母の気がかり

文字数 1,307文字

 母は、仏間に座っていた。
 いっぱいに白い花が供えられた仏壇の前に。
 微笑む自分の遺影とはちがい、さびしげに顔を伏せていた。
 初七日が終わり、臨終からの慌ただしさに一息ついた時だった。ぼくは、仏間で書類の整理をしている父にコーヒーを持って行ったのだ。
 ぼくは小さく声を上げ、あやうくコーヒーを落としそうになった。
「どうした」
 父は、けげんそうにぼくの顔をのぞきこむ。
 ぼくは、はっとして父を見つめた。
 父は気づいていない。
 そこにいる母の姿が、父には見えていないのだ。
 母はぼくと目を合わせ、静かに微笑んだ。ないしょにしてね、とでも言うように。
 いいよ、父には黙っていよう。
 父に、ちょっとした優越感を覚えた。
 母は、ぼくにだけ姿を見せてくれるのだ。

 おっとりとして優しかった母は、まる一年病魔と戦い、力つきた。
 父と高校に入ったばかりのぼくが残された。
 男二人だけの所帯が心配でたまらないらしい。
 はじめこそ仏間にばかりいた母だったが、だんだんと幽霊にも慣れてきたとみえる。ぼくが悪戦苦闘している台所や、寝過ごしそうになる朝の枕元にも来てくれるようになった。
 父はいつも仕事で帰りが遅い。誰もいない家に帰るより、母が待っていると思う方がずっとよかった。

 母の一周忌が終わって間もない休日、父が女の人を連れてきた。
 森下さんだと紹介された。なんとなく母と似た感じの人だったが、父より十は若そうだ。
 休みのたびに、森下さんは顔を見せるようになった。たまった家事をあれこれとこなし、いっしょに夕飯を食べて帰って行く。
 気さくないい人だった。森下さんといるとき、父はよく笑った。
 何度目かの休日、森下さんの運転する車を見送った後で、父は口ごもりながら言った。
「どう思う?」
「なにを?」
「あの人に、この家に来てもらおうと思うんだが」
「再婚、てこと?」
 父は黙ってうなずいた。
 父は、もう決めている。
 父の人生だ。ぼくには、反対しようがない。
 だが、母はどうなるのだろう。
 森下さんがいる間は、いつも仏間から出てこなかった。森下さんが仏間を掃除している時は、ぼくの部屋に避難してくる。悲しそうな顔をして。
 森下さんがこの家に入っても、母はいてくれるだろうか。それとも──。
 仏間をのぞくと、母はいなかった。
 ぼくは、母を探した。
 台所にも、ぼくの部屋にも、どこにもいない。
 まさか、自分の役目は終わったと、消えてしまったのか。
 電話が鳴った。
 受話器を取った父が、絶句した。
「わかりました……」
 やがて、震える声で父は言った。
「……すぐ、行きます」
「どうしたの?」
「森下さんの車が、事故を起こしたそうだ」
 父の目は、すでに真っ赤になっていた。
 家からの帰り道、森下さんは何かを避けるようにハンドルを切り、ガードレールにぶつかったという。
 車は炎上した。
 父は、急いで病院に向かった。
 残されたぼくは、ぼんやりと仏間に入った。
 母は帰っていた。
 仏壇の前に座って微笑んでいる。
 ぼくを見ると、気まずそうに目をそらした。
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