前菜

文字数 1,045文字

 [ Hors-d'oeuvre 前菜 ]
 Bâton mousse du saumon rouge et caviars
 紅鮭のムース バトン作りキャビア添え

【厨房】
 海原良枝は今夜の最後の予約客、手塚と和泉の二組を席に案内してからコックの山田敏夫に声をかけた。
「山田くん、解っていると思うけれど、和泉様のお料理、気をつかってね。今晩はご夫妻でお越しよ」
 敏夫にとってはそんなことくらい言われなくても十分気をつけているのだが、良枝の細かな情報は疎ましくはない。
「はい、オーナー。和泉様が奥様とご一緒にお出でになるのは、ずいぶんと久しぶりですね」
「真紀さんも気をつけてね。和泉様がここ何回か別の女性といらしているなどと、お話してはダメよ」
 良枝はウェトレスの真紀の方を向いて、人差し指を口にあてる仕草をした。「それから新規の手塚様、これからも利用していただけるように良いサービスを頼むわ」
「はい、わかっています」
 小さな声だった。
「どうしたの、元気がないわね。大丈夫?」
 良枝は、いつもと違う真紀を心配そうに見た。

【テーブルA】
「まぁ、すてき!」
 絵里は思わず声を上げた。
「そうだろ、ネットで調べて予約したんだ。なかなかいい店だね」 
 手塚純一は綺麗に盛り付けられたオードブルを見ながら誇らしげに応えた。揺れるキャンドルの灯が、皿の縁に料理の淡い影を映している。店内中央あたりだけが明るくなっていて、そこには白いピアノが浮かぶように据えられている。ちょうど〝ムーン・リバー″を演奏し始めたところだ。黒いドレスからのびたピアニストの細い腕が、鍵盤の上を滑らかに動いている。
 若い純一にとって、ここレストラン ラ・メールは手軽に利用できるような店ではない。今日一日で給料の一月分以上を使ってしまうだろう。すでに大半は指輪の代金として消えている。

【テーブルB】
 和泉は、鮎実の顔を正面から見るのは正月以来かな、と考えていた。家で食事をすることはある。が、新聞を見ながらのことが多い。意識的に鮎実との会話を避けているのだ。というより、逃げていると言っていい。二人でレストランを利用するのはおそらく一年ぶりだ。今夜は咲子とのことを言わなければならない。
 咲子とも何度かこの店で逢ってきた。オーナーの心地よい笑顔と、あまり構わないさりげない気配りが好きだった。
 和泉は、どのタイミングで話を切り出そうか、と宙を見つめた。
「あなた、いただきましょう」
 鮎実の声に慌ててナイフとフォークをとった。
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