すずめ
文字数 1,846文字
ベランダに、雀がよく来るようになった。
向かいの古い一戸建てが壊されて、駐車場になってからだ。
家を囲んでいたたくさんの庭木も無くなり、雀たちは憩いの場を失ってしまった。
響子 の住むワンルームは三階にある。ベランダの手すりは、止まり木代わりにちょうどいいらしい。
初めは響子も気にしなかった。ちいちい鳴きながら手すりを跳ねる雀は愛らしかった。親子で訪れて、子どものおぼつかない飛行を見守る親もいて、ほほえましく眺めたものだった。
しかし、それは束の間のこと。
彼らには、おまけがつきものだ。
響子が仕事に行って留守の昼、雀たちは存分にベランダを行き来する。そこかしこに落としていった糞を、毎朝のように掃除しなければならないのだ。
やがて、うんざりしてきた。家にいる時に追い払おうとしても、雀は人間に慣れっいる。すぐ側まで行かないと逃げることもない。鳥除けの反射板を吊してみたけれど、役に立ったのは始めのうちだけだった。
その朝、洗濯物を干そうとベランダに出ると、一羽の雀が手すりに止まっていた。響子が近づいてもかまわずのどかにさえずっている。
「こら!」
ただ驚かすだけのつもりだった。響子は、持っていたタオルを振り上げた。
しかしタオルの先は思いがけず長く、飛び立つ寸前の雀にぴしゃりとぶつかった。
声を上げる暇もなかった。濡れたタオルだから衝撃は大きい。
すずめの身体はベランダに叩きつけられ、動かなくなった。
「 ああ、ごめんね」
響子は頭を抱えた。
「もう。あんたがわるいのよ」
響子はサンダルでそっと雀をつついた。
雀はぴくりともしなかった。嘴から、少し血が流れていた。
ちょっとした不運だったのだ。
雀も私も。
響子はため息をつき、ちりとりで雀を拾い上げて紙に包んだ。
袋に入れ、塵置き場に捨てた。
夜、風呂に入ろうとした響子は眉を上げた。
湯船の真ん中に何か浮いている。茶色のふわふわとした、吹けば飛んでしまいそうな──。
羽根だ。
雀の?
響子は顔をしかめた。ベランダを開けた時に入って来たのだろうか。こんなところにまで。
もっと効き目のある雀除けの方法を調べなければ。
そう思いながら寝についた。
夜半にふと目が覚めた。
暗闇の中、物音が聞こえる。
物音と言うよりかすかな、空気を打つ音。
鳥の羽音──?
響子は、ぎょっとして身を起こした。
その時、何かが頬をかすめた。さわっと羽が撫でるように。
響子は、息をのんで身構えた。
遮光カーテンを引いているので部屋の中は真っ暗だ。電気をつけようと枕元に手を伸ばす。
右手はリモコンではない別のものを掴んだ。
手のひらにすっぽり収まる、柔らかな羽の感触。
それに包まれたこりこりした肉と骨。
響子は声にならない声をあげ、手の中のものを払い落とした。
ベッドから降りたとたん、足がぐしゃりと何かを踏んだ。
素足の踝の裏で、弾力のあるそれが潰れたことがはっきりとわかった。足の裏がぬめぬめとして滑りそうになった。
響子は悲鳴をあげて、カーテンにしがみついた。
外の灯りが漏れ、部屋の中がうっすらと明るんだ。
息を弾ませて振り向くと、ベッドの脇に人の大きさほどの黒い影がわだかまっていた。
薄暗がりの中で影は密度を増し、しだいに大きくなっていく。
響子は、目を見開いた。
影が跳ねた。一度、二度。
跳ねながら近づいてくる。
両側が、翼のようにゆっくりとひろがった。風切り羽のかたちが、はっきりと見て取れた。
響子は後ずさり、必死で窓を開けた。ベランダに一歩踏み出して、立ちつくす。
ベランダいっぱいに、小さなものたちがひしめきあっている。
手すりにも、物干し竿にも。
雀。
逆光で輪郭だけが浮かび上がった彼らは、じっと動かなかった。
その幾百もの目が、暗い赫 きを帯びて響子に向けられていた。
部屋に戻ろうにも、背後の影はますます膨れあがってくるようだ。
半狂乱で響子は叫んだ。
「なんなのよ、いったい!」
凄まじい羽音がたった。
雀たちがいっせいに響子に向かってきた。
響子は、両手両足を振りまわした。
前が見えない。
礫のようにぶつかってくる羽毛の塊に、息もできなくなっていた。
響子は悲鳴をあげて逃げ惑った。
と、鋭い風がおこった。
何かに弾き飛ばされたように、響子の身体はベランダに叩きつけられた。
悲鳴が途切れた。
響子の首は、がくりと曲がった。
雀の姿は消えていた。
響子は、ぴくりともしなかった。
唇から、少し血が流れていた。
向かいの古い一戸建てが壊されて、駐車場になってからだ。
家を囲んでいたたくさんの庭木も無くなり、雀たちは憩いの場を失ってしまった。
初めは響子も気にしなかった。ちいちい鳴きながら手すりを跳ねる雀は愛らしかった。親子で訪れて、子どものおぼつかない飛行を見守る親もいて、ほほえましく眺めたものだった。
しかし、それは束の間のこと。
彼らには、おまけがつきものだ。
響子が仕事に行って留守の昼、雀たちは存分にベランダを行き来する。そこかしこに落としていった糞を、毎朝のように掃除しなければならないのだ。
やがて、うんざりしてきた。家にいる時に追い払おうとしても、雀は人間に慣れっいる。すぐ側まで行かないと逃げることもない。鳥除けの反射板を吊してみたけれど、役に立ったのは始めのうちだけだった。
その朝、洗濯物を干そうとベランダに出ると、一羽の雀が手すりに止まっていた。響子が近づいてもかまわずのどかにさえずっている。
「こら!」
ただ驚かすだけのつもりだった。響子は、持っていたタオルを振り上げた。
しかしタオルの先は思いがけず長く、飛び立つ寸前の雀にぴしゃりとぶつかった。
声を上げる暇もなかった。濡れたタオルだから衝撃は大きい。
すずめの身体はベランダに叩きつけられ、動かなくなった。
「 ああ、ごめんね」
響子は頭を抱えた。
「もう。あんたがわるいのよ」
響子はサンダルでそっと雀をつついた。
雀はぴくりともしなかった。嘴から、少し血が流れていた。
ちょっとした不運だったのだ。
雀も私も。
響子はため息をつき、ちりとりで雀を拾い上げて紙に包んだ。
袋に入れ、塵置き場に捨てた。
夜、風呂に入ろうとした響子は眉を上げた。
湯船の真ん中に何か浮いている。茶色のふわふわとした、吹けば飛んでしまいそうな──。
羽根だ。
雀の?
響子は顔をしかめた。ベランダを開けた時に入って来たのだろうか。こんなところにまで。
もっと効き目のある雀除けの方法を調べなければ。
そう思いながら寝についた。
夜半にふと目が覚めた。
暗闇の中、物音が聞こえる。
物音と言うよりかすかな、空気を打つ音。
鳥の羽音──?
響子は、ぎょっとして身を起こした。
その時、何かが頬をかすめた。さわっと羽が撫でるように。
響子は、息をのんで身構えた。
遮光カーテンを引いているので部屋の中は真っ暗だ。電気をつけようと枕元に手を伸ばす。
右手はリモコンではない別のものを掴んだ。
手のひらにすっぽり収まる、柔らかな羽の感触。
それに包まれたこりこりした肉と骨。
響子は声にならない声をあげ、手の中のものを払い落とした。
ベッドから降りたとたん、足がぐしゃりと何かを踏んだ。
素足の踝の裏で、弾力のあるそれが潰れたことがはっきりとわかった。足の裏がぬめぬめとして滑りそうになった。
響子は悲鳴をあげて、カーテンにしがみついた。
外の灯りが漏れ、部屋の中がうっすらと明るんだ。
息を弾ませて振り向くと、ベッドの脇に人の大きさほどの黒い影がわだかまっていた。
薄暗がりの中で影は密度を増し、しだいに大きくなっていく。
響子は、目を見開いた。
影が跳ねた。一度、二度。
跳ねながら近づいてくる。
両側が、翼のようにゆっくりとひろがった。風切り羽のかたちが、はっきりと見て取れた。
響子は後ずさり、必死で窓を開けた。ベランダに一歩踏み出して、立ちつくす。
ベランダいっぱいに、小さなものたちがひしめきあっている。
手すりにも、物干し竿にも。
雀。
逆光で輪郭だけが浮かび上がった彼らは、じっと動かなかった。
その幾百もの目が、暗い
部屋に戻ろうにも、背後の影はますます膨れあがってくるようだ。
半狂乱で響子は叫んだ。
「なんなのよ、いったい!」
凄まじい羽音がたった。
雀たちがいっせいに響子に向かってきた。
響子は、両手両足を振りまわした。
前が見えない。
礫のようにぶつかってくる羽毛の塊に、息もできなくなっていた。
響子は悲鳴をあげて逃げ惑った。
と、鋭い風がおこった。
何かに弾き飛ばされたように、響子の身体はベランダに叩きつけられた。
悲鳴が途切れた。
響子の首は、がくりと曲がった。
雀の姿は消えていた。
響子は、ぴくりともしなかった。
唇から、少し血が流れていた。