第8話 凶暴な口付け

文字数 2,557文字

 私は、賭けに勝った。

 彼を、自宅まで送った。やはり思った通り、彼の妻は、実家に帰っていた。でなければ、私に送らせたりしないだろう。私は思いを遂げる事ができた。その時間は幸せだった。たとえ、明日が来なくても。

 私は、幸福感を噛みしめながら、自分のアパートへと車を走らせた。半分の月は、丸みを帯びて控えめに地上を照らしていた。ほの暗い月光の中、アパート駐車場に車を入れる。足取りが軽い。このままずっと、月を眺めていたい程だ。満月の晴れがましさより、今の自分にぴったりだ。
 アパートの一階に部屋を借りていた。階段を上らずに済むので便利だった。治安としては、今一つなのだろうが。
 鍵を差し込んで、玄関に入り、ドアを閉めようとした時、外から靴の爪先が差し込まれた。反動で、上り框に尻餅を突いてしまった。何が起こったのか、と驚いた瞬間、ドアが全開になった。そのまま爪先の持ち主を見上げる。アイツだった。切長の目が、更に吊り上がっていた。こちらを鋭く睨みつけている。
「随分ご機嫌だな…」
 後手にドアを閉め、鍵を掛けた。私も無言で睨みつけた。
「何しに来たの」
「お前が、また何か考えているんじゃないかと思って、新幹線と電車を乗り継いで来たんだ。一足違いで、あいつが帰った後だった。多分お前と一緒だろうと思って、ここで待ってたんだ」
「何で、このアパートが分かったのよ」
「お前と同期の奴が、ここに入っていくのを見たことがある、と教えてくれた」
 心の中で、歯噛みした。あんなに気を付けていたのに、見られてたのか。
「随分遅かったな…。あいつに何をした?」
「何もしないわ。ちゃんと送り届けたわよ」
 奴は、私の襟元を掴んで、持ち上げた。手加減が無い。
「何を企んでるんだ」
 奴の手を思い切り振り払った。こっちだって手加減しない。
「触るな!それ以上近づくな!帰れ!」
 キッチンに走る。後ろから、奴が掴みかかる。一瞬速く、そこにあった包丁を掴み、奴に向き直る。手が震える。
「…お願いだから、今日だけは、私に触らないで。このまま帰って。お願いだから…」
 奴は、さすがに怯んだが、それも一瞬だけだった。こちらに一歩近づく。
「…いいさ。刺せよ。俺は、それだけのことを、お前にしてきた」
 それでは、だめだ。私の思った結末と、変わってしまう。
「…お願いだから、帰って…」
 奴の手が素早く伸びて、包丁を握った手を掴む。力づくで捩じ上げられる。流し台に、叩きつけられ、包丁が飛んだ。その拍子に、鮮血が散った。
 両手を掴まれたまま、部屋の奥に引き摺られていく。
 仰向けに倒され、その上に馬乗りにされた。全身で押さえ付けられ、身動きできない。真っ赤な雫が私の服を濡らしている。奴の血だった。
 奴の右手が、私の喉元に伸びる。気道を上から抑えてくる。
 息が詰まる。力が抜けていく。
 その隙をついて、服が引きちぎられる。叫ぼうにも声が出なかった。
 そして、奴の怒張に突き上げられた。ぐったりとなった私を苛んだ。その間にも、奴の手の甲から、血が流れ続けていた。
 …どうせなら、このまま締め殺してくれればいいのに。
 果てた後、奴は体を離して、血を拭うためのタオルを探した。そのチャンスを逃さなかった。本棚の上の薬瓶に手を伸ばした。そこには、この半年間、あちこちの病院を回り、コツコツと集めた錠剤が入っていた。体調不良と、不眠を訴えて四十錠ほど確保した。
 蓋を取って、瓶ごとあおった。
「バカ、よせ!」
 奴が気づいて、瓶を手で跳ね飛ばす。後ろから襟首を掴まれて、流し台に連れて行かれた。喉の奥に指を突っ込まれ、無理やり吐かされた。飲み込んだ分も、ほとんど出てしまった。それでも無理に水を飲まされ、吐かされ続けた。もう大丈夫だと思ったのか、奴が手を離した。私は、膝から崩れ落ちた。
「…何で、邪魔ばかりするの……」
 そのまま、意識が遠のいていった。

 気がつくと、窓から朝日が差し込んでいた。私は、着替えさせられていた。壁に掛けておいた紺色のワンピース。あの日の大事な思い出の品だった。これを着て、逝くつもりだった。
 部屋は、片付けられ、血は綺麗に拭き取られていた。私は、壁に寄り掛かって眠っているアイツに、後ろから抱き抱えられていた。体には、毛布が掛かっている。奴の手には、キッチンにあった布巾が巻かれていた。血が滲んでいる。
 私が目を覚ましたことに、気づいた。
「…大丈夫か?」
 静かな声だった。私は答えなかった。
「お前の家に電話した。お前が薬を飲んだことを伝えた。もうすぐここにお前の両親が来る」
 奴の意図するところが、飲み込めた。私が同じことを繰り返さないために、親の監視下に置くつもりだ。コイツは、私の企てを見抜いた。私が、いつにも増して触れられるのを拒んだことで、ピンときたのだろう。私の気を挫くために、暴力的に抱いたのだ。私が幸福感に包まれたまま、逝くことを許さなかった。 
「お前は、何も言わなくていい。俺が背負うから」
「楽にしてくれないのね…。私がこのタイミングで死ぬと、あの人の将来に傷が付くから…」
 奴は、無言だった。
「そこまでして、守りたいんだ…」
 涙が込み上げてきた。
「永すぎるのよ…。終わりにしたいの…」
 奴の腕に力が籠る。
「だめだ…」
「…何でよ」
 涙が頬を伝う。奴の右手が、後ろから伸びて、私の頬に触れた。自分の方に向かせる。唇と唇が触れた。そっと口付けをする。初めての事だった。
 あとは、何も言わず、私の肩を抱いていた。

 玄関のドアが叩かれた。奴がドアを開き、私の両親が入ってきた。私は、母に抱き抱えられた。父は奴に詰め寄った。
「どういうことだ!」
 奴は、真っ直ぐに父を見て、堂々と嘘をついた。
「お嬢さんとお付き合いさせていただいています。私が遠方に転勤になったことで、不安にさせてしまったようです。彼女が不安定になったのは、私の責任です。申し訳ありませんでした」
 頭を下げた。父は収まらなかった。奴の襟首を掴み、拳で二発、三発と殴った。
「二度と娘に近づくな…」
 奴は、腫れ上がった顔で、再び頭を垂れた。
「申し訳ありませんでした」
 私は、母に抱えられて、車に乗った。
 
 振り返らなかった。…振り返るものか。もう二度と会うことはないだろう。振り返るものか…。
 
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