肉料理

文字数 1,573文字

 [ Viande 肉料理 ]
 Canard de rôti au calvados
 鴨のロティ・カルバドスソース 焼きリンゴ添え

【厨房】
 敏夫は小鍋でソースを攪拌している。
「おい、バターを取ってくれ」
 後輩のコックに言いつけた。
「はい、これくらいでいいですか」
 若いコックはバターの欠片(かけら)を鍋に落とした。「山田さんフランス行き、良かったですね。僕は今日初めて知りましたよ」
「うん、皆に余計な気遣いをさせないように、あまり騒がないようにしていたんだ。オーナーと料理長しか知らなかったはずだよ」
 敏夫は赤ワインでソースの味を整える。
「しかし、オーナーはよく俺のことを観ていてくれたと思うよ。ただ、厨房に出入りしていたんじゃなかったんだ」
 オーブンから焼きあがった肉を取り出す。
「店に一年間欠員が出るにもかかわらず、シェフ協連の役員に推してくれてありがたいよ。お前にも迷惑をかけるけど、頼むな」
 真紀が料理を取りに来た。
 盛り付けられた肉にソースをかける。
 サラダとともに、サービスワゴンに載せる。
「料理が崩れないように静かに運べよ」敏夫が声をかける。
 真紀が返事をしようと敏夫を見る前に、良枝がやって来た。軽やかな足どりだ。
 真紀は、出しかけた返事を止めた。無言でワゴンを押して行く。すれ違ってから、ちらりと良枝に視線を走らせた。
「山田くん、日常で使うフランス語も勉強しなければならないわね」
 良枝は左手にガイドブックを持っている。
「ええ、一応勉強はしていました」
「あら、準備がいいわね」
 持っていた本を胸に抱いた。
「あの、オーナー。本当にありがとうございます」
「何言ってんのよ。私は私の店から日本に名のとおるようなシェフが出てくれれば嬉しいの。何年か観てきたけれど、山田くんなら一年間も本場で勉強すれば、絶対一流シェフに成長すると判断したのよ。出発するまで五ヶ月ね、忙しくなるわよ。デザートを出し終えたら少しお話しましょう」
 良枝は胸に抱いていた本を指で叩いた。

【テーブルA】
 絵里は、鴨肉と格闘している純一を見ながら考えている。
 ――純一はどんなセリフでプロポーズしてくれるのかな。何と応えてあげようか? すぐ、いいわ、じゃつまらないし、嬉しいわ、でもありきたりだし……。うん、思いっきり喜んで、大げさに返事してあげようかしら。それとも、今日はあたしの人生で二番目に忘れられない日になるわ、がいいかな。一番目は? って訊いてくるから、それは、あたしたちの結婚記念日よ、って答えるの……。
 純一は、うっとりしている絵里を見た。
 何か考え事をしているのかなー、今言っても、聞いてくれるかなー。

【テーブルB】
「咲子くんは、君にはかなわない、と言っていたよ。僕のために厭わず身を引いてくれるのは、与える愛だから、自分のは奪う愛だって」
「ええ、わたしも驚いたのだけれど、咲子さん、最後には泣いてしまったの。わたしは自分の事しか考えていなかった、って」
 曲は〝百万本のバラ″に替わった。
「咲子くんはこうも言っていた。僕は究極の愛で支えられていたんだ、と。でもそのことは、以前から感じていたそうだ」
 彼女は分かっていたんだ。君への愛の方が優っていたことを。――僕もだ。
 和泉はそう付け加えたかった。が、言い訳めいたことはしないでおこうと思った。
「わたしは、あなたがしたいことが出来るように、といつも考えてきたわ。自分を抑えたこともあった。今回もそうよ」
 それは――と言い、鮎実は和泉を見た。「あなたを信じていたから」
 鮎実は続ける。「でも、本当は胸がつぶれるような想いだった。一昨日は、怖かったのよ」
 鮎実は小さく笑った。が、笑顔の奥には、潤んだ目があった。
「すまなかった。僕は君の気持ちも考えないで、勝手なことをしてきたよ」
 和泉は眩しげな表情で鮎実を見た。
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