龍と虹の少女
文字数 2,322文字
テーブルを片づけながら、私はちらと窓際のお客に目を向ける。
その人は、ゆっくりと視線をそらす。
アルバイト先の喫茶店に、近ごろ毎日のように来る人だ。たいてい窓際の小さい席でパソコンを広げている。長い足をもてあまし、窮屈そうに。三十才くらいだろうか。落ち着いているから、もっと上かもしれない。
茶色がかった長めの髪、異国の血が混じっているような、彫りの深い整った顔立ち。
一度雑誌で見たことがあるから、名前は知っていた。童話作家の藤宮龍矢 さんだ。龍や妖精が出てくるきれいな物語を書いていて、何作か読んだこともある。
そんな人が店の常連というのは嬉しいことだ。
だが、そればかりではない。
藤宮さんは、いつも私を見ている。
いつも視線を感じてしまう。
なぜなのだろう。
私は、平凡な女の子だ。むしろ、地味で目立たない。
はじめは、私の思いすごしだと考えた。でも、藤宮さんの視線の先には私しかいなかった。目が合いそうになると、私たちは同時にうつむいてしまうのだ。
胸がくすぐったくなるような甘い空想をしては、打ち消す日々が続いた。
まさかね。
藤森さんが店に来るのは、私めあてだなんて。
家に並べた藤宮さんの本をうっとり眺め、そのたびに心が苦しくなった。いっそ、もう会えない方がいいのに。
その日、藤森さんは店に来なかった。
寂しかった。望んでいたこととはいえ、これほど辛くなるとは思えなかった。
仕事を終えて店を出ると、目の前に藤宮さんが立っていた。
私は息を呑んだ。顔がみるみる紅潮していくのが自分でもわかった。
藤宮さんは、私に軽く会釈した。
「少し、一緒に歩かない」
私は、どきまぎしながら、ようやく頷いた。
藤宮さんはとても背が高い。見上げると、眉を少しひそめた硬い表情。
「ずっと、きみを見ていた」
藤宮さんは、つぶやいた。
「確かめたかった」
「え?」
「きみが、私が探している人かどうか」
藤宮さんは何を言っているのだろう。
私たちは、街はずれの公園に入っていた。秋にしては暖かい日の夕方だった。平日なので人気はあまりない。花壇の前のベンチで、白髪のおばあさんが、のんびり本を読んでいた。
「『龍と虹の少女』、読んだことある?」
「もちろん」
私は小さく言った。
「好きです、あのお話」
藤宮さんのデビュー作だ。
ある山の洞窟深く、一匹の龍が棲んでいた。洞窟の入り口には滝があり、美しい虹が消えることはなかった。
人々は神の使いとして龍を崇め、季節ごとの供物を絶やさなかったけれど、ある年飢饉にみまわれた。思いあまった人々は少女を一人、龍に差し出した。
人身御供など望んでいなかった龍は困り果てるが、やさしい少女は龍とともに暮らし、やがて互いに愛しあうようになる。
幸せな生活を贈ってた龍と少女の前に現れたのは旅の剣士。龍退治に洞窟を訪れ、龍をかばった少女を殺してしまう。龍の怒りと悲しみはすさまじく、剣士を噛み殺した後、自分も心臓を食い破って命を絶った。少女がどんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、彼女を見つけ出すだろうと言い残して。
いくつもの転生を経て、虹の下、龍と少女は再び巡り会う──。
「あれは、ほんとうの話なんだ」
藤宮さんは大きな銀杏の木の下で立ち止まった。
「少女と巡り会うことをのぞいてはね」
藤宮さんは、まっすぐに私を見おろしている。
「私は龍だった」
私はあっけにとられて、藤宮さんを見返した。冗談を言っている顔ではなかった。
本当に?
それでは、虹の少女とは私のこと?
胸が高鳴った。
どんな世界、どんな姿になっても、藤宮さんはずっと私を捜し続けてくれたのだろうか。
藤宮さんは、私の肩に両手をのせた。
「それと、書かなかったこともある。龍は、剣士にも言った。どんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、おまえを見つけ出しては殺してやる」
長い指が、そろそろと私の首に這い上がってくる。藤宮さんの目が、何か異様な光を帯びてくる。
「待って‥‥」
「わたしは、おまえを殺し続けている。繰り返し繰り返し。何度生まれ変わっても彼女とは会えない。現れるのは、おまえばかりだ」
「私は‥‥」
「剣士の転生だ」
私は逃げようとしたが、身体が動かなかった。叫ぼうにも声が出なかった。
藤宮さんの指が私の喉にくい込んでくる。龍の鈎爪のように。
私は、恐怖に固く目を閉じた。
「もうやめて」
ちいさな声がした。藤宮さんの手がゆるんだ。
そろそろと目を開くと、ベンチに座っていたおばあさんが藤宮さんの手をとっている。
藤宮さんは、驚いたようにおばあさんを見つめていた。
「あなたは、憎しみに目がくらんで、私よりもその人ばかり捜していた」
藤宮さんは私から手を離し、じっとおばあさんを見つめた。
「ああ──」
「おかげで、いつもすれ違い」
「そうだったのか‥‥」
「私はここよ」
おばあさんは、やさしく微笑んだ。
「こんな姿になったけれど」
藤宮さんはうつむき、何度も何度もかぶりをふった。そして、おばあさんを抱きしめた。
おばあさんの身体は藤宮さんにすっぽりと包まれた。小さな皺だらけの手だけが、その震える背中をさすっていた。
「もういいわね、許してあげて」
藤宮さんは子供のように頷いた。
「行きましょう。私には、あまり時間がないのよ」
二人は、私を残して歩き出した。
私は、銀杏の落ち葉の舞い散る中に立ちつくした。
涙も出なかった。
私が前世のことなど知るわけはないのに。
許せない。
あの二人の上に、虹など架かるわけがない、と思った。
これからだって、どんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、私があの二人の仲を引き裂いてやるのだ。
私は、静かに二人の後を追いかけた。
その人は、ゆっくりと視線をそらす。
アルバイト先の喫茶店に、近ごろ毎日のように来る人だ。たいてい窓際の小さい席でパソコンを広げている。長い足をもてあまし、窮屈そうに。三十才くらいだろうか。落ち着いているから、もっと上かもしれない。
茶色がかった長めの髪、異国の血が混じっているような、彫りの深い整った顔立ち。
一度雑誌で見たことがあるから、名前は知っていた。童話作家の
そんな人が店の常連というのは嬉しいことだ。
だが、そればかりではない。
藤宮さんは、いつも私を見ている。
いつも視線を感じてしまう。
なぜなのだろう。
私は、平凡な女の子だ。むしろ、地味で目立たない。
はじめは、私の思いすごしだと考えた。でも、藤宮さんの視線の先には私しかいなかった。目が合いそうになると、私たちは同時にうつむいてしまうのだ。
胸がくすぐったくなるような甘い空想をしては、打ち消す日々が続いた。
まさかね。
藤森さんが店に来るのは、私めあてだなんて。
家に並べた藤宮さんの本をうっとり眺め、そのたびに心が苦しくなった。いっそ、もう会えない方がいいのに。
その日、藤森さんは店に来なかった。
寂しかった。望んでいたこととはいえ、これほど辛くなるとは思えなかった。
仕事を終えて店を出ると、目の前に藤宮さんが立っていた。
私は息を呑んだ。顔がみるみる紅潮していくのが自分でもわかった。
藤宮さんは、私に軽く会釈した。
「少し、一緒に歩かない」
私は、どきまぎしながら、ようやく頷いた。
藤宮さんはとても背が高い。見上げると、眉を少しひそめた硬い表情。
「ずっと、きみを見ていた」
藤宮さんは、つぶやいた。
「確かめたかった」
「え?」
「きみが、私が探している人かどうか」
藤宮さんは何を言っているのだろう。
私たちは、街はずれの公園に入っていた。秋にしては暖かい日の夕方だった。平日なので人気はあまりない。花壇の前のベンチで、白髪のおばあさんが、のんびり本を読んでいた。
「『龍と虹の少女』、読んだことある?」
「もちろん」
私は小さく言った。
「好きです、あのお話」
藤宮さんのデビュー作だ。
ある山の洞窟深く、一匹の龍が棲んでいた。洞窟の入り口には滝があり、美しい虹が消えることはなかった。
人々は神の使いとして龍を崇め、季節ごとの供物を絶やさなかったけれど、ある年飢饉にみまわれた。思いあまった人々は少女を一人、龍に差し出した。
人身御供など望んでいなかった龍は困り果てるが、やさしい少女は龍とともに暮らし、やがて互いに愛しあうようになる。
幸せな生活を贈ってた龍と少女の前に現れたのは旅の剣士。龍退治に洞窟を訪れ、龍をかばった少女を殺してしまう。龍の怒りと悲しみはすさまじく、剣士を噛み殺した後、自分も心臓を食い破って命を絶った。少女がどんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、彼女を見つけ出すだろうと言い残して。
いくつもの転生を経て、虹の下、龍と少女は再び巡り会う──。
「あれは、ほんとうの話なんだ」
藤宮さんは大きな銀杏の木の下で立ち止まった。
「少女と巡り会うことをのぞいてはね」
藤宮さんは、まっすぐに私を見おろしている。
「私は龍だった」
私はあっけにとられて、藤宮さんを見返した。冗談を言っている顔ではなかった。
本当に?
それでは、虹の少女とは私のこと?
胸が高鳴った。
どんな世界、どんな姿になっても、藤宮さんはずっと私を捜し続けてくれたのだろうか。
藤宮さんは、私の肩に両手をのせた。
「それと、書かなかったこともある。龍は、剣士にも言った。どんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、おまえを見つけ出しては殺してやる」
長い指が、そろそろと私の首に這い上がってくる。藤宮さんの目が、何か異様な光を帯びてくる。
「待って‥‥」
「わたしは、おまえを殺し続けている。繰り返し繰り返し。何度生まれ変わっても彼女とは会えない。現れるのは、おまえばかりだ」
「私は‥‥」
「剣士の転生だ」
私は逃げようとしたが、身体が動かなかった。叫ぼうにも声が出なかった。
藤宮さんの指が私の喉にくい込んでくる。龍の鈎爪のように。
私は、恐怖に固く目を閉じた。
「もうやめて」
ちいさな声がした。藤宮さんの手がゆるんだ。
そろそろと目を開くと、ベンチに座っていたおばあさんが藤宮さんの手をとっている。
藤宮さんは、驚いたようにおばあさんを見つめていた。
「あなたは、憎しみに目がくらんで、私よりもその人ばかり捜していた」
藤宮さんは私から手を離し、じっとおばあさんを見つめた。
「ああ──」
「おかげで、いつもすれ違い」
「そうだったのか‥‥」
「私はここよ」
おばあさんは、やさしく微笑んだ。
「こんな姿になったけれど」
藤宮さんはうつむき、何度も何度もかぶりをふった。そして、おばあさんを抱きしめた。
おばあさんの身体は藤宮さんにすっぽりと包まれた。小さな皺だらけの手だけが、その震える背中をさすっていた。
「もういいわね、許してあげて」
藤宮さんは子供のように頷いた。
「行きましょう。私には、あまり時間がないのよ」
二人は、私を残して歩き出した。
私は、銀杏の落ち葉の舞い散る中に立ちつくした。
涙も出なかった。
私が前世のことなど知るわけはないのに。
許せない。
あの二人の上に、虹など架かるわけがない、と思った。
これからだって、どんな世界、どんな姿に生まれ変わっても、私があの二人の仲を引き裂いてやるのだ。
私は、静かに二人の後を追いかけた。