船付きの民宿に泊まることになっていた。県道の山側、坂の上にある昔からの宿で、津波の被害は受けていない。
 船は早朝出してもらうことにして、その晩は皆で酒を飲んだ。明日は早いからと言いながらも、お開きになったのは十二時に近いころだったろうか。
 酔いに任せ、寝る前にふらりとひとり外に出た。
 ところどころある街灯が夜道を照らしていた。
 星がまばらな暗い空と海の境目は、向かいの島の明かりでようやく見分けられた。
 宿の半天にサンダル履きでは寒いのも当然だ。県道に下りたあたりでもう引き返そうと考えた。
 その時、鼻先にひらりと白いものが落ちてきた。
 空を見上げる。
 雪だった。
 三月半ば。まだそういう季節なのだ。
 視線を戻した私は、道の向かい側のバス停に気づいた。昼間は見過ごしてしまったのか。木のベンチ一つきりの小さな待合所は、三角形の屋根まで以前と同じ形だ。
 雪は、絶え間なく降ってきた。そのせいかどうか、バス停の向こうの空がぼっと明るんで見えた。
 車一台通らない県道を渡り、私はバス停に近づいた。バス停の脇に石塀に挟まれた路地がある。
 路地を抜けると、当然のように家並みがあった。どの家からも、煌々と明かりがもれていた。
 私は寒さも忘れて町中に入った。
 すべてに見覚えがあった。路地の脇は煙草屋だ。向かいは床屋。やさしげな老夫婦が営んでいた。
 少し先は十字路で、道をまっすぐに行くと、町で唯一の雑貨屋がある。夏にはそこでアイスを買うのが楽しみだった。
 左に曲がるともう海が見える。角から三件目が祖父母の家だ。
 私は急ぎ足でそちらに向かった。
 けれど、家々に人の気配はなかった。電気がついているのだから寝静まっているわけでもない。降りしきる雪の中、ただしんとして並んでいる。
 祖父母の家の前に立った。小さな庭がある、総二階の家。
 道路に面した台所の窓からも明かりがもれていた。磨りガラスごしに、人影はなかったが。
 いつのまにか、プランターの並ぶ庭を横切り、玄関まで来ていた。何度も何度も、繰り返し開けてきた古い引き戸の玄関だ。
 昔々にいとこたちと描いた壁の落書き。やたらとうるさい音をたてていた茶の間の振り子時計や、二階の廊下の黒い木目。
 さまざまな思い出が、とりとめもなくよみがえってきた。
 そういったものすべてに、また会えるのだろうか。
 この玄関を開けば?
 私は、思わず引き戸に手をかけた。
 その時、家が身震いした。
 一瞬、かすかだったが、はっきりと分かった。
 悦びに、おののくような震えだった。
 私は我に返った。
 これは、もうあるはずのない家、あるはずのない町なのだ。
 私はきびすをかえし、夢中で駆け出した。
 いくら走っても、県道に出ることはできなかった。
 路地に入りバス停の所に行こうとしても、気がつけばがらんとした人気のない町中に立っている。
 雪は、いつのまにかやんでいた。
 
 私はいま、祖父母の家に住んでいる。
 とっぷりと、なつかしい空間だ。
 ほかの家にも入って、ちょくちょく窓などを開け放ってやる。
 家たちの、満足げなため息が聞こえてくる。
 祈りをかさね、亡くなった多くの人々の魂が鎮まった後でも、家たちの思いはまだ海にたゆたっているのだろう。
 あの三月の日のような雪の夜などに、(あるじ)を求めて現れる。
 家には人が必要なのだ。

 次に雪が降ったとき、私は県道を渡れるだろうか。
 
 家たちを残していけるだろうか。

 

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